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三条教区・三条別院 | 浄土真宗 真宗大谷派
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「『歎異抄』に聞く」を聞く
TANNISHO

2019年3月14日

「『歎異抄』に聞く」を聞く

【番外編】「『歎異抄』に聞く」を聞く。 林が森田輪番の法話を聞く【年頭会報告】

2月の末より廣河がインドへ勉学の旅の最中で不在につき、代わりに非常勤列座の林が書かせていただきます。

「『歎異抄』に聞く」というタイトルではありますが、この度は別の内容となります。

 

新年が明けて2か月が経ち、三条別院では2月28日(木)に年頭会が勤まりました。年の初めの法要ということで、お勤めの後に三条別院の輪番森田成美よりご法話頂きました。

内容

テーマは東日本大震災について

今から約9年前、2011年3月11日に東日本大震災がありました。それは地震だけではなく津波も起きる災害であり、その津波によって大多数の人が亡くなりました。亡くなる方だけではなく、家が無くなった方や福島原子力発電所の事故により家に住むことができなくなった方々避難者も大多数出ました。そのような大災害について森田輪番よりお話をいただきました。資料として、東日本大震災現地災害救援本部で働いていた木ノ下秀俊さんの<震災後の心のゆくえ「仏教の視点から」>(『月間同朋』2017年3月号)を引用されました。森田輪番は、震災が起きた時、まさに仙台教務所長(東北別院輪番)であり、現場で様々な対応の指揮をとっていました。

東日本大震災の当初、真宗大谷派仙台教区の仏教青年会はボランティアで動いていました。その時に何ができるか考え、3月というまだ冷える時期ということもあり暖を取るための灯油運びをしていたそうです。それから食料・飲料・毛布などがそろった後、お風呂に入りたいと言われてドラム缶でお風呂を沸かしたとのことでした。それは仏青お風呂プロジェクト(BOP)と名付けられました。お風呂についての批判もあったようで、「宗教者のやることか」「仏教者なら仏教者としてやるべきことがあるのではないか」「水を運ぶなら念仏を運べ」という声が上がったそうです。

 

「水を運ぶなら念仏を運べ」ということについて、念仏とは運ぶものではなく届くものである、と森田輪番は述べていました。運ぶと言ってしまうと、念仏を利することになってしまう。念仏とは、阿弥陀仏の本願が私に届いて言葉として出る事を言います。

また、『歎異抄』の聖道の慈悲・浄土の慈悲にもふれられました。この問題は、「『歎異抄』に聞く」で引き続き考えていきたいと思います。

次回、3月28日(木)の御命日のつどいでは、『歎異抄』第十七章について佐渡組廣永寺の大久保州氏よりお話しいただきます。

来月は帰国した廣河がこの場に戻ってまいりますので、いつもの【廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。】が再開となります。毎月楽しみにしてくださる皆様、来月をお楽しみに!!

2019年2月14日

「『歎異抄』に聞く」を聞く

廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。-第十六章-

2月に入り、降雪と体調が気になってしょうがない廣河です。皆さんいかがお過ごしでしょうか。去年の今頃は記録的な豪雪で、三条別院も二階の窓ガラスまで雪が積もって大変だった、なんてことも伝え聞きました。そんなところですから今年はどんなもんかと手ぐすね引いて過ごしているのですが、今のところ三条では降っては溶けてを繰り返している日々で、至って平和です。まあ、こんなことを書いたらフラグが立ってしまうのでもう書きません!

さて、廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く、第9回目です。1月28日(月)に宗祖御命日日中法要が勤められました。その後の御命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回は三条教区17組称名寺(新潟市西蒲区)の有坂次郎氏に、『歎異抄』「第十六章」を主題にご法話頂きました。

 

『歎異抄』「第十六章」

一 信心の行者、自然に、はらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶にもあいて口論をもしては、かならず回心すべしということ。

この条、断悪修善のここちか。一向専修のひとにおいては、回心ということ、ただひとたびあるべし。その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまわりて、日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、回心とはもうしそうらえ。一切の事に、あしたゆうべに回心して、往生をとげそうろうべくは、ひとのいのちは、いずるいき、いるいきをまたずしておわることなれば、回心もせず、柔和忍辱のおもいにも住せざらんさきにいのちつきば、摂取不捨の誓願は、むなしくならせおわしますべきにや。くちには願力をたのみたてまつるといいて、こころには、さこそ悪人をたすけんという願、不思議にましますというとも、さすがよからんものをこそ、たすけたまわんずれとおもうほどに、願力をうたがい、他力をたのみまいらするこころかけて、辺地の生をうけんこと、もっともなげきおもいたまうべきことなり。信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。しかれば念仏ももうされそうろう。これ自然なり。わがはからわざるを、自然ともうすなり。これすなわち他力にてまします。しかるを、自然ということの別にあるように、われものしりがおにいうひとのそうろうよし、うけたまわる。あさましくそうろうなり。

◎今回有坂氏より私訳を作っていただきましたので、それをそのまま掲載致します。

【私訳】

異議者は言います。「私たち信心の行者は、誰もが持っている貪・瞋・痴から起こる怒りや悪行や争いをしてしまったときは、その都度、かならず反省・修正しなければならない。そうすることが回心ということである。」

このようなことを主張するのは、悪を断ち善行を積まなければ往生出来ないという旧来の仏教観が、この人たちの心の中に色濃く残っているからなのでしょう。

一向専修のひと(ほんとうの真宗門徒=念仏の行者)であれば、回心という行為は人生でただ一回だけのことなのです。

このただ一回の回心というのは、それまでほんとうの浄土真宗である本願他力を知らなかった人が、自分の善行から生ずる功徳を積んで行かなければ往生出来ないのだという思いを捨てて、阿弥陀如来からの智慧を頂いて、阿弥陀如来の本願にこの身をおまかせいたしますと決心することを回心というのです。

ことあるごとに、そのたびごとに、回心して往生を遂げるのだ、などと信じていれば、結局、息を吐いていて、次の息を吸うまでのほんの瞬時の間に人生は終わってしまうものでありますから、ほんとうの回心をする時間などある筈もなく、安心してこの人生を送るという大事なことは出来なくなってしまいます。それでは阿弥陀如来の摂取不捨の本願力の有難さを踏みにじってしまうことになるのではないでしょうか。

