どんな日も、どんな時代も、そばにある。

三条別院|浄土真宗 真宗大谷派
三条別院|浄土真宗 真宗大谷派

「『歎異抄』に聞く」を聞く
TANNISHO

2019年1月27日

「『歎異抄』に聞く」を聞く

廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。-第十五章-

もうそろそろ2月になってしまいますが…あけましておめでとうございます。廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。新年を迎えようやく平常運転、第八回目です。旧年中はご愛顧いただき誠にありがとうございました。本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

年末年始、皆さんはどのように過ごされましたか?廣河は除夜の鐘、修正会に加え、冬期休暇中も休暇を返上して別院の留守を預かっておりましたので、これまで自坊で過ごしてきた年末年始とは全く違う日々を過ごさせていただきました。何故休暇返上?と思われるかもしれませんが、実は廣河、2月末にお釈迦様生誕の地、インドに旅行の予定がありまして…。その旅行のために休みを返上したのですね。また詳しく書くかもしれません。さて、

12月28日(金)に宗祖御命日日中法要が勤められました。その後の御命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回は三条教区15組長泉寺(三条市上保内)の石塚祐堂氏に、『歎異抄』「第十五章」を主題にご法話頂きました。

長泉寺住職 石塚祐堂氏。

『歎異抄』「第十五章」

一 煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。この条、もってのほかのことにそうろう。

即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。

おおよそ、今生においては、煩悩悪障を断ぜんこと、きわめてありがたきあいだ、真言・法華を行ずる浄侶、なおもて順次生のさとりをいのる。いかにいわんや、戒行恵解ともになしといえども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらわれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてはそうらえ。

この身をもってさとりをひらくとそうろうなる人は、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益そうろうにや。これをこそ、今生にさとりをひらく本とはもうしそうらえ。

『和讃』にいわく「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」(善導讃)とはそうらえば、信心のさだまるときに、ひとたび摂取してすてたまわざれば、六道に輪廻すべからず。しかればながく生死をばへだておうろうぞかし。かくのごとくしるを、さとるとは言いまぎらかすべきや。あわれにそうろうをや。

「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならいそうろうぞ」とこそ、故聖人のおおせにはそうらいしか。(『歎異抄』真宗大谷派宗務所出版部)

【試訳】

「信心を得たならば、あらゆる煩悩を備えた身のままで、さとりを開くことができる」と主張することについて。この主張は、もってのほかのことである。

即身成仏(この身のままで仏に成ること)という教えは真言密教の根本義であり、三密行業の証果である。六根清浄という教えは、法華一乗の説くところであり、四安楽の行によって得られる功徳である。これらはみな、特に秀でた能力によって行ずることのできる難しい修行であり、精神統一して仏、菩薩をイメージすることにより成就するさとりである。それに対して、人間の時間意識を破って未来から開かれてくるさとりは、絶対他力を根本義とした浄土真宗の教えである。すなわち、いま、ここで本願力の信心に身も心も定まる道である。これこそ、まったく人間の能力や努力を必要としない普遍的な行であり、善人や悪人という相対的な意味づけや人間の小さな努力を救いの条件とはしない教えである。

だいたい、いのちのある間は、欲望や怒り、罪の意識を断ち切ることは、まったく困難であるから、真言や法華の行者ですら、次の生でさとりを開くことを祈るのである。まして、われらのように戒律や修行や知恵のないものが、この世で「さとり」を開くことなどないのである。しかし、阿弥陀の本願の船に乗って、迷いや罪で満ち満ちた苦海を渡り、浄土の岸に到着したならば、黒雲のような欲望や怒りの感情が晴れ、たちまちに真実が月明かりのように輝き、あらゆるところを照らす阿弥陀の光とひとつになって、あらゆる人びとを救うときにこそ、「さとり」とは表現するのである。

この身をもったままでさとりをひらくと言うひとは、お釈迦様のように、さまざまな姿をとって現れ、三十二相・八十随形好という瑞相を具え、法を説き、人びとを救いとろうとでもいうのだろうか。こういう基準を満たしてこそ、この世で「さとり」を開くと言いうるのであろう。

親鸞聖人の『和讃』には、「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」(決して壊れることのない信心が定まる、そのとき、阿弥陀如来の光に摂め取られ、永遠に迷いのいのちを超えたのである〈善導大師を讃嘆した和讃〉)とある。これは、信心が決定したとき、二度と捨てることのない阿弥陀の救いに摂め取られるならば、六道という迷いの生を繰り返すことはない。そうすれば、永遠に迷いの生活を超越することができるのである。このように受け止めることを、「さとる」というのである。混乱してはならない。まったく哀れなことである。

「浄土真宗の教えは、いま、阿弥陀の本願の教えを信じ、彼の土でさとりを開く」と、いまは亡き、親鸞聖人は仰せられたのである。

【語註】

三密行業の証果…身に印契を結び、口に真言を唱え、意(心)に仏を観ずるという密教の実践法。証果はさとりのこと。

六根清浄…眼・耳・鼻・舌・身・意という六根を整えて、自由自在な智慧のはたらきを得ること。人間の身心が清らかになった状態。

法華一乗の所説…すべての者が等しく救われると説く『法華経』の教え。

四安楽(しあんらく)の行…身口意のあやまちを離れる三善行と、慈悲行との、心身を安楽にする四つの行法。六根清浄はこの行によって感得される。自己の身心と他のひとを安らかにするための修行。

不簡善悪(ふけんぜんあく)の法…人を善悪で区別しない、平等に救済される道。

戒行恵解(かいぎょうえげ)…戒を保って修行し、智慧をもって道理を正しく理解すること。

法性の覚月…涅槃のさとり。これを闇夜を払う月に譬える。

応化の身…衆生を救うために、相手の願いに応じて、衆生の姿をとって現れた仏身。

三十二相・八十随形好(ずいぎょうこう)…仏の身体にそなわる、さまざまなすぐれた特徴。

第十五章は念仏者における「即身成仏の主張」を批判し、浄土真宗のさとりを明らかにするということに、焦点があります。さとりを開くことができるのは「この世」か「あの世」か。ここで聖道門の代表として挙げられている真言宗、法華宗は、この世でさとりを開くことを主眼としますが、浄土教では「彼の土のさとり」を説きます。

冒頭の異議者の主張は「煩悩をそなえた身のままで、さとりを開くことができる」というものです。こういった異議がなぜでてくるのか。これは、『親鸞聖人御消息集』すなわち親鸞聖人のお手紙の中で、親鸞聖人自身が「真実信心をえたる人をば、如来とひとし」と語っていたことに起因します。

まことの信心をえたる人は、すでに仏にならせ給うべき御みとなりておわしますゆえに、如来とひとしき人と経にとかれ候うなり。弥勒はいまだ、仏になりたまわねども、このたびかならずかならず仏になりたまうべきによりて、みろくをばすでに弥勒仏と申し候うなり。その定に、真実信心をえたる人をば、如来とひとしとおおせられて候うなり。また、承信房の弥勒とひとしと候うも、ひが事には候わねども、他力によりて信をえてよろこぶこころは如来とひとしと候うを、自力なりと候うらんは、いますこし承信房の御こころのそこのゆきつかぬようにきこえ候うこそ、よくよく御あん候うべくや候うらん。自力のこころにて、わがみは如来とひとしと候うらんは、まことにあしう候うべし。他力の信心のゆえに、浄信房のよろこばせ給い候うらんは、なにかは自力にて候うべき。よくよく御はからい候うべし(『真宗聖典』『親鸞聖人御消息集(広本)』五七九頁)

