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三条別院|浄土真宗 真宗大谷派
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「『歎異抄』に聞く」を聞く
TANNISHO

2020年3月27日

「『歎異抄』に聞く」を聞く ブログ

廣河が森田輪番の法話を聞く【年頭会報告】

新年が明けて、早いものでもう4か月が過ぎようとしております。三条別院では2月28日(金)の御命日に年頭会が勤まりました。お勤めの後に、三条別院輪番森田成美より年頭の挨拶と、ご法話をいただきました。

法話の内容は、2023年に本山でお勤まりになる「宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要」のテーマ、「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」を中心にお話されました。

まず初めにテーマの願いを確認されました。


私は、この地、この時に生を受けている。
このことを精いっぱい尽して生きたい。
悩み、苦しみは私に押し寄せてくる。
でもそれは「生きること」をも奪うものではない。
私の心の奥底にある「生きたい」という声に耳を澄まそう。
その時、私に届けられている声に気づく。
それは私を呼ぶ声、
南無阿弥陀仏。

仏の名(みな)を呼ぶことは、仏の呼び声を聞くこと。
その呼び声の響きの中で、
人と生まれたことの意味を仏にたずねていこう。
私に先立って生きた人たちと、
同じ今を生きる人たちと、
これから生まれてくる人たちと、
そのこと一つをともにたずねていこう。
種から芽が出て花が咲き、花は枯れても種が残りまた花を咲かすように。


慶讃テーマの詳細については下記PDFをご覧ください。

テーマの願い・趣旨

確認のあと、慶讃テーマの文言それぞれを取り上げ、味わいました。

私は、この地、この時に生を受けている。
このことを精いっぱい尽して生きたい。
悩み、苦しみは私に押し寄せてくる。
でもそれは「生きること」をも奪うものではない。

私はこの地、この時、「今此処」に生きている。「今此処」ということが大事だと言われ、ここの文言に連関するものとしてアンパンマンの歌を紹介されました。

そうだ!うれしいんだ いきるよろこび たとえ むねのきずがいたんでも(アンパンマンのマーチ・やなせたかし)

そうだのあとにはビックリマーク「!」が持っている歌詞には書かれているそうで、このビックリマークには気づきが表されていると受け止められているそうです。どのような気づきか。悩みや苦しみが押し寄せてくるとそちらのほうに心を奪われて、生きていること自体が切なくなる。けれども、生きてあることそれ自体がうれしいこと、生きる喜びなのであり、それに気づくことなのだと言われました。

廣河も小さいときからこの「アンパンマンのマーチ」に親しんできましたが、あらためて歌詞を見て考えてみると、この「アンパンマンのマーチ」の歌詞にはいのちの根源の問いをアンパンマンを通して私たちに呼びかけているのだと考えることができます。普段は何気なく、生きるとか死ぬとか気にせずに生活しているのが私です。また、過去のことに執着してうじうじしたり、未来のことを思ってどうしましょうと不安に思ったりもする。しかし思うに、過去でも未来でもなく、「今此処」を生きていることの自覚。その気づきが「そうだ!」という言葉となり、悩み苦しみがひしめき、時には胸の傷が痛むこの世界で、それでも生きていこう、生きたいという意欲につながるのではないかと思います。アンパンマンすごい。

私の心の奥底にある「生きたい」という声に耳を澄まそう。
その時、私に届けられている声に気づく。

それは私を呼ぶ声、南無阿弥陀仏。

仏の名(みな)を呼ぶことは、仏の呼び声を聞くこと。

その呼び声の響きの中で、
人と生まれたことの意味を仏にたずねていこう。

続けて、三条別院境内地内にある松葉幼稚園の園児たちに向けてお話したことも紹介していただきました。

私たち、息をしようと思って息してる人はまずいません。だから、意識して息を止めてみると、当然苦しい。普段は無意識に息を吸って、吐いてを繰り返しやって呼吸しているから生きている。では、心臓、脈というのは、意識して止められるものなのか?当然無理です。当たり前と思うかもしれません。しかし、私たちが、意識を超えたところのはたらきによって生かされているということが、そういったところでも言えると話されました。生かされているこの身の底に、「生きたい」という声が確かにある。その声が、私を呼ぶ声、「南無阿弥陀仏」であると、慶讃テーマでも言われておりますね。