「悪人をこそたすけるのだという、法蔵菩薩の誓願。これこそ人間の智慧を超えた有り難い誓願なのです。」と教科書に書いてあることをそのまま口に出して、さも解ったような気になっていても、「そうはいっても、なんぼなんでも極悪人をたすけることなどないのだろう。」と心の中で思っていて、本願他力を疑い、本願他力をたのむというこころが欠けていれば、真実報土への往生は叶わず、疑城・胎宮などという辺地の浄土(方便化身土)に生まれてしまいます。これはもっとも嘆かわしいことだとお思いください。

(回心して)信心が定まったら「往生する」のですが、但し「往生する」ということは、まったく阿弥陀如来のはからいによるものですから、人間側の思いや努力でどうにかなるものではありません。

自分が悪い人間だと承知していても、ますます本願他力の有り難さに感謝して生活してゆけば、自然の道理がはたらいて、穏やかで人にも優しい心が生じてくることでしょう。

いついかなるときでも、往生するには小賢しい思いを離れて、ただ阿弥陀如来のご恩の深いことを思い出せばよいのです。そうすればおのずから念仏も称えられるでしょう。そうなることを「自然」というのです。ですから人間の知恵の及ばない阿弥陀如来の本願力のはたらきを「自然」というのです。

これが「他力」というはたらきの正体です。そういう事であるにもかかわらず、真宗の「自然」という言葉を、全く別の意味で使い、知ったかぶりして人々に説いている者がいるという事が伝わってきます。それを説く人がいて、聞く人がいるということは悲しいことであります。

【語註】

あしざま…悪い行い。ひどいふるまい。

同朋同侶…同じ念仏の道を聞き生きていく友。

回心…ここでは悪を行ったとき、それを自分の努力で悔い改め、ひるがえすこと。

断悪修善…悪を断ち、善を修する、自力の努力。

一向専修のひと…ひとすじに本願を信じ、念仏する人々。

柔和忍…道理にかなった、おだやかな心。

辺地…念仏しながらも本願を疑い、自力をたのむ人の生まれるところ。

第十六章は、本願を信ずる心にめざめる「回心」とはどういうことなのかを明らかにするということに焦点があります。親鸞聖人は回心について、

「回心」というは、自力の心をひるがえし、すつるをいうなり〈中略〉自力のこころをすつというは、ようよう、さまざまの、大小聖人、善悪凡夫の、みずからがみをよしとおもうこころをすて、みをたのまず、あしきこころをかえりみず、ひとすじに、具縛の凡愚、屠͡沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら、無上大涅槃にいたるなり。(『真宗聖典』(『唯信鈔文意』)五五二頁)

と定義されています。つまり、自分の力でなんでもできると思っている考え方をひっくり返してすてることを回心といわれます。

この第十六章においても、「回心ということ、ただひとたびあるべし」と出ており、回心は人生において一度きりの経験だと述べられています。唯円の定義は「日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまわりて、日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、回心とはもうしそうらえ」とありますが、これは親鸞聖人の言う「自力の心をひるがえして、捨てる」ことを言いかえていると思われます。

法話の中で印象的だった言葉が、「異議者は教義に余計なものをひっつけたがる」という言葉でした。つまり、本来シンプルであるはずの要素に、余計なもの、つまり必要でないものであったり、むしろ邪魔になるであろうことも、自身の裁量で勝手にひっつけてしまうという性質が、人間にはあると有坂氏は述べます。回心ということについても、本来親鸞聖人の定義では「自力の心をひるがえし、すつ」という非常にシンプルな意味で定義されているところを、異議者は怒りや悪業を行ったときに、その都度反省するということを回心と言われているので、これは全く意味合いが違ってくるわけですね。唯円が述べるように、これは断悪修善、旧来の仏教観に基づく自力の行でしょう。この考え方は、日常生活を送る我々にも根強く残っていると言えるのではないでしょうか。自分が善いと思うことを励み、悪いと思うことはせず、してしまったら反省する。道徳的には、これらのことは正しいとされる行動で、この行動をする人は善人と呼ばれます。しかし、その善い悪いの判断の基準はどこにあるのでしょうか。自分が善いと思っていたことも、立場が違えば悪と見られることだってありえます。それこそ、善悪ということを(前例や経験、他者の助言などをふまえたとしても)自身の裁量で勝手に判断していると言えるのではないでしょうか。そこには結局、何がどれだけ善くて、どれだけ悪いか、〇〇と比べて、自分にとってどうかという、相対的な判断しかなく、絶対不変のものはありません。仏道修行においても、断悪修善の在り方は人間の側の思いや努力であり、相対分別の心を離れませんから自力なのですね。親鸞聖人は、そういった心をひるがえして、捨てることを回心と言われるのです。

また、法話の後の座談会では、特に生老病死の「生」について、皆さん思うところを話されました。つまり、老病死という苦の根源にある「生」ということが、果たして「生きること」なのか、それとも「生まれること」なのか。これらは同じ「生」ですが全くニュアンスが違いますね。「生きること」は、例えば老病死に代表される苦を受けながら人生を歩むことゆえに、苦と言うことができます。また「生まれること」も、生まれたその環境であったり、生まれ方、例えば産道を通る時に苦しい思いをしたりなど、そのとき意識はなくとも身体の記憶として残るケースもあるでしょう。

さて、仏教で教える「生」とはどちらの意味合いなのか、それともどちらでもないのか、どちらでもあるのか…話が平行線に差し掛かった時、主任列座の斎木さんが仰りました。「このままでは埒があきません!ここは一つ、今度インドに行く廣河くんに、「生」という言葉が実際にインドではどういった意味合いで用いられているのか、調べてきてもらうのはどうでしょう。」

突然自分の名を言われびっくりしました。なるほど、わからないことはわかる人に聞くのが一番です。引き受けざるを得ない!唯一の問題は私が日本語ぐらいしかまともに扱えないことくらいですが…この「生」の問題は教義にも関わる大事な問いでしょう。なので、いざとなれば肉体言語も辞さない覚悟で行く決意を固めました!期せずして大命を拝することとなった廣河。この「生」の問いに果たして答えはあるのか…報告はインド仏跡巡拝の記事と合わせて書きたいと思います。

次回、2月28日(木)の御命日のつどいでは、年頭会が勤まります。御参詣いただける方には、お斎をご用意させていただきます。次第としましては、午前10時よりおつとめ、輪番による年頭挨拶、法話、お斎となっております。お斎をお申込みの場合は準備の都合上、お手数ですが2月20日(水)までに当別院(℡:0256-33-0007)までご連絡していただきますよう、宜しくお願いします。ご法話は、三条別院輪番の森田成美よりお話しいただきます!お誘い合わせてお参りください。

ちなみに廣河はこのときインド巡拝中ですので、年頭会の記録は番外編として、頼もしい同僚列座にお願いする予定です!