正嘉元(1257)年、親鸞聖人85歳のときに、弟子の浄信に宛てた手紙です。その内容は、承信が「如来とひとしというのは自力の信である」と批判していると浄信が伝えたことについて親鸞が返信して、「いま少し深く承信房には考えて欲しい」と承信の指摘を否定している内容です。

信心よろこぶ人を如来とひとしと同行達ののたまうは自力なり。真言にかたよりたり(『真宗聖典』『御消息集(善性本)』五八三頁)

これが承信の批判内容ですね。つまり、「信心をよろこぶ人を如来と等しいと貴方たちが言うのは、それは自力だ。真言宗(の即身成仏の説)に偏っている」といった内容です。

親鸞聖人は真宗の信仰を「如来とひとし」と積極的に表現したのですが、それがかえって門弟たちに誤解を与えてしまい、それで今回のような異議が出てきた、というわけですね。ちなみに親鸞聖人は「如来とひとし」について、以下のように述べています。

浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、如来と申すこともあるべし(『真宗聖典』『御消息集(善性本)』五九一頁)

つまり、身体とこころは別の次元にあることをいい、こころが如来と同じなのだと説明しています。しかし、真言宗の「即身成仏」は心身ともに仏と一体になろうとすることであるため、微妙ですが違います。このあたりが曖昧であったり取り違えてしまうと、今回の異議者の主張のようになっていくわけです。

さて、ご法話ではまず、この第十五章が誰に対して書かれているのか、ということを問いました。すなわち、それは自分。「他の誰か」ではなく、「自分自身」に書かれていると。何故そういえるのか。親鸞聖人の言葉は、至ってシンプルです。「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならいそうろうぞ」。本願を信じなさい、他に何もないよと。しかし、この言葉を聞いて、迷っているのは誰だろうか。他ならぬ私自身なのではないかと。むしろ、頭では「煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらく」と考えているのではないか。そこに、信じきれない自分が生まれてくる。だからこの第十五章は、「自分自身」のために書かれていると言われました。

さらにご法話では、「さとりを開く」とはどういうことなのかということを言われ、四門出遊のお話をされました。元々国の王子であったお釈迦様が、国の東西南北にある四つの門においてそれぞれ、老人に出あい、病に苦しむ人に出あい、死に至る人に出あい、最後に出家者の姿に出あい、修行され、菩提樹のほとりにてさとりを開かれた。この老病死、そしてこの身が生まれてきたということを含め生老病死、それらの出あいを通して、一番何を願われたか…。

併せて、親鸞聖人の妻である恵信尼がその娘の覚信尼に出していたお手紙の中の言葉を紹介されました。それは、「生死出づべき道」。生死(しょうじ)というのは、生と死と書いて生死と言うけれども、それは生まれきた苦しみ悩み、生きていく苦しみ悩み、そして死に至らんとする苦しみ悩み。それは迷いの姿であると。その、迷い、苦しみを、どうやったら超えていけるのか。そこを一番求めていくのが、仏道なのであったと、石塚さんは言います。お釈迦様も、親鸞聖人も、法然上人もみな、「生死出づべき道」を求めていたのだと。

「さとり」とは?

 

そして、求めていく中で何に気が付くか。どうしたら超えていけるのかといった時に、生死ということが、迷いではあるんだけれども、同時に「身の事実」と読めるんじゃないかと。我らは生まれて生きて、いずれ死ぬ。この「身の事実」ということを自覚させていただくのが、仏道なんじゃないか。それは、「どうにかなる我が身」を教えているわけではない。むしろ「どうにもならない我が身」にぶち当たっていく。この身はさとりを開ける身ではない。煩悩具足の凡夫なんだ。けれども、自分の能力とは全く関係なく、阿弥陀の本願を信じさせていただいて、浄土に往生させていただき、仏と成らせていただく。その歩みが仏道であり、浄土真宗なのだと言えます。

大事なことは、教えを教えとして、「私」は素直に聞けているのかということ。そして、廣河は素直に石塚さんのお話を聞けているのかということ…。あなたは、目の前のその人の話を、素直に聞けていますか?

明日、1月28日(月)の御命日のつどいでは、『歎異抄』第十六章をテーマに第17組稱名寺の有坂次郎さんよりお話しいただきます!

2018年12月25日

「『歎異抄』に聞く」を聞く

小原が「『歎異抄』に聞く」を聞く。-第十四章-【番外編】

あれ?今回もタイトルが違いますね。毎回ご好評いただいている「廣河が『歎異抄』に聞くを聞く。」七回目の今回は、廣河が本山の御正忌団参の引率のため不在だったので、代役として私、子煩悩列座の異名をとる小原が「『歎異抄』に聞く」を聞かせていただきました。

子煩悩列座、小原暁。その瞳の先に、何を見るのか―――――――。

お取り越し報恩講が終わり、ほっとしたのも束の間、11月28日(水)に宗祖御命日日中法要が勤まりました。その後の御命日のつどいでは、一昨年から『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回は三条教区第15組光善寺(三条市矢田)の佐々木憲雄氏に、『歎異抄』「第十四章」を主題にご法話頂きました。

光善寺住職 佐々木憲雄氏。三条真宗学院の先生をされていたり、法話のために各地に出向するなど、多岐にわたってご活躍されています。ホームページもあります。こちら!→光善寺

 

『歎異抄』「第十四章」

一 一念に八十億劫(こう)の重罪を滅(めっ)すと信ずべしということ。この条は、十悪五(じゅうあくご)逆(ぎゃく)の罪人、日ごろ念仏をもうさずして、命終(みょうじゅう)のとき、はじめて善(ぜん)知識(じしき)のおしえにて、一念もうせば八十億劫のつみを滅(めっ)し、十念もうせば、十八十(とはちじゅう)億劫(おくこう)の重罪を滅(めっ)して往生すといえり。これは、十悪五逆の軽重(きょうじゅう)をしらせんがために、一念十念といえるか、滅罪(めつざい)の利益(りやく)なり。いまだわれらが信ずるところにおよばず。そのゆえは、弥陀(みだ)の光明にてらされまいらするゆえに、一念発起(いちねんほっき)するとき、金剛(こんごう)の信心をたまわりぬれば、すでに定聚(じょうじゅ)のくらいにおさめしめたまいて、命終(みょうじゅう)すれば、もろもろの煩悩悪障(ぼんのうあくしょう)を転じて、無生(むしょう)忍(にん)をさとらしめたまうなり。この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか生死(しょうじ)を解脱(げだつ)すべきとおもいて、一生のあいだもうすところの念仏は、みなことごとく、如来(にょらい)大悲(だいひ)の恩を報じ徳を謝すとおもうべきなり。念仏もうさんごとに、つみをほろぼさんと信ぜば、すでに、われとつみをけして、往生せんとはげむにてこそそうろうなれ。もししからば、一生のあいだ、おもいとおもうこと、みな生死(しょうじ)のきずなにあらざることなければ、いのちつきんまで念仏退転(たいてん)せずして往生すべし。ただし業(ごう)報(ほう)かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあい、また病悩(びょうのう)苦痛(くつう)せめて、正念(しょうねん)に往せずしておわらん。念仏もうすことかたし。そのあいだのつみは、いかがして滅(めっ)すべきや。つみきえざれば、往生はかなうべからざるか。摂取不捨(せっしゅふしゃ)の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、悪業をおかし、念仏もうさずしておわるとも、すみやかに往生をとぐべし。また、念仏のもうされんも、ただいまさとりをひらかんずる期(ご)のちかづくにしたがいても、いよいよ弥陀(みだ)をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそそうらわめ。つみを滅(めっ)せんとおもわんは、自力のこころにして、臨終(りんじゅう)正念(しょうねん)といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにてそうろうなり。(『現代語 歎異抄 いま、親鸞に聞く』朝日新聞出版)