続けて、南無阿弥陀仏の中には、私たちに先立って諸仏と成られた方も入っていると話されました。法事の際にいつもお話されているそうですが、一周忌や三回忌、七回忌でお経をいただく時、我々が法名に向かって何か事を成しているようにみえるけれども、法事は仏法の仕事、仏様のお仕事なのだと。そこで、難波別院の掲示板に書かれていた言葉を紹介していただきました。

亡き人に、迷うなと拝まれているこの私

紹介された上で、「亡き人が、迷うと拝むこの私」になっていませんか、と問いかけられました。仏法の仕事という意味では、亡き人が迷うなと手を合わせた私が、亡き人に迷うなと手を合わせられている、拝まれていることに気づくこと。そのことが、南無阿弥陀仏の中に響いていると述べられました。先立って逝かれ諸仏となった、両親、家族、親しい人に、真実に目覚め真実に生きよと願ってくださっているその願いを聞き届ける。それが南無阿弥陀仏ということでないかと。その響きの中で、人と生まれたことの意義を尋ねていく。み仏に尋ねていこう。私に先立った人たちと、諸仏となった父母、兄弟、姉妹、縁を結んだ方々、同じ今を生きる人たちと、今ご聴聞にいらっしゃっている皆さんたち、あるいは家に帰れば、子や孫、曾孫と、これから生まれてくる人たちと、まだ遇っていない、これからのいのちと、そのこと一つを訪ねていこう。

私に先立って生きた人たちと、
同じ今を生きる人たちと、
これから生まれてくる人たちと、
そのこと一つをともにたずねていこう。
種から芽が出て花が咲き、花は枯れても種が残りまた花を咲かすように。

ここには無量寿、量りしれないいのちの繋がりの中で、今私はここに生きていて、それを大事にしていきたいということが言われていると述べられます。

そしてまたもう一つ、幼稚園の園児たちにお話されたことを紹介していただきました。

私たちには一人ひとり、お父さんとお母さんがいます。そしてお父さんにもお父さんとお母さん(おじいちゃんとおばあちゃん)がいます。そしておじいちゃんおばあちゃんにもお父さんとお母さん(ひいおじいちゃんとひいおばあちゃん)がいます。そうすると、ひいおじいちゃんひいおばあちゃんだけでも8人いることになります。そして、この中の誰か1人でもいなかったら、縁がなかったら私たちはここにはいない。また、その8人のひいおじいちゃんひいおばあちゃんの中で、お顔やお声も、聞いたことがないという人もいることでしょう。しかし、その人たちがおられて、私たちはこうしてここにいる。そういう不思議にも連続無窮にましまして、私まで届いたいのち、ということを大事に尋ねていく。それが人と生まれたことの意味をたずねていこうということの意味ではないかと、話されました。

慶讃法要が2023年にお勤まりになるということで、そのことを中心にお話されたことであります。前回1973年に厳修された「親鸞聖人御誕生800年・立教開宗750年慶讃法要」のテーマは「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」でした。今回のテーマ、「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」は、言葉は違えど、念仏の教えから「ひととうまるる」ことの意味をたずねていくことに全く違いないように思います。 改めて、一人の人間として「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の呼び声を聞くことの大切さが思われることであります。

 

年頭会では法話の後、例年お斎の場がありましたが、新型コロナウイルス感染症感染拡大に伴い、料理は折り詰めにし、お持ち帰りいただきました。一年に一度、世話方・講員・別院教務所職員の懇親を深める有り難い機会ではありますが、現状況下ではやむを得ない処置です。