फिर मिलेंगे।(また会いましょう)

 

 

2019年1月27日

「『歎異抄』に聞く」を聞く

廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。-第十五章-

もうそろそろ2月になってしまいますが…あけましておめでとうございます。廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。新年を迎えようやく平常運転、第八回目です。旧年中はご愛顧いただき誠にありがとうございました。本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

年末年始、皆さんはどのように過ごされましたか?廣河は除夜の鐘、修正会に加え、冬期休暇中も休暇を返上して別院の留守を預かっておりましたので、これまで自坊で過ごしてきた年末年始とは全く違う日々を過ごさせていただきました。何故休暇返上?と思われるかもしれませんが、実は廣河、2月末にお釈迦様生誕の地、インドに旅行の予定がありまして…。その旅行のために休みを返上したのですね。また詳しく書くかもしれません。さて、

12月28日(金)に宗祖御命日日中法要が勤められました。その後の御命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回は三条教区15組長泉寺(三条市上保内)の石塚祐堂氏に、『歎異抄』「第十五章」を主題にご法話頂きました。

長泉寺住職 石塚祐堂氏。

『歎異抄』「第十五章」

一 煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。この条、もってのほかのことにそうろう。

即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。

おおよそ、今生においては、煩悩悪障を断ぜんこと、きわめてありがたきあいだ、真言・法華を行ずる浄侶、なおもて順次生のさとりをいのる。いかにいわんや、戒行恵解ともになしといえども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらわれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてはそうらえ。

この身をもってさとりをひらくとそうろうなる人は、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益そうろうにや。これをこそ、今生にさとりをひらく本とはもうしそうらえ。

『和讃』にいわく「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」(善導讃)とはそうらえば、信心のさだまるときに、ひとたび摂取してすてたまわざれば、六道に輪廻すべからず。しかればながく生死をばへだておうろうぞかし。かくのごとくしるを、さとるとは言いまぎらかすべきや。あわれにそうろうをや。

「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならいそうろうぞ」とこそ、故聖人のおおせにはそうらいしか。(『歎異抄』真宗大谷派宗務所出版部)

【試訳】

「信心を得たならば、あらゆる煩悩を備えた身のままで、さとりを開くことができる」と主張することについて。この主張は、もってのほかのことである。

即身成仏(この身のままで仏に成ること)という教えは真言密教の根本義であり、三密行業の証果である。六根清浄という教えは、法華一乗の説くところであり、四安楽の行によって得られる功徳である。これらはみな、特に秀でた能力によって行ずることのできる難しい修行であり、精神統一して仏、菩薩をイメージすることにより成就するさとりである。それに対して、人間の時間意識を破って未来から開かれてくるさとりは、絶対他力を根本義とした浄土真宗の教えである。すなわち、いま、ここで本願力の信心に身も心も定まる道である。これこそ、まったく人間の能力や努力を必要としない普遍的な行であり、善人や悪人という相対的な意味づけや人間の小さな努力を救いの条件とはしない教えである。

だいたい、いのちのある間は、欲望や怒り、罪の意識を断ち切ることは、まったく困難であるから、真言や法華の行者ですら、次の生でさとりを開くことを祈るのである。まして、われらのように戒律や修行や知恵のないものが、この世で「さとり」を開くことなどないのである。しかし、阿弥陀の本願の船に乗って、迷いや罪で満ち満ちた苦海を渡り、浄土の岸に到着したならば、黒雲のような欲望や怒りの感情が晴れ、たちまちに真実が月明かりのように輝き、あらゆるところを照らす阿弥陀の光とひとつになって、あらゆる人びとを救うときにこそ、「さとり」とは表現するのである。

この身をもったままでさとりをひらくと言うひとは、お釈迦様のように、さまざまな姿をとって現れ、三十二相・八十随形好という瑞相を具え、法を説き、人びとを救いとろうとでもいうのだろうか。こういう基準を満たしてこそ、この世で「さとり」を開くと言いうるのであろう。

親鸞聖人の『和讃』には、「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」(決して壊れることのない信心が定まる、そのとき、阿弥陀如来の光に摂め取られ、永遠に迷いのいのちを超えたのである〈善導大師を讃嘆した和讃〉)とある。これは、信心が決定したとき、二度と捨てることのない阿弥陀の救いに摂め取られるならば、六道という迷いの生を繰り返すことはない。そうすれば、永遠に迷いの生活を超越することができるのである。このように受け止めることを、「さとる」というのである。混乱してはならない。まったく哀れなことである。

「浄土真宗の教えは、いま、阿弥陀の本願の教えを信じ、彼の土でさとりを開く」と、いまは亡き、親鸞聖人は仰せられたのである。

【語註】

三密行業の証果…身に印契を結び、口に真言を唱え、意(心)に仏を観ずるという密教の実践法。証果はさとりのこと。

六根清浄…眼・耳・鼻・舌・身・意という六根を整えて、自由自在な智慧のはたらきを得ること。人間の身心が清らかになった状態。

法華一乗の所説…すべての者が等しく救われると説く『法華経』の教え。

四安楽(しあんらく)の行…身口意のあやまちを離れる三善行と、慈悲行との、心身を安楽にする四つの行法。六根清浄はこの行によって感得される。自己の身心と他のひとを安らかにするための修行。