【試訳】

「南無阿弥陀仏」とひと声念仏することによって、八十億劫という果てしない時間に私が犯してきた罪を一気に消滅させることが出来る、と信じなさいということについて。

平生、念仏を称えることなくして臨終を迎えた十悪五逆の罪人が、生まれて初めてよき師の教えに遇い、ひと声称えれば八十億劫の罪を消し、十声称えれば十倍の八百億劫の重罪を消して浄土へ往生することが出来るというこの主張は、『観無量寿経』(下々品(げげぼん)の経文)を根拠とするものである。これは、十悪・五逆の罪がどれほど重いかを我々に教えるために、一声・十声と表現しているのであろうか。これは、念仏が罪を消すという利益を表している。しかし、いまだ我々が信ずるところのものではない。その理由は、阿弥陀の光に照らされて、本願によって生きようというこころが湧き起こる。それは金剛のように堅い信心を獲得(ぎゃくとく)しているのであるから、すでに正定聚(しょうじょうじゅ)の次元に包摂(ほうせつ)され、命終したときには、さまざまな煩悩や悪業を転換して、無常菩提を開くことができるのである。この阿弥陀の悲願がなかったならば、私たちのように目先のことに翻弄され、罪に無感覚である人間が、どのようにして迷いの眼をひるがえして、真実に目覚めて生きることができようか。そのように受け止めれば、一生のあいだ称える念仏は、ひとつ残らず如来大悲のご恩への感謝の表れであると思われてくるだろう。念仏を称えるたびごとに、自分の犯した罪を消そうと思うのは、自分の力で罪を消して、弥陀の浄土へ往生しようと努力することになるのである。もしそうであれば、一生のあいだのありとあらゆる思いはすべて迷いの生活へつなぎとめる鎖となるから、命が終わるまで念仏を称え続けて初めての往生が可能であろう。ただし、人間の生存は、自由意志のままにならない限定性を生きるものであるから、どんな思いがけないことに会うかもわからず、心身の病の苦しみに責められ、臨終にこころが乱されて、念仏を称えて終わることができないかもしれない。そのあいだの罪は、どのようにして消すことができようか。罪が消えなければ、往生は不可能なのか。我々を摂(おさ)めとって捨てない弥陀の本願を信ずれば、どのような不慮のことにも会い、罪業を犯し、たとえ念仏を称えずにいのちが終わろうとも、本願のはたらきで直ちに往生を遂げることができるのである。また、いのちの終わりに念仏が称えられたとしても、それは今まさに浄土のさとりが開かれるときが近づいて、いよいよ弥陀の大悲を信じ、救われるご恩への感謝を表すことになるのである。念仏を称えて罪を消そうと考えるのは、自力の発想であり、臨終にこころの乱れをなくして念仏しようとするひとの本音であるから、そのひとは他力の信心がないのである。

【語註】

八十億劫の重罪…人間がもっている罪の深さを教えるために、無限の時間の感覚で表現したもの。

十悪五逆…『観無量寿経』には、「五逆十悪具諸不善」とある。仏が説かれる、さまざまな因縁のなかで悪を犯してしか生きざるを得ない人間存在の姿。

善知識…「善親友」ともいう。仏道に教え導き入れるひと。「有縁の知識」(歎異抄 序文)と同義。

無生忍…「無生法忍」の略。虚偽を超えた真実である無上涅槃をさとること。親鸞の用法では、真の仏弟子の利益として無生忍を押さえている。

正念…一般的には、八正道(理想の境地に達するための八つの方法)のなかのひとつ。仏道に適った正しい想念の意。親鸞聖人は、称名念仏を「正念」と理解している。

 

第十四条は、「滅罪」がテーマになっています。まず、唯円が異義として取り上げるのは、「ひと声念仏することによって、八十億劫の重罪を滅することができると信じなさい」という主張です。簡単に言えば、念仏を自分の罪滅ぼしの道具のように使うことの問題です。

一方、唯円の受け取っている念仏のありようは、「一生のあいだもうすところの念仏は、みなことごとく、如来大悲の恩を報じ徳を謝すとおもうべきなり」です。罪のある自分をたすけてくれるのが阿弥陀如来であって、そのことへの感謝が念仏なのだから、念仏を道具のように使ってはならない、と唯円はいいます。

浄土三部経のひとつである『仏説観無量寿経』の「下下品」に、救いの手がかりの一番少ない者の救いを課題とした箇所があります。「十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く」。意訳すると、「悪人が臨終に際して、念仏の師から教えられて、南無阿弥陀仏を十回称えたならば、八十億劫という膨大な量の罪を除かれる」となります。この教えをそのまま信じているのが異義者です。

第十四章には、臨終行儀(臨終の死の迎え方)に関する問題が論じられています。人は臨終のとき、念仏してその功徳で罪を消そうとしますが、臨終の苦しみにあるとき、教義について考える余裕はありません。『観経』で語られているのはこの臨終の真実だと思うのですが、それを普遍化し、罪を作ったらその都度念仏で浄化するという思想は間違いだと唯円は言うのでしょう。罪への感覚がとても鋭敏だったであろう中世、漁業や農業、商業などの私たちがいのちを保っていくために必要なこと自体に罪の意識がありました。現代では、食料をスーパーなどで買い、いのちを奪っているという感覚があまりありませんね。

佐々木先生の法話では、「臨終」と「命終」の言葉のちがいについてお話しされたことが印象的でした。「臨終」は「いのちが終わるとき」という意味ですが、第十四章にある「命終」とは、「念仏申す生活を決めたとき」と解釈し、著者である唯円もそういった意味で「命終」ということばを使っているのではないか、と仰っていました。

「臨終」と「命終」。現代においてはほぼほぼ同じ意味で使われていますが、本文を読めば頷けるように、明らかに著者は区別して使われていますね。佐々木先生の仰る上記の解釈は一つの捉え方であり、問題提起です。皆さんはどう考えますか?

次回、12月28日(金)の御命日のつどいでは、『歎異抄』第十五章をテーマに第15組長泉寺の石塚祐堂氏よりお話しいただきます。

そしておそらく次回より、「廣河が『歎異抄』に聞くを聞く」通常営業となることでしょう!廣河ファンの皆さん、乞うご期待です!