また、今後の御命日のつどいについて、改めてご案内します。

3月28日(土)の御命日のつどいは、佐渡組淨願寺(佐渡市片野尾)住職の藤岡正典氏に『歎異抄』第八章についてお話いただく予定でしたが、法話は中止とさせていただきました。

また、4月28日(火)の御命日のつどいも、第18組永傳寺(新潟市西蒲区)住職の本多智之氏に『歎異抄』第九章についてお話いただく予定でしたが、同じく法話は中止とさせていただきました。

当日は御命日日中法要を職員のみでお勤め(内勤め)させていただきます。

既に講師と内容は決定しているため、5月に再開した場合は第十章からとなります。3月の第八章、4月の第九章については職員がホームページにて講究させていただきます。ご了承ください。

2020年3月6日

「『歎異抄』に聞く」を聞く ブログ

廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く -「第七章」-

久々に記事を書きました。廣河です。新型コロナウィルスの話題が嫌でも耳に入ってきますが…冷静な行動をしたいものです。色々あり代わりに『歎異抄』に聞く、聞いてもらっていましたが、今回は無事聞くことができました。廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く、第19回目です。1月28日(火)に宗祖御命日日中法要が勤められました。その後の御命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回はなななんと!三条別院職員、列座の小原暁に、『歎異抄』「第七章」を主題にご法話頂きました。

子煩悩列座、小原暁。このとき、何故だか変な汗が止まらなかったそうです。

『歎異抄』第七章
【本文】

一 念仏者は無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々
【意訳】

念仏者は、何ものにも妨げられることのない、ひとすじの大道を歩むものである。その理由は、他力の信心をいただいて念仏申す者には、天の神・地の神も敬い平伏し、人間の生き方を妨げ悩ますものや、本願力によらないで救済されると考えるすべての思想も妨げとなることがない。また、自分の犯してきた過去の行いについて、善悪の報いに振り回されることがなく、他力の念仏以外のあらゆる行いも阿弥陀如来の大悲のはたらきには及ばないのであるから、無碍の一道なのであると、親鸞聖人は仰せになりました。

【語註】

天神地祇…天の神、地の神。すべての神々。

魔界…人間の生き方をさまたげ悩ますもの。

外道…仏教以外の教え。ここでは本願力のよらないで救済されると考えるすべての思想。

障碍…さわり、さまたげ。

業報…過去の行為によって受ける善悪の報い。

感ずる…過去の行為の報いが現れること。

諸善…往生、成仏のためのもろもろの善行。ここでは、他力の念仏以外のあらゆる作善。

【聞く】

『歎異抄』第七章は、我々人間の人生の歩みを脅かし、不安に満ちたものとする様々な「碍り(さわり)」について書かれています。それは、罪悪を犯せばその業報を怖れ、よい行いをすればそれに固執してやまない、人間の内にある暗い心であり、また天神地祇・魔界外道という、我々の外にあって我々を縛り脅かすものへの怖れです。しかしながら、念仏者の歩みは、内外にあって自分を縛る暗い碍りにさまたげられないものであることを顕して、「念仏者は無碍の一道なり」と、端的に力強く書かれています。

小原氏は第七章について、御自身の今の生活や、三条真宗学院生時代のときにであった人や言葉を振り返りながらお話されました。

まず、無碍とは何かというところを取り上げ、障害がないこと、邪魔するものがないことを言われた上で、その反対は有碍(うげ)であるとして、事前の告知のあったホームページの記事の言葉を借りれば翻弄であるとしました。

いわく、①妻子に翻弄される、②お寺に翻弄される、③ローンに翻弄される云々…、中々思うようには行かない日々、無碍の一道とはいえない日常だそうです。こんな私でも、無碍の一道を歩めるのだろうか…。

そこで小原氏は、『教行信証』「行巻」の言葉を引用されました。

「無碍」は、いわく、生死すなわちこれ涅槃なりと知るなり。(『真宗聖典』一九四頁)