不簡善悪(ふけんぜんあく)の法…人を善悪で区別しない、平等に救済される道。

戒行恵解(かいぎょうえげ)…戒を保って修行し、智慧をもって道理を正しく理解すること。

法性の覚月…涅槃のさとり。これを闇夜を払う月に譬える。

応化の身…衆生を救うために、相手の願いに応じて、衆生の姿をとって現れた仏身。

三十二相・八十随形好(ずいぎょうこう)…仏の身体にそなわる、さまざまなすぐれた特徴。

第十五章は念仏者における「即身成仏の主張」を批判し、浄土真宗のさとりを明らかにするということに、焦点があります。さとりを開くことができるのは「この世」か「あの世」か。ここで聖道門の代表として挙げられている真言宗、法華宗は、この世でさとりを開くことを主眼としますが、浄土教では「彼の土のさとり」を説きます。

冒頭の異議者の主張は「煩悩をそなえた身のままで、さとりを開くことができる」というものです。こういった異議がなぜでてくるのか。これは、『親鸞聖人御消息集』すなわち親鸞聖人のお手紙の中で、親鸞聖人自身が「真実信心をえたる人をば、如来とひとし」と語っていたことに起因します。

まことの信心をえたる人は、すでに仏にならせ給うべき御みとなりておわしますゆえに、如来とひとしき人と経にとかれ候うなり。弥勒はいまだ、仏になりたまわねども、このたびかならずかならず仏になりたまうべきによりて、みろくをばすでに弥勒仏と申し候うなり。その定に、真実信心をえたる人をば、如来とひとしとおおせられて候うなり。また、承信房の弥勒とひとしと候うも、ひが事には候わねども、他力によりて信をえてよろこぶこころは如来とひとしと候うを、自力なりと候うらんは、いますこし承信房の御こころのそこのゆきつかぬようにきこえ候うこそ、よくよく御あん候うべくや候うらん。自力のこころにて、わがみは如来とひとしと候うらんは、まことにあしう候うべし。他力の信心のゆえに、浄信房のよろこばせ給い候うらんは、なにかは自力にて候うべき。よくよく御はからい候うべし(『真宗聖典』『親鸞聖人御消息集(広本)』五七九頁)

正嘉元(1257)年、親鸞聖人85歳のときに、弟子の浄信に宛てた手紙です。その内容は、承信が「如来とひとしというのは自力の信である」と批判していると浄信が伝えたことについて親鸞が返信して、「いま少し深く承信房には考えて欲しい」と承信の指摘を否定している内容です。

信心よろこぶ人を如来とひとしと同行達ののたまうは自力なり。真言にかたよりたり(『真宗聖典』『御消息集(善性本)』五八三頁)

これが承信の批判内容ですね。つまり、「信心をよろこぶ人を如来と等しいと貴方たちが言うのは、それは自力だ。真言宗(の即身成仏の説)に偏っている」といった内容です。

親鸞聖人は真宗の信仰を「如来とひとし」と積極的に表現したのですが、それがかえって門弟たちに誤解を与えてしまい、それで今回のような異議が出てきた、というわけですね。ちなみに親鸞聖人は「如来とひとし」について、以下のように述べています。

浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、如来と申すこともあるべし(『真宗聖典』『御消息集(善性本)』五九一頁)

つまり、身体とこころは別の次元にあることをいい、こころが如来と同じなのだと説明しています。しかし、真言宗の「即身成仏」は心身ともに仏と一体になろうとすることであるため、微妙ですが違います。このあたりが曖昧であったり取り違えてしまうと、今回の異議者の主張のようになっていくわけです。

さて、ご法話ではまず、この第十五章が誰に対して書かれているのか、ということを問いました。すなわち、それは自分。「他の誰か」ではなく、「自分自身」に書かれていると。何故そういえるのか。親鸞聖人の言葉は、至ってシンプルです。「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならいそうろうぞ」。本願を信じなさい、他に何もないよと。しかし、この言葉を聞いて、迷っているのは誰だろうか。他ならぬ私自身なのではないかと。むしろ、頭では「煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらく」と考えているのではないか。そこに、信じきれない自分が生まれてくる。だからこの第十五章は、「自分自身」のために書かれていると言われました。

さらにご法話では、「さとりを開く」とはどういうことなのかということを言われ、四門出遊のお話をされました。元々国の王子であったお釈迦様が、国の東西南北にある四つの門においてそれぞれ、老人に出あい、病に苦しむ人に出あい、死に至る人に出あい、最後に出家者の姿に出あい、修行され、菩提樹のほとりにてさとりを開かれた。この老病死、そしてこの身が生まれてきたということを含め生老病死、それらの出あいを通して、一番何を願われたか…。

併せて、親鸞聖人の妻である恵信尼がその娘の覚信尼に出していたお手紙の中の言葉を紹介されました。それは、「生死出づべき道」。生死(しょうじ)というのは、生と死と書いて生死と言うけれども、それは生まれきた苦しみ悩み、生きていく苦しみ悩み、そして死に至らんとする苦しみ悩み。それは迷いの姿であると。その、迷い、苦しみを、どうやったら超えていけるのか。そこを一番求めていくのが、仏道なのであったと、石塚さんは言います。お釈迦様も、親鸞聖人も、法然上人もみな、「生死出づべき道」を求めていたのだと。

「さとり」とは?

 

そして、求めていく中で何に気が付くか。どうしたら超えていけるのかといった時に、生死ということが、迷いではあるんだけれども、同時に「身の事実」と読めるんじゃないかと。我らは生まれて生きて、いずれ死ぬ。この「身の事実」ということを自覚させていただくのが、仏道なんじゃないか。それは、「どうにかなる我が身」を教えているわけではない。むしろ「どうにもならない我が身」にぶち当たっていく。この身はさとりを開ける身ではない。煩悩具足の凡夫なんだ。けれども、自分の能力とは全く関係なく、阿弥陀の本願を信じさせていただいて、浄土に往生させていただき、仏と成らせていただく。その歩みが仏道であり、浄土真宗なのだと言えます。

大事なことは、教えを教えとして、「私」は素直に聞けているのかということ。そして、廣河は素直に石塚さんのお話を聞けているのかということ…。あなたは、目の前のその人の話を、素直に聞けていますか?