2018年12月6日

「『歎異抄』に聞く」を聞く

廣河が「『歎異抄』に聞く」で話す-第十三章-

おや、今回タイトルが少し違うな?と思ったそこの貴方。冴えてますね!「廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。」第六回目、今回は番外編となります。かなり希有な体験をさせていただいたんですが、今回の御命日のつどい、元々お話頂く予定だった村山まみ氏がご都合により来られなくなり、その場合本来であれば御輪番か教区駐在教導さんにお願いしましてご法話いただくのですが、なんと2018年10月の28日は日曜日、つまり教務所は一律お休みなのです。ちなみにややこしいのですが、別院と教務所で、休日規定ほか、労務規定なども別々なのですね。なので御命日は別院職員のみの出勤だったのですが、なんと頼みの綱の斎木主任も都合によりお休み!おやおやこれはどうなることやらと、まるで他人事のように構えていた廣河でしたが、前日27日の夜に、主任からお電話・・・。胸騒ぎを覚えつつ話を聞きますと、不安は的中。『歎異抄』「第十三章」をお話してくれないかということでした。一瞬放心してしまいました。しかし、主任たってのお願い、断るわけにはいきません!承諾し、その日は一夜漬けで「第十三章」の勉強をし、28日御命日の集いに臨みました。今回の経緯はこんなところです。正直、一夜漬けで勉強した内容をお話するというのは非常に心苦しく、参詣に来られた方に申し訳ないなとも思いましたが、今までに勉強してきた知識、経験を総動員して、自分なりに精いっぱいお話させていただきました。

徹夜明け、満身創痍の廣河です。

 

『歎異抄』「第十三章」

弥陀の本願不思議におわしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、往生かなうべからずということ。この条、本願をうたがう、善悪の宿業をこころえざるなり。よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。悪事のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり。故聖人のおおせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。また、あるとき「唯円房はわがいうことをば信ずるか」と、おおせのそうらいしあいだ、「さんぞうろう」と、もうしそうらいしかば、「さらば、いわんことたがうまじきか」と、かさねておおせのそうらいしあいだ、つつしんで領状もうしてそうらいしかば、「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、おおせそうらいしとき、「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と、もうしてそうらいしかば、「さてはいかに親鸞がいうことをたがうまじきとはいうぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と、おおせのそうらいしは、われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしとおもいて、願の不思議にてたすけたまうということをしらざることを、おおせのそうらいしなり。そのかみ邪見におちたるひとあって、悪をつくりたるものを、たすけんという願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいいて、ようように、あしざまなることのきこえそうらいしとき、御消息に、「くすりあればとて、毒をこのむべからず」と、あそばされてそうろうは、かの邪執をやめんがためなり。まったく、悪は往生のさわりたるべしとにはあらず。「持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきや」と。かかるあさましき身も、本願にあいたてまつりてこそ、げにほこられそうらえ。さればとて、身にそなえざらん悪業は、よもつくられそうらわじものを。また、「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり」と。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とこそ、聖人はおおせそうらいしに、当時は後世者ぶりしてよからんものばかり念仏もうすべきように、あるいは道場にはりぶみをして、なむなむのことしたらんものをば、道場へいるべからず、なんどということ、ひとえに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮をいだけるものか。願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよおすゆえなり。さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ。『唯信抄』にも、「弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくわれがたしとおもうべき」とそうろうぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにてそうらえ。おおよそ、悪業煩悩を断じつくしてのち、本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもいもなくてよかるべきに、煩悩を断じなば、すなわち仏になり、仏のためには、五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不浄、具足せられてこそそうろうげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を、本願ぼこりという、いかなる悪か、ほこらぬにてそうろうべきぞや。かえりて、こころおさなきことか。(『歎異抄』真宗大谷派宗務所出版部)

【試訳】

人間の思慮を超えた阿弥陀の本願が「悪人を救う教え」であるからといって、悪を犯すことを恐れないのは「本願ぼこり」であり、「阿弥陀の浄土へ往生することができない」ということについて。この主張は、阿弥陀の本願への疑いであり、善悪の行為が人間の思いを超えた無数の条件や契機に促されていることを理解していないのである。善い行いをしようという思いも、善を促す無数の背景や条件から起こってくるものであり、悪い行いが心に浮かぶのも、思いを超えた無数の背景や条件がそうさせるのである。いまは亡き親鸞聖人は、「兎や羊の毛の先にある塵のような小さい罪(チラッと心をかすめるような悪意)を犯すのも、すべて思いを超えた無限の因縁が背景にあると感知すべきである」とおおせられた。また、あるとき聖人が「唯円房よ、あなたは私の言うことを信じ受け入れるか」とおおせられたので、「もちろんです」と申しあげた。そうしたところ、「それでは、私が言うことに背かないか」と、さらに重ねて念を押されたので、誓って背きませんと申しあげた。すると聖人は「それではまず、ひとを千人殺してみなさい。そうすれば、浄土への往生は決定するであろう」とおおせになった。それに対して「聖人のおおせではありますけれども、たとえ、一人たりとも私のようなものには殺せそうに思えません」と答えたところ、聖人は「それでは、どうして私が言うことに背かないと言ったのですか」とおおせられて、「これによって、わかるでしょう。すべてのことが、自分の思うままになるのであれば、浄土往生のために、ひとを千人殺せと言われたならば、ただちにそうできるはずである。しかし、一人たりとも殺してしまうような宿業の深い背景がないから、殺せないのである。私のこころが優しく善良であるから、殺さないのではない。また殺すまいと思っていても、百人はおろか、千人を殺してしまうこともあるのだ」とおおせになった。それは、私たちのこころが善ければたすかるような存在だと思い、悪ければたすからないような存在だと思って、自分の善悪の基準に固執し、広大な本願によって善悪を超えてたすけられることを知らない、ということを教えてくださったのである。以前、親鸞聖人のおられたころ、間違った考えに陥ったひとがあって、「悪を犯したものを、たすけようという本願なのだから、意識的に、好んで悪を犯して、往生のための条件とするのだ」と言って、さまざまに悪いうわさが聞こえてきたとき、聖人がお手紙に「薬があるからといって、あえて毒を好んではならない」と、お書きになったわけは、その誤った考えを正すためである。そう言ったからといって、悪事が往生の障害であるというわけではない。「もし、戒律をたもつことによってのみ、本願を信じられるのであれば、私たちは、どうして迷い苦しみの尽きない生活を離れることが可能であろうか」 とおっしゃった。このように愚かな身であっても、阿弥陀の本願に出遇うことができてこそ、ほんとうの自信と自尊心とを得ることができるのである。そうであるからといって、身に悪事を犯す条件が備わらなければ、自分勝手に悪事などは犯せないものなのだ。また、親鸞聖人は、「海川に網を引き、釣りなどの漁業をして暮らすものも、野山に鹿・猪・鳥を捕っていのちをつなぐものも、商いをしたり、田畠を耕して生きるものも、まったく同じことである。このように自己のいのちの底深くからもよおしてくる条件が与えられるならば、どのような行為をもするものだ」と語られたのだ。このごろは、自分こそが真の念仏者だというような振る舞いをして、善人だけが念仏することができるかのように考え、例えば、念仏の道場に、禁止事項を書いた紙を貼り、「○○のことをしたものは、道場に入ってはならない」などということは、ただただ外見には真面目な念仏の行者を装って、内心には虚偽をいだいているものではないのか。たとえ、本願に甘えて犯した罪であっても、それは人間には知り得ないほど深い必然性の作用なのである。そうであれば、善いことも、悪いことも、思いを超えた必然性を受け入れて、ただただ、本願にすべてをまかせて立ち上がることこそが、他力の教えではないであろうか。『唯信抄』にも、「私のように罪深い身が救われるはずがないと考えてしまうのは、阿弥陀の救済の力が、どの程度のものだと考えてのことだろうか」と言われている。阿弥陀の本願に甘えるこころがあってこそ、絶対他力にすべてをおまかせする信心も定まってくるのである。そもそも、悪業や煩悩を完全に断ち切ってから、本願を信ずるということであれば、本願に甘えることもなくてよいのであろう。しかし、煩悩を断ち切ったならば、それは仏に成ったということであり、仏のためには、どのようにしても衆生を救いたいという無上の本願も無意味だということになるであろう。「本願ぼこり」はよくないと批判している人びとも、実は煩悩を抱えておられることであろう。それはそのまま、本願に甘えているということではないのだろうか。どのような悪を、本願に甘える「本願ぼこり」というのか、またどのような悪が、本願に甘えないというのであろうか。本願ぼこりでは往生できないという主張は、実に幼稚な考えではないだろうか。