この言葉は『華厳経』の言葉を親鸞聖人が引かれたものですが、ここに、さわりがない(無碍)というのは、生死(迷い)がそのまま覚りだとしることだ、と言われております。ちなみに「生死」というのは「しょうじ」と読み、元々は仏教語です。お釈迦様の時代のインドの言葉、サンスクリットの「サンサーラ」の訳語です。これは「輪廻」とも訳されますが、「死んでは生まれ変わること」を意味しています。そこから換言され、苦しみの人生を繰り返していく「迷い」の在り方として表現されます。また、『華厳経』の言葉と同じような表現であるとして、「正信偈」の「不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり)」の言葉も引かれました。

迷いが覚りである、煩悩を断たずして涅槃を得る、と言われても、中々信じられないのが我々。念仏すれば救われる(念仏往生)と言われても、そんな簡単で単純なことで、本当に救われるのかと、かえって疑いの目をむけてしまうのが我々です。ではどうしたらいいのか。

小原氏は、信じること、念仏がわからんというときはどうすればいいのかと提起した上で真宗学院で恩師の話された言葉を教えてくれました。

「わからないことをごまかさないで、念仏すれば往生するっていうことは何なのか、問いとして問うていく」

ごまかさない、ということが、いかにできていないか。我々は、お念仏に、阿弥陀さまに、ごまかさずに向き合っていると言えるでしょうか。日々の生活に埋没して、忘れていないでしょうか、目を背けていないでしょうか…それを問い続けること、聞き続けることの大切さを氏は述べます。

また、小原氏が大谷派教師資格の取得のために行われる修練を受けているときに、スタッフが話された言葉も言われました。

「問いは世界を開く 答えは世界を閉ざす」

私たちは、問いがあると問い続けるけれども、答えを知るとそこで歩みをやめてしまう。まずは、念仏がわからないのであれば、わからない自分があることを自覚し、ごまかさずに問い続けることを、重ねて言われました。

さらに、浄土真宗の僧侶である安田理深氏の言葉も二つ、教えてもらいました。

「道があるだけでは、信心は不完全である。道を得た人がある、ということを信ずるのが信仰の核である。人が道を具体化する。」

道があるだけでは歩もうという気にはならない。自分が何故そこを歩みたいのか、認識するために、そこを歩いてきた人の存在を感じなければ、道を歩むことの意義がわからなくなる、と小原氏は述べます。そして、自分たちより先に無碍の一道を歩まれた、親鸞聖人や、安田理深氏、そういった人たちの教えを聞いて、問いを持ち続けることが歩みとなると言われます。

またもう一つ。

「もっともっと悩まねばなりません。人類の様々な問題が私たちに圧しかかってきているのです。安っぽい喜びと安心にひたるような信仰に逃避していることはできません。むしろそういう安っぽい信仰を打ち破っていくのが浄土真宗です。」

小原氏は、安っぽい喜びと安心にひたるような信仰とは何かを問いかけ、今回の章にある「魔界外道」に連関させ、人の生活をある時は勇気づけ、ある時は悩ませ惑わすものへの信仰を話されました。つまり、普段の生活の中で、例えば天気予報の最後の血液型占いが気になってしまったり、例えば厄除けの祈願(無病息災、家内安全など)をしたり、加持祈禱、占いに一喜一憂などなど…。それらは信仰といっても、時と場合、人によって受け取り方は変わってきますから、無常であり、真実でないのです。そういった、「魔界外道」ということを打ち破っていくことが浄土真宗であり、無碍の一道を歩む人の志願ではないかと言われ、締めくくられました。

 

多くの御参詣。駐在の髙田さん他、小原さんの勇姿を見に真宗学院卒業生も拝聴に。

2月28日(金)の御命日のつどいでは、年頭会が勤まりました。詳細は改めて新しい記事で報告します。

また、3月28日(土)の御命日のつどいでは、佐渡組淨願寺(佐渡市片野尾)住職の藤岡正典氏に『歎異抄』第八章についてお話いただく予定でしたが、新型コロナウィルスの感染拡大に伴う対応として、法話は中止とさせていただきました。当日は御命日日中法要を職員のみでお勤め(内勤め)させていただきます。