明日、1月28日(月)の御命日のつどいでは、『歎異抄』第十六章をテーマに第17組稱名寺の有坂次郎さんよりお話しいただきます!

2018年12月25日

「『歎異抄』に聞く」を聞く

小原が「『歎異抄』に聞く」を聞く。-第十四章-【番外編】

あれ?今回もタイトルが違いますね。毎回ご好評いただいている「廣河が『歎異抄』に聞くを聞く。」七回目の今回は、廣河が本山の御正忌団参の引率のため不在だったので、代役として私、子煩悩列座の異名をとる小原が「『歎異抄』に聞く」を聞かせていただきました。

子煩悩列座、小原暁。その瞳の先に、何を見るのか―――――――。

お取り越し報恩講が終わり、ほっとしたのも束の間、11月28日(水)に宗祖御命日日中法要が勤まりました。その後の御命日のつどいでは、一昨年から『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回は三条教区第15組光善寺(三条市矢田)の佐々木憲雄氏に、『歎異抄』「第十四章」を主題にご法話頂きました。

光善寺住職 佐々木憲雄氏。三条真宗学院の先生をされていたり、法話のために各地に出向するなど、多岐にわたってご活躍されています。ホームページもあります。こちら!→光善寺

 

『歎異抄』「第十四章」

一 一念に八十億劫(こう)の重罪を滅(めっ)すと信ずべしということ。この条は、十悪五(じゅうあくご)逆(ぎゃく)の罪人、日ごろ念仏をもうさずして、命終(みょうじゅう)のとき、はじめて善(ぜん)知識(じしき)のおしえにて、一念もうせば八十億劫のつみを滅(めっ)し、十念もうせば、十八十(とはちじゅう)億劫(おくこう)の重罪を滅(めっ)して往生すといえり。これは、十悪五逆の軽重(きょうじゅう)をしらせんがために、一念十念といえるか、滅罪(めつざい)の利益(りやく)なり。いまだわれらが信ずるところにおよばず。そのゆえは、弥陀(みだ)の光明にてらされまいらするゆえに、一念発起(いちねんほっき)するとき、金剛(こんごう)の信心をたまわりぬれば、すでに定聚(じょうじゅ)のくらいにおさめしめたまいて、命終(みょうじゅう)すれば、もろもろの煩悩悪障(ぼんのうあくしょう)を転じて、無生(むしょう)忍(にん)をさとらしめたまうなり。この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか生死(しょうじ)を解脱(げだつ)すべきとおもいて、一生のあいだもうすところの念仏は、みなことごとく、如来(にょらい)大悲(だいひ)の恩を報じ徳を謝すとおもうべきなり。念仏もうさんごとに、つみをほろぼさんと信ぜば、すでに、われとつみをけして、往生せんとはげむにてこそそうろうなれ。もししからば、一生のあいだ、おもいとおもうこと、みな生死(しょうじ)のきずなにあらざることなければ、いのちつきんまで念仏退転(たいてん)せずして往生すべし。ただし業(ごう)報(ほう)かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあい、また病悩(びょうのう)苦痛(くつう)せめて、正念(しょうねん)に往せずしておわらん。念仏もうすことかたし。そのあいだのつみは、いかがして滅(めっ)すべきや。つみきえざれば、往生はかなうべからざるか。摂取不捨(せっしゅふしゃ)の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、悪業をおかし、念仏もうさずしておわるとも、すみやかに往生をとぐべし。また、念仏のもうされんも、ただいまさとりをひらかんずる期(ご)のちかづくにしたがいても、いよいよ弥陀(みだ)をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそそうらわめ。つみを滅(めっ)せんとおもわんは、自力のこころにして、臨終(りんじゅう)正念(しょうねん)といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにてそうろうなり。(『現代語 歎異抄 いま、親鸞に聞く』朝日新聞出版)

【試訳】

「南無阿弥陀仏」とひと声念仏することによって、八十億劫という果てしない時間に私が犯してきた罪を一気に消滅させることが出来る、と信じなさいということについて。

平生、念仏を称えることなくして臨終を迎えた十悪五逆の罪人が、生まれて初めてよき師の教えに遇い、ひと声称えれば八十億劫の罪を消し、十声称えれば十倍の八百億劫の重罪を消して浄土へ往生することが出来るというこの主張は、『観無量寿経』(下々品(げげぼん)の経文)を根拠とするものである。これは、十悪・五逆の罪がどれほど重いかを我々に教えるために、一声・十声と表現しているのであろうか。これは、念仏が罪を消すという利益を表している。しかし、いまだ我々が信ずるところのものではない。その理由は、阿弥陀の光に照らされて、本願によって生きようというこころが湧き起こる。それは金剛のように堅い信心を獲得(ぎゃくとく)しているのであるから、すでに正定聚(しょうじょうじゅ)の次元に包摂(ほうせつ)され、命終したときには、さまざまな煩悩や悪業を転換して、無常菩提を開くことができるのである。この阿弥陀の悲願がなかったならば、私たちのように目先のことに翻弄され、罪に無感覚である人間が、どのようにして迷いの眼をひるがえして、真実に目覚めて生きることができようか。そのように受け止めれば、一生のあいだ称える念仏は、ひとつ残らず如来大悲のご恩への感謝の表れであると思われてくるだろう。念仏を称えるたびごとに、自分の犯した罪を消そうと思うのは、自分の力で罪を消して、弥陀の浄土へ往生しようと努力することになるのである。もしそうであれば、一生のあいだのありとあらゆる思いはすべて迷いの生活へつなぎとめる鎖となるから、命が終わるまで念仏を称え続けて初めての往生が可能であろう。ただし、人間の生存は、自由意志のままにならない限定性を生きるものであるから、どんな思いがけないことに会うかもわからず、心身の病の苦しみに責められ、臨終にこころが乱されて、念仏を称えて終わることができないかもしれない。そのあいだの罪は、どのようにして消すことができようか。罪が消えなければ、往生は不可能なのか。我々を摂(おさ)めとって捨てない弥陀の本願を信ずれば、どのような不慮のことにも会い、罪業を犯し、たとえ念仏を称えずにいのちが終わろうとも、本願のはたらきで直ちに往生を遂げることができるのである。また、いのちの終わりに念仏が称えられたとしても、それは今まさに浄土のさとりが開かれるときが近づいて、いよいよ弥陀の大悲を信じ、救われるご恩への感謝を表すことになるのである。念仏を称えて罪を消そうと考えるのは、自力の発想であり、臨終にこころの乱れをなくして念仏しようとするひとの本音であるから、そのひとは他力の信心がないのである。