【語註】

本願ぼこり・・・阿弥陀の本願に甘えて、思い上がり、いい気になること。「悪人をたすけるのが阿弥陀の本願だ」と受け止め、あえて悪事を行い、阿弥陀如来に気に入られようとする邪説。

唯円は、「本願ぼこり」の主張を批判しつつ、「本願にほこる」ことが、他力の信心であると意味転換していく。

宿業・・・無始已来(むしいらい)の行為や経験の蓄積が、現在の自己となっているという存在理解が仏教の立場である。したがって、現在の行為や経験は、過去の行為や決断の結果の影響を受けるが、「現在」は、善悪の両面の可能性を孕(はら)んでいる。「過去」に対する自己の責任感と、「未来」に対する安心感を包んだ概念である。

御消息・・・『親鸞聖人御消息集』(広本)第一通(『真宗聖典』五六一頁参照)を指す。

持戒持律・・・仏教徒の守るべき規範(戒と律)を保つこと。代表的な規範として五戒(生き物を殺さない・盗みをしない・嘘をつかない等)がある。

『唯信抄』・・・聖覚(せいかく)(一一六七年~一二三五年)の著。法然門下であり、親鸞の兄弟子。親鸞は、この書を門弟に対してたびたび勧め、この書の注釈書として『唯信鈔文意(もんい)』を著している。

五劫思惟の願・・・阿弥陀仏が菩薩としてはたらく姿を、法蔵菩薩という。法蔵菩薩は、五劫という永遠の時間をかけて、一切衆生を救う願いを発した。その願いのこと。これは『仏説無量寿経』に説かれている。

煩悩不浄・・・煩悩と不浄は、同義語である。『教行信証』「真仏土巻(しんぶつどのまき)」には「心もし有漏なるを名づけて不浄と曰う」(『涅槃経』「徳王品」からの引用〈『真宗聖典』三〇七頁〉)とある。「有漏」は煩悩の異名。

『歎異抄』「第十三章」は「第九章」と同じく親鸞聖人と唯円房の会話パートがありますね。ここで聖人の仰られている「人を千人殺してんや」から始まる一節は、聖人が思いつきで述べた言葉というわけではなく、『央掘摩経(おうぐつまきょう)』というお経で言われる、央掘摩羅(アングリマーラ)のお話が背景、出典となっています。興味のある方は調べてみてください。

さて、「第十三章」は「本願を信じた人は悪を怖れることはないというのは、本願にあまえているのであって、往生できない」とする見解を正す、というところに焦点があります。「本願ぼこり」の問題ですね。「本願ぼこり」とは、悪事を犯したものをたすける本願があるのだから、意図的に悪事を犯そうとする人びとのことを言っています。このことは当時、親鸞聖人の「悪人正機説」を逆手に取る人たちが増えたことが、問題としてあったことに起因します。

「悪人であればこそなお、浄土に往生できるのなら
悪いことをわざとした方が浄土に行けるんじゃないか」

などと考える民衆が増加したのです。
このことを咎めて、著者は親鸞聖人の出されたお手紙『御消息集』から
「薬あればとて、毒をこのむべからず」と仰った聖人の言葉を引いています。

え(酔)いもさめぬさきに、なおさけをすすめ、
毒もきえやらぬものに、いよいよ毒をすすめんがごとし。
くすりあり毒をこのめ、とそうらんことは、
あるべくもそうらわずとぞおぼえそうろう」(『親鸞聖人御消息集(広本)』真宗聖典 五六一頁)

【試訳】
「酒を飲み、その酔いも醒めぬ人に、また酒を勧めることは
毒を飲み、その解毒剤も効かぬうちに、また毒を飲ませるように
いくら解毒剤があるからといって、毒を飲んでも大丈夫だというのは
根本的に必要のない考え方でありましょう。」

ここで、「本願ぼこり」の人びとを批判していますね。ところが、『歎異抄』著者の批判の焦点はそこにはありません。最後には「本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不浄、具足せられてこそそうろうげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を、本願ぼこりという、いかなる悪か、ほこらぬにてそうろうべきぞや。」と述べて、「本願ぼこり」を批判している人びとにこそ焦点を当てています。

 

そしてまた、このような言葉ものこされています。

「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、
野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつなぐともがらも、
あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり。」

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」

人間の深い悲しみ、罪業性が、この一文で見事に言い当てられているように思います。

人間が、自分の頭で「こうしよう」「ああしよう」と、どれだけ計画したところで、何かの原因と条件が揃った時には、自分の意思を超えて、人は何をするか分からない。

ある日、人は、謂れもなく殺される日があるかも知れず、ある日、人は、謂れもなく人を殺す日が来るかも知れない。

「自分だけはそんな目に遭うはずがない」だとか、「自分だけはそんなことをするはずがない」と考えることは、「自分」が「自力」と約束しているだけの、根拠のないことなのでしょう。

私たちは、たまたま生まれ育った境遇や、現在の生活や人間関係が犯罪を促すようなものでないので、今は重罪を犯すことが思いもよらないだけなのです。もし、考えもおよばないような情況に追いつめられたり、犯罪を引き起こすような条件が周りにそろってしまったならば、自分も何をしでかすか分からない。このような罪業性をもつ我が身のあり方は、正しく「いずれの行もおよびがたき身」でしょう。そして、このような私だからこそ、救わずにおれないという弥陀の大悲に、頭が下がるということがあるように思います。

次回11月28日(水)の御命日のつどいでは、『歎異抄』「第十四章」をテーマに第15組光善寺の佐々木憲雄氏よりお話頂きました(過去形ですみません!)。この時廣河は、京都の真宗本廟(東本願寺)の御正忌報恩講団体参拝に引率として出張っていたので、代わりに子煩悩列座の小原暁さんに「『歎異抄』に聞く」を聞いていただきました!お願いし、記事も書いていただく予定です。番外編が続きますが、ご容赦頂ければ幸いです。

 

 

2018年10月28日

「『歎異抄』に聞く」を聞く

廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。-第十二章-

「廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。」第五回目となります。投稿が遅れまして申し訳ありません。来月にお取り越し報恩講を控え、慌ただしい日々を過ごしております。ですが、どのような日々であってもすべてが聞法生活。その意識が薄れていかないように、何度でも仏法に出遇わせていただくということが、大切なことのように思います。

9月28日(金)に宗祖御命日日中法要が勤められました。その後の御命日のつどいでは、一昨年から『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回は三条教区20組金寳寺(新潟市中央区)の朝倉奏氏に、『歎異抄』「第十二章」を主題にご法話頂きました。

朝倉奏氏。金寶寺様の副住職として、お寺で子どもたちに英会話を教えたり、ヨガ教室を開催しているなど、様々な活躍をされています。

 