4月28日(火)の御命日のつどいは開催予定です。第18組永傳寺住職の本多智之氏に、『歎異抄』第九章を主題にお話いただきます。どうぞお誘い合わせの上、ご参詣ください。

2020年2月23日

「『歎異抄』に聞く」を聞く

廣河に代わり小原が「『歎異抄』に聞く」を聞く-「第六章」-

12月28日(土)、三条別院では宗祖御命日日中法要が勤まりました。

その後の御命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに、序文から順にご法話を頂いています。

今回は三条教区第11組長福寺(新潟県長岡市)の北島栄誠氏に、『歎異抄』「第六章」を主題にご法話頂きました。

タイトルをご覧になってお気づきの通り、今回は廣河が法務の為不在だったので、代わりに小原が「『歎異抄』に聞く」を聞いてまいりました。

長福寺、北島栄誠氏。教区内の教化委員や三条別院の報恩講実行委員に携われるなど、多岐にわたって活躍されております。

『歎異抄』「第六章」原文

-専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細なり。

親鸞は弟子一人ももたずそうろう。そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。

つぐべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいうこと、不可説なり。如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。かえすがえすもあるべからざることなり。

自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々

現代語訳

本願他力の念仏を信奉する人びとの中で、自分の弟子だ、ひとの弟子だという争いがあるのは、もってのほかのことである。

私(親鸞)は、弟子を一人ももたない。というのは、私の工夫や努力で、ひとの「本願を信ずるこころ」を起こさせることができるならば、自分の弟子であるということもできるであろう。しかし、本願力のはたらきに促されて、本願を信ずることができたひとを、自分の弟子であるということは、とんでもないこころえ違いである。

出会うべき縁があればともに歩み、別れるべき縁があれば、別れていくこともある。そうであるのに、師に背いて、他のひとつについて念仏の教えを受けるのであれば、本願の救いを得られないなどということは、まったくの見当違いである。無限大悲に育てられ目覚めたこころを、個人的な所有物でもあるかのように、取り返そうとでもいうのであろうか。どう考えても、断じてあってはならないことである。

人間のはからいを超えた、如来の本願の大いなるはたらきとひとつになるならば、如来の恩を知ることができ、また師の恩をも頷くことができるのである。

 

【聞く】

北島氏は、第6章の文をご自身の今の生活に照らし合わせてお話しされました。今のお寺に入って今年で10年目だそうで、お寺のご門徒さんから「いい寺になった」と言われるそうです。(当日もお寺ではご門徒さんを中心に餅つきが行われていました。)しかし、年間一件ほど「檀家を辞めたい」と言ってくるご門徒さんがいるそうです。「こっちは頑張ってやっているのに」と思っても、引き止めようにもその方は覚悟を持って来るので引き止められないと言います。

そのことが、冒頭の「わが弟子ひとの弟子」という一文に通じるところがあるといいます。人間にはどうしても我執(自分のモノという執着)があるから、「私の弟子」という所有の意識は拭えません。親鸞は、人間関係は徹底して縁が織りなすという認識があります。そのことが、原文にある「つぐべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも」に表れているのだと思います。

仏法を聞く、仏法に遇うことはお手次寺に限らずどこでもできます。(三条別院には直参門徒はいませんが御命日のつどい、定例法話等に沢山の方が来られます。)ご門徒さんを自分のモノと執着せず、本当に仏の教えに遇って欲しいということを「わが弟子ひとの弟子…」という一文に教えられたそうです。かくいう私も「門徒(檀家)がいなければやっていけない、辞めたいなんてとんでもない」と思いましたが、話を聞いて私自身気付かなかった私の中の我執が照らし出された、そんな風に思いました。