【語註】

八十億劫の重罪…人間がもっている罪の深さを教えるために、無限の時間の感覚で表現したもの。

十悪五逆…『観無量寿経』には、「五逆十悪具諸不善」とある。仏が説かれる、さまざまな因縁のなかで悪を犯してしか生きざるを得ない人間存在の姿。

善知識…「善親友」ともいう。仏道に教え導き入れるひと。「有縁の知識」(歎異抄 序文)と同義。

無生忍…「無生法忍」の略。虚偽を超えた真実である無上涅槃をさとること。親鸞の用法では、真の仏弟子の利益として無生忍を押さえている。

正念…一般的には、八正道(理想の境地に達するための八つの方法)のなかのひとつ。仏道に適った正しい想念の意。親鸞聖人は、称名念仏を「正念」と理解している。

 

第十四条は、「滅罪」がテーマになっています。まず、唯円が異義として取り上げるのは、「ひと声念仏することによって、八十億劫の重罪を滅することができると信じなさい」という主張です。簡単に言えば、念仏を自分の罪滅ぼしの道具のように使うことの問題です。

一方、唯円の受け取っている念仏のありようは、「一生のあいだもうすところの念仏は、みなことごとく、如来大悲の恩を報じ徳を謝すとおもうべきなり」です。罪のある自分をたすけてくれるのが阿弥陀如来であって、そのことへの感謝が念仏なのだから、念仏を道具のように使ってはならない、と唯円はいいます。

浄土三部経のひとつである『仏説観無量寿経』の「下下品」に、救いの手がかりの一番少ない者の救いを課題とした箇所があります。「十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く」。意訳すると、「悪人が臨終に際して、念仏の師から教えられて、南無阿弥陀仏を十回称えたならば、八十億劫という膨大な量の罪を除かれる」となります。この教えをそのまま信じているのが異義者です。

第十四章には、臨終行儀(臨終の死の迎え方)に関する問題が論じられています。人は臨終のとき、念仏してその功徳で罪を消そうとしますが、臨終の苦しみにあるとき、教義について考える余裕はありません。『観経』で語られているのはこの臨終の真実だと思うのですが、それを普遍化し、罪を作ったらその都度念仏で浄化するという思想は間違いだと唯円は言うのでしょう。罪への感覚がとても鋭敏だったであろう中世、漁業や農業、商業などの私たちがいのちを保っていくために必要なこと自体に罪の意識がありました。現代では、食料をスーパーなどで買い、いのちを奪っているという感覚があまりありませんね。

佐々木先生の法話では、「臨終」と「命終」の言葉のちがいについてお話しされたことが印象的でした。「臨終」は「いのちが終わるとき」という意味ですが、第十四章にある「命終」とは、「念仏申す生活を決めたとき」と解釈し、著者である唯円もそういった意味で「命終」ということばを使っているのではないか、と仰っていました。

「臨終」と「命終」。現代においてはほぼほぼ同じ意味で使われていますが、本文を読めば頷けるように、明らかに著者は区別して使われていますね。佐々木先生の仰る上記の解釈は一つの捉え方であり、問題提起です。皆さんはどう考えますか?

次回、12月28日(金)の御命日のつどいでは、『歎異抄』第十五章をテーマに第15組長泉寺の石塚祐堂氏よりお話しいただきます。

そしておそらく次回より、「廣河が『歎異抄』に聞くを聞く」通常営業となることでしょう!廣河ファンの皆さん、乞うご期待です!

2018年12月6日

「『歎異抄』に聞く」を聞く

廣河が「『歎異抄』に聞く」で話す-第十三章-

おや、今回タイトルが少し違うな?と思ったそこの貴方。冴えてますね!「廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。」第六回目、今回は番外編となります。かなり希有な体験をさせていただいたんですが、今回の御命日のつどい、元々お話頂く予定だった村山まみ氏がご都合により来られなくなり、その場合本来であれば御輪番か教区駐在教導さんにお願いしましてご法話いただくのですが、なんと2018年10月の28日は日曜日、つまり教務所は一律お休みなのです。ちなみにややこしいのですが、別院と教務所で、休日規定ほか、労務規定なども別々なのですね。なので御命日は別院職員のみの出勤だったのですが、なんと頼みの綱の斎木主任も都合によりお休み!おやおやこれはどうなることやらと、まるで他人事のように構えていた廣河でしたが、前日27日の夜に、主任からお電話・・・。胸騒ぎを覚えつつ話を聞きますと、不安は的中。『歎異抄』「第十三章」をお話してくれないかということでした。一瞬放心してしまいました。しかし、主任たってのお願い、断るわけにはいきません!承諾し、その日は一夜漬けで「第十三章」の勉強をし、28日御命日の集いに臨みました。今回の経緯はこんなところです。正直、一夜漬けで勉強した内容をお話するというのは非常に心苦しく、参詣に来られた方に申し訳ないなとも思いましたが、今までに勉強してきた知識、経験を総動員して、自分なりに精いっぱいお話させていただきました。

徹夜明け、満身創痍の廣河です。

 