『歎異抄』「第十二章」

一 経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といいつべし。他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ、念仏をもうさば仏になる。そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことわりにまよえらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといえども、聖教の本意をこころえざる条、もっとも不便のことなり。一文不通にして、経釈のゆくじもしらざらんひとの、となえやすからんための名号におわしますゆえに、易行という。学問をむねとするは、聖道門なり、難行となづく。あやまって、学問して、名聞利養のおもいに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんという証文もそうろうぞかし。当時、専修念仏のひとと、聖道門のひと、諍論をくわだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりというほどに、法敵もいできたり。謗法もおこる。これしかしながら、みずから、わが法を破謗するにあらずや。たとい諸門こぞりて、念仏はかいなきひとのためなり、その宗、あさしいやしというとも、さらにあらそわずして、われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまわりて信じそうらえば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには、最上の法にてまします。たとい自余の教法はすぐれたりとも、みずからがためには器量およばざれば、つとめがたし。われもひとも、生死をはなれんことこそ、御本意にておわしませば、御さまたげあるべからずとて、にくい気せずは、たれのひとかありて、あたをなすべきや。かつは「諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべき」よしの証文そうろうにこそ。故聖人のおおせには、「この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏ときおかせたまいたることなれば、われはすでに信じたてまつる。またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられそうろう。しかれば往生はいよいよ一定とおもいたまうべきなり。あやまって、そしるひとのそうらわざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんとも、おぼえそうらいぬべけれ。かくもうせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。仏の、かねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとのうたがいをあらせじと、ときおかせたまうことをもうすなり」とこそそうらいしか。いまの世には学文して、ひとのそしりをやめ、ひとえに論義問答むねとせんとかまえられそうろうにや。学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかが、なんどとあやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢なきおもむきをも、とききかせられそうらわばこそ、学生のかいにてもそうらわめ。たまたま、なにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどといいおどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。みずから他力の信心かくるのみならず、あやまって、他をまよわさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。かねてあわれむべし、弥陀の本願にあらざることをと云々(『歎異抄』真宗大谷派宗務所出版部)

 

【試訳】

念仏だけ称えていても、経典や注釈書を学ばないものは、阿弥陀の浄土へ往(い)けるかどうかわからないということについて。これは、まったく論ずるに値しない誤った主張である。他力真実を説き明かしているさまざまな聖教のこころは、「本願を信じ、念仏を称えれば仏になる」ということひとつである。そのほかには、どのような学問が往生にとっての必要条件になるであろうか。ほんとうに、この教えの道筋に迷ってしまうようなひとは、徹底的に学問して、本願のこころを知るべきである。経典や注釈書を読んで、学問をしていても、聖教のほんとうのこころがうなずけないのは、なんとも哀れむべきことである。学問・知識もなく、経典や注釈書の論理も知らないひとが容易に称えられる南無阿弥陀仏なので、易行という。学問を第一義と考えるのは聖道門であり、難行と名づけるのである。学問しながら、本来の目的を誤って、富や名声に心をうばわれているひとには、果たして来たるべき浄土往生の生活があり得るだろうか、という証拠の言葉もあるのである。このごろ、専修念仏者と自認するひとと聖道門のひとが互いに議論を吹っかけて、「私の教えこそ優れている。あなたの教えは、劣っている」と、そのような表現をするから、教えの敵対者もあらわれ、また、仏法を損なう罪を犯すことになる。しかしこのような態度は、かえってみずから自分自身の仏法を破壊し、謗ることになるのではないか。たとえ、さまざまな仏教諸派の学者たちが、みな口をそろえて、「念仏は能力のないもののためのものだ、その教義は、浅薄で低劣だ」と非難したとしても、まったく言い争わないで、「私たちのような、自らの力では仏に成れない、愚かな、そして文字ひとつの意味も領解できないものでも、信ずることによってたすかる教えだと、聞かせていただいて信じているのだから、自らの力で仏に成れると思っている優秀なひとには、取るに足らない教えであっても、私たちにとっては最上の教えなのである。たとえ、念仏以外の教えが優れていたとしても、自分の能力にぴったりこないので、その教えを生きることはできない。自他ともにあらゆる人びとが、迷い苦しみに満ちた生活から解放されることこそが、すべての仏の究極的な願いであるのだから、どうか念仏者の邪魔をしないように」と言って、私たちがことさらに逆らわなければ、どのような人間が、敵意をあらわすだろうか。そのうえ、「論争をすると、さまざまな煩悩が起こる。だから、知恵あるものは、それから遠ざからねばならない」という、確かな教えの言葉もあるのである。いまは亡き親鸞聖人のお言葉には、「この教えを信ずるひともあるし、また謗るひともあるだろう、と仏陀が説いておられる。私はすでに信じているし、他のひとが謗ることもある。それだからこそ仏説は真実だと身に受け止められる。これによって、本願の救いはますます必然的だと思われるのである。もし、教えを謗るひとがいなかったら、どうして信ずるひとがいるのに、謗るひとがいないのだろうかといぶかしく思えてしまうだろう。このように言うからといって、必ずしもひとに非難されようということではない。仏陀が、信ずるものもあれば謗るものもあるに違いないと、かねてから見通されて、人々の疑いが決して起こらないようにと願われて説かれたことをいうのである」と言われている。ところが、このごろでは、学問をすることによってひとの口を塞ぎ、もっぱら論争や問答こそが大事なのだと身構えておられるのであろうか。学問をするならば、ますます阿弥陀如来の本当のおこころを知り、また、如来の悲願の広大さをも了解して、「自分のように浅ましく、愚かなものは往生できるだろうか」と不安になっているひとにも、阿弥陀如来の本願は、善・悪・浄・穢という人間の価値基準をまったく問題にしないのだということを、腑に落ちるように説明することができれば、それこそが本願を学ぶ者の本当の意義ではないであろうか。たまたまのご縁で、無心に、阿弥陀如来の本願にかなって念仏に生きているひとに向かって、「学問をしてこそ、往生は決定するのだ」と言って脅かすことは、まさに仏法を妨げる魔ものであり、仏陀に対する怨敵である。それは、自分自身に他力の信心が欠けているばかりでなく、他人をも迷わせてしまうことである。それこそ、謹んでおそれるべきである。先師・親鸞聖人のおこころに背いていることを、また、かさねて悲しむべきである。弥陀の本願ではないことを。

 

【語註】○参考…①『[新装]仏教学辞典』 法蔵館発行 ②個人的推測

証文・・・仏法の道理をあらわすための証拠となる文章。ここでは、『末燈鈔(まっとうしょう)』第六通(『真宗聖典』六〇三頁)、『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』(同九六二頁)等を指すと思われる。『往生要集(おうじょうようしゅう)』『七箇条制誡(ひちかじょうせいかい)』にもある文で、もとの出典は『大宝積経(だいほうしゃくきょう)』である。②

易行・難行・・・宗教上の実践のむつかしい行為を難行、たやすい行為を易行という。竜樹の十住毘婆沙論巻五易行品には、「菩薩が不退の位に至るための方法に難行道と易行道とがあり、前者は陸上を歩いてゆくように苦しく、後者は海上を船でゆくように楽である」とある。浄土教ではこの説に基づいて仏教を難易二道に分け、難行道は自力聖道門であり、易行道は他力浄土門であるとする。①

 