『歎異抄』「第十三章」

弥陀の本願不思議におわしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、往生かなうべからずということ。この条、本願をうたがう、善悪の宿業をこころえざるなり。よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。悪事のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり。故聖人のおおせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。また、あるとき「唯円房はわがいうことをば信ずるか」と、おおせのそうらいしあいだ、「さんぞうろう」と、もうしそうらいしかば、「さらば、いわんことたがうまじきか」と、かさねておおせのそうらいしあいだ、つつしんで領状もうしてそうらいしかば、「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、おおせそうらいしとき、「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と、もうしてそうらいしかば、「さてはいかに親鸞がいうことをたがうまじきとはいうぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と、おおせのそうらいしは、われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしとおもいて、願の不思議にてたすけたまうということをしらざることを、おおせのそうらいしなり。そのかみ邪見におちたるひとあって、悪をつくりたるものを、たすけんという願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいいて、ようように、あしざまなることのきこえそうらいしとき、御消息に、「くすりあればとて、毒をこのむべからず」と、あそばされてそうろうは、かの邪執をやめんがためなり。まったく、悪は往生のさわりたるべしとにはあらず。「持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきや」と。かかるあさましき身も、本願にあいたてまつりてこそ、げにほこられそうらえ。さればとて、身にそなえざらん悪業は、よもつくられそうらわじものを。また、「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり」と。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とこそ、聖人はおおせそうらいしに、当時は後世者ぶりしてよからんものばかり念仏もうすべきように、あるいは道場にはりぶみをして、なむなむのことしたらんものをば、道場へいるべからず、なんどということ、ひとえに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮をいだけるものか。願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよおすゆえなり。さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ。『唯信抄』にも、「弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくわれがたしとおもうべき」とそうろうぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにてそうらえ。おおよそ、悪業煩悩を断じつくしてのち、本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもいもなくてよかるべきに、煩悩を断じなば、すなわち仏になり、仏のためには、五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不浄、具足せられてこそそうろうげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を、本願ぼこりという、いかなる悪か、ほこらぬにてそうろうべきぞや。かえりて、こころおさなきことか。(『歎異抄』真宗大谷派宗務所出版部)

【試訳】

人間の思慮を超えた阿弥陀の本願が「悪人を救う教え」であるからといって、悪を犯すことを恐れないのは「本願ぼこり」であり、「阿弥陀の浄土へ往生することができない」ということについて。この主張は、阿弥陀の本願への疑いであり、善悪の行為が人間の思いを超えた無数の条件や契機に促されていることを理解していないのである。善い行いをしようという思いも、善を促す無数の背景や条件から起こってくるものであり、悪い行いが心に浮かぶのも、思いを超えた無数の背景や条件がそうさせるのである。いまは亡き親鸞聖人は、「兎や羊の毛の先にある塵のような小さい罪(チラッと心をかすめるような悪意)を犯すのも、すべて思いを超えた無限の因縁が背景にあると感知すべきである」とおおせられた。また、あるとき聖人が「唯円房よ、あなたは私の言うことを信じ受け入れるか」とおおせられたので、「もちろんです」と申しあげた。そうしたところ、「それでは、私が言うことに背かないか」と、さらに重ねて念を押されたので、誓って背きませんと申しあげた。すると聖人は「それではまず、ひとを千人殺してみなさい。そうすれば、浄土への往生は決定するであろう」とおおせになった。それに対して「聖人のおおせではありますけれども、たとえ、一人たりとも私のようなものには殺せそうに思えません」と答えたところ、聖人は「それでは、どうして私が言うことに背かないと言ったのですか」とおおせられて、「これによって、わかるでしょう。すべてのことが、自分の思うままになるのであれば、浄土往生のために、ひとを千人殺せと言われたならば、ただちにそうできるはずである。しかし、一人たりとも殺してしまうような宿業の深い背景がないから、殺せないのである。私のこころが優しく善良であるから、殺さないのではない。また殺すまいと思っていても、百人はおろか、千人を殺してしまうこともあるのだ」とおおせになった。それは、私たちのこころが善ければたすかるような存在だと思い、悪ければたすからないような存在だと思って、自分の善悪の基準に固執し、広大な本願によって善悪を超えてたすけられることを知らない、ということを教えてくださったのである。以前、親鸞聖人のおられたころ、間違った考えに陥ったひとがあって、「悪を犯したものを、たすけようという本願なのだから、意識的に、好んで悪を犯して、往生のための条件とするのだ」と言って、さまざまに悪いうわさが聞こえてきたとき、聖人がお手紙に「薬があるからといって、あえて毒を好んではならない」と、お書きになったわけは、その誤った考えを正すためである。そう言ったからといって、悪事が往生の障害であるというわけではない。「もし、戒律をたもつことによってのみ、本願を信じられるのであれば、私たちは、どうして迷い苦しみの尽きない生活を離れることが可能であろうか」 とおっしゃった。このように愚かな身であっても、阿弥陀の本願に出遇うことができてこそ、ほんとうの自信と自尊心とを得ることができるのである。そうであるからといって、身に悪事を犯す条件が備わらなければ、自分勝手に悪事などは犯せないものなのだ。また、親鸞聖人は、「海川に網を引き、釣りなどの漁業をして暮らすものも、野山に鹿・猪・鳥を捕っていのちをつなぐものも、商いをしたり、田畠を耕して生きるものも、まったく同じことである。このように自己のいのちの底深くからもよおしてくる条件が与えられるならば、どのような行為をもするものだ」と語られたのだ。このごろは、自分こそが真の念仏者だというような振る舞いをして、善人だけが念仏することができるかのように考え、例えば、念仏の道場に、禁止事項を書いた紙を貼り、「○○のことをしたものは、道場に入ってはならない」などということは、ただただ外見には真面目な念仏の行者を装って、内心には虚偽をいだいているものではないのか。たとえ、本願に甘えて犯した罪であっても、それは人間には知り得ないほど深い必然性の作用なのである。そうであれば、善いことも、悪いことも、思いを超えた必然性を受け入れて、ただただ、本願にすべてをまかせて立ち上がることこそが、他力の教えではないであろうか。『唯信抄』にも、「私のように罪深い身が救われるはずがないと考えてしまうのは、阿弥陀の救済の力が、どの程度のものだと考えてのことだろうか」と言われている。阿弥陀の本願に甘えるこころがあってこそ、絶対他力にすべてをおまかせする信心も定まってくるのである。そもそも、悪業や煩悩を完全に断ち切ってから、本願を信ずるということであれば、本願に甘えることもなくてよいのであろう。しかし、煩悩を断ち切ったならば、それは仏に成ったということであり、仏のためには、どのようにしても衆生を救いたいという無上の本願も無意味だということになるであろう。「本願ぼこり」はよくないと批判している人びとも、実は煩悩を抱えておられることであろう。それはそのまま、本願に甘えているということではないのだろうか。どのような悪を、本願に甘える「本願ぼこり」というのか、またどのような悪が、本願に甘えないというのであろうか。本願ぼこりでは往生できないという主張は、実に幼稚な考えではないだろうか。

【語註】

本願ぼこり・・・阿弥陀の本願に甘えて、思い上がり、いい気になること。「悪人をたすけるのが阿弥陀の本願だ」と受け止め、あえて悪事を行い、阿弥陀如来に気に入られようとする邪説。

唯円は、「本願ぼこり」の主張を批判しつつ、「本願にほこる」ことが、他力の信心であると意味転換していく。

宿業・・・無始已来(むしいらい)の行為や経験の蓄積が、現在の自己となっているという存在理解が仏教の立場である。したがって、現在の行為や経験は、過去の行為や決断の結果の影響を受けるが、「現在」は、善悪の両面の可能性を孕(はら)んでいる。「過去」に対する自己の責任感と、「未来」に対する安心感を包んだ概念である。

御消息・・・『親鸞聖人御消息集』(広本)第一通(『真宗聖典』五六一頁参照)を指す。

持戒持律・・・仏教徒の守るべき規範(戒と律)を保つこと。代表的な規範として五戒(生き物を殺さない・盗みをしない・嘘をつかない等)がある。

『唯信抄』・・・聖覚(せいかく)(一一六七年~一二三五年)の著。法然門下であり、親鸞の兄弟子。親鸞は、この書を門弟に対してたびたび勧め、この書の注釈書として『唯信鈔文意(もんい)』を著している。

五劫思惟の願・・・阿弥陀仏が菩薩としてはたらく姿を、法蔵菩薩という。法蔵菩薩は、五劫という永遠の時間をかけて、一切衆生を救う願いを発した。その願いのこと。これは『仏説無量寿経』に説かれている。

煩悩不浄・・・煩悩と不浄は、同義語である。『教行信証』「真仏土巻(しんぶつどのまき)」には「心もし有漏なるを名づけて不浄と曰う」(『涅槃経』「徳王品」からの引用〈『真宗聖典』三〇七頁〉)とある。「有漏」は煩悩の異名。

『歎異抄』「第十三章」は「第九章」と同じく親鸞聖人と唯円房の会話パートがありますね。ここで聖人の仰られている「人を千人殺してんや」から始まる一節は、聖人が思いつきで述べた言葉というわけではなく、『央掘摩経(おうぐつまきょう)』というお経で言われる、央掘摩羅(アングリマーラ)のお話が背景、出典となっています。興味のある方は調べてみてください。

さて、「第十三章」は「本願を信じた人は悪を怖れることはないというのは、本願にあまえているのであって、往生できない」とする見解を正す、というところに焦点があります。「本願ぼこり」の問題ですね。「本願ぼこり」とは、悪事を犯したものをたすける本願があるのだから、意図的に悪事を犯そうとする人びとのことを言っています。このことは当時、親鸞聖人の「悪人正機説」を逆手に取る人たちが増えたことが、問題としてあったことに起因します。

「悪人であればこそなお、浄土に往生できるのなら
悪いことをわざとした方が浄土に行けるんじゃないか」

などと考える民衆が増加したのです。
このことを咎めて、著者は親鸞聖人の出されたお手紙『御消息集』から
「薬あればとて、毒をこのむべからず」と仰った聖人の言葉を引いています。

え(酔)いもさめぬさきに、なおさけをすすめ、
毒もきえやらぬものに、いよいよ毒をすすめんがごとし。
くすりあり毒をこのめ、とそうらんことは、
あるべくもそうらわずとぞおぼえそうろう」(『親鸞聖人御消息集(広本)』真宗聖典 五六一頁)

【試訳】
「酒を飲み、その酔いも醒めぬ人に、また酒を勧めることは
毒を飲み、その解毒剤も効かぬうちに、また毒を飲ませるように
いくら解毒剤があるからといって、毒を飲んでも大丈夫だというのは
根本的に必要のない考え方でありましょう。」

ここで、「本願ぼこり」の人びとを批判していますね。ところが、『歎異抄』著者の批判の焦点はそこにはありません。最後には「本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不浄、具足せられてこそそうろうげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を、本願ぼこりという、いかなる悪か、ほこらぬにてそうろうべきぞや。」と述べて、「本願ぼこり」を批判している人びとにこそ焦点を当てています。

 

そしてまた、このような言葉ものこされています。

「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、
野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつなぐともがらも、
あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり。」

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」

人間の深い悲しみ、罪業性が、この一文で見事に言い当てられているように思います。

人間が、自分の頭で「こうしよう」「ああしよう」と、どれだけ計画したところで、何かの原因と条件が揃った時には、自分の意思を超えて、人は何をするか分からない。

ある日、人は、謂れもなく殺される日があるかも知れず、ある日、人は、謂れもなく人を殺す日が来るかも知れない。

「自分だけはそんな目に遭うはずがない」だとか、「自分だけはそんなことをするはずがない」と考えることは、「自分」が「自力」と約束しているだけの、根拠のないことなのでしょう。

私たちは、たまたま生まれ育った境遇や、現在の生活や人間関係が犯罪を促すようなものでないので、今は重罪を犯すことが思いもよらないだけなのです。もし、考えもおよばないような情況に追いつめられたり、犯罪を引き起こすような条件が周りにそろってしまったならば、自分も何をしでかすか分からない。このような罪業性をもつ我が身のあり方は、正しく「いずれの行もおよびがたき身」でしょう。そして、このような私だからこそ、救わずにおれないという弥陀の大悲に、頭が下がるということがあるように思います。

次回11月28日(水)の御命日のつどいでは、『歎異抄』「第十四章」をテーマに第15組光善寺の佐々木憲雄氏よりお話頂きました(過去形ですみません!)。この時廣河は、京都の真宗本廟(東本願寺)の御正忌報恩講団体参拝に引率として出張っていたので、代わりに子煩悩列座の小原暁さんに「『歎異抄』に聞く」を聞いていただきました!お願いし、記事も書いていただく予定です。番外編が続きますが、ご容赦頂ければ幸いです。

 

 

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