『歎異抄』「第十二章」では、「学問しなければ往生できない」という主張を正すというところ、つまり当時の聖道仏教(天台・真言)との教義の違いによる、「聖道(自力)仏教」と「浄土(他力)仏教」の間に起きた様々な諍論について、これをどのようにいただくかの、身内の受け止め方を問うことが、最大のテーマとなっています。

今回、朝倉さんよりご法話の要約をいただいておりますので、そちらをそのまま掲載させていただこうと思います。以下原文

 

歎異抄十二章では難行・易行が大きなテーマとなります。難行は聖道門の僧侶が修する行であり、易行は南無阿弥陀仏の名号ひとつです。この「行」ということについて鈴木大拙は『教行信証』を英訳するにあたり、「Practice」=「練習・訓練」ではなく、「Living」つまり「生活」と翻訳しました。その意図は私たち真宗門徒にとっての行とは、生活そのものであるということなのでしょう。

私には二歳半と十か月の二人の子どもがおり、生活は育児と不可分です。その日々はかつて抱いた子育ての理想とはかけ離れたものであり、悩み、腹を立て、失望することがあります。それはまさに難行そのもの。自分が歩んでいる道が正しいのかわからず、まるで道が水の底に沈んでしまって見えなくなって、もがいているようです。

そんな日々のなかで様々な人に出会い、お話をお聞きし、仏法に触れることがあります。すると私は今の自分の置かれた環境、つまり子どもたちと過ごす人生を生きている幸せに気付かせてもらえるのです。私が心から望んだ子どもがほしいという願い。それが実現し、悲しいこともうれしいことも子どもといっしょに経験させてもらえている。そう気付かせてくれるのが本願のはたらきであり、その本願をいただく生活がお念仏する生活なのでしょう。

龍樹菩薩は難行とは陸路を歩むようであり、易行とは水路を船でゆくようだとおっしゃったそうです。日々の生活でうまくいかないことがあると、歩んでいる道が見えなくなる私に、阿弥陀さまの本願念仏の教えが船となって私をすくいあげ、導いてくれる。そんな難行・易行のあり様について教えていただいているようです。そしてそれが歎異抄十二章の伝えようとしていることのひとつなのではないでしょうか。

以上原文

今回、金寶寺様のご門徒の方々も、団体参拝を兼ねてお参りくださいました。

『歎異抄』は、序と第十二章と第十五章で「易行」という言葉を三回使っています。「易行」の表層の意味は、「易(やさ)しい行」という意味です。難しい行では、人間にとって普遍妥当性をもちません。「易行」だけが普遍妥当性をもつ。救いの普遍妥当性という面では、「易行」が「難行」を凌駕するのです。しかし、「易行」の深層の意味は、相対的な「難易」の「易」ではありません。つまり、「簡易な努力」ではなく、「人間の努力をまったく必要としない」という意味です。
ここまでくると、人間の側からは一切、手も足も出ません。人間が未解決の問題に出あったときには、「いかにしたらよいか?」というハウツーの問い方しか出てこないからです。しかし、「いかにして?」と問う以前に、すでに〈人間〉として生まれ、紛れもなく生きている事実があります。だからこそ、そのような問い方を撤回させる機能が「易行」にあるように思います。

座談会もぎっしり!こちらの見通しの甘さで席が足りなくなってしまってます。。。申し訳ありません。

 

 

 

 

 

 

座談も賑わい、皆さん和やかな雰囲気の中で話されていました。

 

次回10月28日(日)(本日です笑)の御命日のつどいでは、『歎異抄』「第十三章」をテーマに第11組願興寺の村山まみ氏よりお話頂く予定でしたが、諸事情により、不肖廣河がお話させていただきました。内容についてはまた別の記事で、書かせていただければと思います。

 

2018年9月17日

「『歎異抄』に聞く」を聞く

廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。 -第十一章-

「廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。」第四回目となります。いつもよりも投稿が遅れ、申し訳なく思います。また、私事になりますが、9月より私廣河は三条別院の常勤列座となりました(これまでは非常勤列座でした)。非常に嬉しく思いますが、仕事量もその分増えますので、今後の連載はより一層苛烈を極めることと予測できます。土俵際、褌締めて、ぶちかまし。ということで、今後ともよろしくお願いいたします。

8月28日(火)に宗祖御命日日中法要が勤められました。その後の御命日のつどいでは、一昨年から『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回は三条教区23組長願寺(新発田市下興野)の北條祐史氏に、『歎異抄』「第十一章」を主題にご法話頂きました。

元和元年(1615年)から続く長願寺のご住職、北條祐史氏。

『歎異抄』「第十一章」

一 一文不通のともがらの念仏もうすにおうて、「なんじは誓願不思議を信じて念仏もうすか、また名号不思議を信ずるか」と、いいおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明にいいひらかずして、ひとのこころをまどわすこと、この条、かえすがえすもこころをとどめて、おもいわくべきことなり。誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束あることなれば、まず弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて、生死をいずべしと信じて、念仏のもうさるるも、如来の御はからいなりとおもえば、すこしもみずからのはからいまじわらざるがゆえに、本願に相応して、実報土に往生するなり。これは誓願の不思議を、むねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり。つぎにみずからのはからいをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さわり、二様におもうは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、もうすところの念仏をも自行になすなり。このひとは、名号の不思議をも、また信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地懈慢疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなわち、誓願不思議のゆえなれば、ただひとつなるべし。(『歎異抄』真宗大谷派宗務所出版部)

【私訳】

一つ 学問・知識によらないで、ひたすら念仏を称えているひとたちに対して、「お前は、人間の思慮を超えた阿弥陀の本願を信じて念仏をしているのか?それとも、阿弥陀の名号(南無阿弥陀仏)の不思議なはたらきを信じて念仏しているのか?」と、相手をびっくりさせるような議論を吹っかけて、ふたつの不思議の本当の意味をはっきりと説くこともしないで、人びとのこころを惑わせるようなことは、くれぐれも熟慮し、注意して慎しまねばならない。阿弥陀仏は、思慮を超えた本願のはたらきによって、いつでも思い起こすことができ、だれでも称えることのできる名号として、自らをこの娑婆世界へ表現し、この名号を称えるものを、浄土に迎えとろうと約束されていることである。そうであるから、まず阿弥陀仏の大悲のはたらきに無条件に包まれて、迷いの生活をひるがえすことができると信じて、南無阿弥陀仏と称えられるのも、阿弥陀如来の尊いはたらきだと頷けば、まったく人間の努力意識が混ざらないのである。よって本願のおこころとひとつになって、阿弥陀如来の真実の世界に生まれることができるのである。これはつまり、思慮を超えた本願のはたらきを、もっとも肝要だとこころの底から受け止めたならば、すでに南無阿弥陀仏の不思議も備わっているのだから、誓願と名号の不思議はひとつであり、まったく異なることはないのである。次に、自分自身の思慮・分別をさしはさんで、善悪の行為について、これは往生のためのたすけとなる善い行為、これは往生のために妨げとなる悪い行為と、ふたつに分けて考えるのは、思慮を超えた本願のはたらきにすべてをまかせないで、自分のこころで往生のための善行をはげみ、南無阿弥陀仏を称えることも自己満足のための行為にしてしまうことである。このひとは、阿弥陀の名号の思慮・分別を超えたはたらきをも、また信じていないのである。しかし、たとえ信じていなくとも、方便化土(仮りの救い)に摂めとって、真実の浄土に必ず生まれさせずにはおかないという願いによって、究極的に真実の浄土に往けるのは、阿弥陀の名号の不思議な力のはたらきなのである。これは、そのまま思慮を超えた阿弥陀の本願の不思議なはたらきであるから、誓願と名号とはまったくひとつなのである。

【語註】○参考…①『[新装]仏教学辞典』 法蔵館発行 ②『歎異抄』真宗大谷派宗務所出版部

誓願…願を起こして、成し遂げようと誓うこと。仏や菩薩には、共通した願である総願と、仏。菩薩個々の願である別願とがある。浄土教では、特に阿弥陀仏の本願をさして誓願という。それは弘くすべてのものを救おうとする願い、誓いであるから、弘願、弘誓といい、あわれみの心が深く思いから重願といい、また不捨の誓約、本誓などともいう。誓願の救済力を誓願力といい、そのはたらきが凡夫の考えの及ばないものであるから誓願不思議という。親鸞の門下で、誓願の力で救われるか、名号の力で救われるかという論争をする者があったが、親鸞は誓願と名号とは同一であるとした(御消息集)。ただし存覚の名号不思議誓願不思議問答には、誓願不思議を他力中の他力、名号不思議を他力中の自力であるという。①

名号…主として仏・菩薩の名をいう。ほめたたえて宝号、尊号、徳号、嘉号などといい、仏のさとりの名であるから果名、果号、果上の名号などという。≪中略≫浄土教では専ら阿弥陀仏の名をいい、南無阿弥陀仏(六字の名号)を称えることにより、あるいは名号のはたらきを身に受けることにより、浄土に生まれるとする。阿弥陀には無量寿((梵)アミターユス Amitayus)、無量光((梵)アミターバ Amitabha)の意があるから、南無阿弥陀仏を訳して帰命無量寿如来、南無不可思議光如来(九字名号)、帰命尽十方無礙光如来(十字名号)などという。真宗では九字・十字の名号を六字名号と共に本尊として用いることがある。①

辺地懈慢疑城胎宮…辺地とは、真実の浄土のほとり。懈慢は、怠惰の心で、幸福の実現を求めている世界。疑城・胎宮は、仏智のはたらきに心暗い人が生れていくとされる世界で、実は仏法に遇えない様を表している。いずれも本願を疑う心のままに、しかも浄土に生まれたいという心によって願われている世界。(これを真実報土に対して方便化土という。)②

 

※今回私訳と語註を付けてみました。「ここはこうではないか?」とか「読みづらい」などご意見ありましたら、アドバイスをお願い致しますm(_ _)m

『歎異抄』「第十一章」からは、いわゆる「歎異篇」に入っていきます。ここからは、これまでのいわゆる「師訓篇」とは毛色が異なり、「歎異」「異なるを歎く」といわれるように、『歎異抄』の著者が見聞して深い悲しみを覚えた、親鸞聖人の仰せに背くような見解が八ヵ条ほど取り上げられ、批判されています。「第十一章」では特に、「本願を信ずることと、名号を信じること」は違うという見解を正す、ということを中心に批判が述べられています。

法話ではまず、「第十一章」と「第一章」(そのまま「第十二章」と「第二章」、「第十三章」と「第三章」が)対応しているということが言及されました。つまり、「第一章」では誓願不思議というところで、浄土真宗のすべてを支える阿弥陀如来の誓願についての、親鸞聖人の了解が述べられますが、この「第十一章」ではその了解に背く見解が人々の間に広まっているから歎異する、といったつながりになっています。また「第一章」から「第九章」までは、当時の社会不安の中で、異なることを悲しむ著者の想いが、ある種瑞々しく表現されているのに対し、「第十一章」からはどこか理屈っぽく書かれている、と北條氏は述べます。

熱心に聞き入る参詣の皆様。講師も真剣ですが、聞く方も真剣です。

また、北條氏は続けて「不思議」についても言及しました。つまり、言ってしまえば我々が呼吸すること一つをとってみても、地球に重力があり、引力があり、適度な距離に太陽があって気温も極端な変化はなく、水や大地、そして動植物がいるからなど、様々な要素、宇宙の因縁が重なって成り立っている実に「不思議」なことです。北條氏はその「不思議」を「勘定ならない」と表現しました。我々人間に勘定ならないもの、それが「不思議」なのです。

そして、さらにその意味を「阿弥陀」が持っていると北條氏は言います。どういうことか。そもそも阿弥陀とはサンスクリット語の音写で、梵名はアミターバअमिताभAmitābha)、あるいはアミターユス (अमितायुस्Amitāyus)と言い、アミターバは「量(はかり)しれない光を持つ者」、アミターユスは「量りしれない寿命を持つ者」の意味で、これを漢訳して無量光仏無量寿仏と言うのです。それで、さらにサンスクリット語を分解してみますと、A+mita(bhaもしくはyus)となります。”bhaभ(バ)”は光、”yusयुस्(ユス)”は寿命を表しますが、”Aअ(ア)”は否定を表します。そして”mitā मित  (ミタ)”はモノを量るという意味なので、アミダと合わせることで「量ることができない」と訳すことができます。故に、「阿弥陀」は勘定ならないものであり、「不思議」と言えるのです。

北條氏は続けて、その「阿弥陀」ということ、「不思議」ということが何故人間に分からないのかを述べました。つまり、我々人間は、自己を中心とした世界を生きている。そして物事を捉える視点も、認識主体が自己にあるために、自分の都合の良いようにしか認識しない。だから、認識の外にある事柄はまずもって理解し難く、認識内にあると思っていることでも都合良く考えてしまうため、真実がわからない。こう言ってしまうと「不思議」「阿弥陀」ということが、人間と何の接点も持たないという風に見えてしまいます。私は思うに、だからこそ釈尊は、阿弥陀仏の建立された「誓願」と、そのはたらきをもつ「名号」という形をもって、一切衆生を救うと人々に説うたのだと考えます。その「名号」によって、接点のなかった私と仏との間に、橋がかけられるのです。南無阿弥陀仏という名号を称えん者をこそ、迎え入れんという大悲の誓願。「第十一章」で言われるように、「誓願」と「名号」とは我々人間の思慮を超えた阿弥陀の本願の不思議なはたらきなのですから、別々の事柄ではなく、まったく一つなのです。

駐在教導の西山も聴講。聞法に垣根はありません。

『歎異抄』の意味世界へ入っていこうとすると、逆にこちら側が照り返されてきます。それは「逆照作用」といってもよいでしょう。例えば、「誓願不思議・名号不思議」という言葉に出あうと、「不思議」が『歎異抄』の側に属しているように思えてしまいます。しかし、その「不思議」は、「すでに、汝の存在にはたらいているのではないか?」と逆照されてきます。
つまり、ひととして誕生することの「不思議」、国籍・民族・時代・性別などの限定性、自己の存在の原初に「不思議」があるではないかと。「不思議」という言葉を忌避させるのは、理性でしょう。理性は、認識・分析・統合という作用により、「不思議」を排除しようとする。その理性そのものが、『歎異抄』から逆照されてくるのではないでしょうか。そこに初めて、「不思議」を拝跪し、受容する理性が成り立つように思います。

次回9月28日(金)の御命日のつどいでは、『歎異抄』「第十二章」をテーマに第20組金寶寺の朝倉奏氏よりお話頂きます!どうぞお誘い合わせてお参りください。

トップへ戻る