続いて、原文中の「弟子一人ももたず」について、親鸞聖人はご自身も弟子であるということを表現しているのではないかということでした。では誰の弟子かというと、仏の弟子(仏弟子)なのです。私たち真宗門徒は仏法を聞く名告りとして「法名」を授かります。よく似たものに「戒名」があります。「戒名」は五戒(殺生しない、盗まない、嘘をつかない、お酒を飲まない、イチャイチャしない)という戒律を守っていくという名告りなのですが、それに対して、その戒律を守れない、愚かな人間であるという自覚をもって名告るのが「法名」です。そういう生き方の中で、お釈迦さまから「釈」の字を一字いただいて仏弟子の名告りとするのです。上記の五戒を守ることができる、と言い切れる人というのはそういないはずです。私たちは「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と『歎異抄』13章にあるように、縁があれば何でもしてしまう、それこそ縁があれば人殺ししてしまう可能性のある、「約束の守れない」私たちが救われていく道として、仏法を聞き、念仏もうす名告りとして法名をいただくわけです。私も法名をいただいてますが、自分が愚かな人間であるという自覚があるのか、仏法を聴聞し念仏もうす生活をしているのか、あらためて考えさせられる機会になりました。

さて、次回の「『歎異抄』聞く」第7章ですが…なんと、私小原が話させていただくことになりました(!?)私なんかで大丈夫なのか…不安はありますが、これも仏法を聴聞するいいご縁と思って頑張ります!

 

2020年1月4日

「『歎異抄』に聞く」を聞く

関崎が「『歎異抄』に聞く」に聞くの続報

11月28日の法話講師の安原陽二氏から、ホームページでの報告についての意見があり、追記しました。さらに安原氏からメッセージが来ましたので、さらなる講究ということで、続編を書きたいと思います。(斎木)

(前略)これにて、関﨑が「『歎異抄』に聞く」を聞く。-第五章-は終わりです。
しかし、関﨑の歎異抄に聞くは終わることはないのです。

次回の御命日のつどいは12月28日(土)、『歎異抄』「第六章」をテーマに三条教区第11組長福寺(新潟県長岡市)の北島栄誠氏よりお話頂く予定です。
どうぞお誘い合わせてお参りください。

【追記①】(ここまでが前回の追記)

12月23日に講師の安原氏より、追記執筆者(斎木)のところに、法話の内容と少し違うのではないかというラインが来ました。ということで、講師の話の攻究ということで、多方面から光をあててみたいと思いますので、斎木が聞き耳の底に残ったところを、いささか記そうと思います。

安原氏は現住職から入寺することをすすめられて仕事をやめて大谷専修学院にはいり、卒業したてで、住職が宗門の要職に就き京都に住むこととなったため、いきなり法務全般を任されることとなったが、その内容はほとんど「葬儀」と「法事」であり一般的に言うと「父母の孝養」であった。しかし真宗の儀式としては親鸞聖人が『歎異抄』で父母の孝養のための念仏はしないといっている。『歎異抄』は前章の四章が聖道の慈悲は必ず行き詰り、浄土の慈悲への「かわりめ」があるという。第四章と第五章は連続しているため、「孝養父母」が行き詰り、浄土の慈悲に転じるところがただ一向に念仏するという浄土真宗の儀式となっていく…。このような流れの話に思ういますが、これは関﨑列座も安原氏の法話から聞いた御巣鷹山の日航機墜落事故の遺族の心情が変化していくところだと思います。その後座談があったのですが、みなさんなかなか浄土真宗の「救い」ということが分からないようです。わたしは皆さん、それほど行き詰まりを感じていないのではないか?ということを感じました。すでに行き詰っているというのに。また安原氏から違うという連絡が入りそうです。斎木の「『歎異抄』に聞く」を聞くは終わることはないのです。〈未完〉

【追記②安原氏からのメッセージ】(ここから今回です)

確かにそんな感じですかね。ありがとうございます。しかしながら、私が一番大切に言いたかった事は、純粋な信仰心が救いになるということです。神社や教会などご都合主義ではなく、純粋な信仰心に救われていくという単純なことなんです。神社と寺で信仰があいまいでは救われない、ということは大切ではないか。

【安原氏からのメッセージを受けて感じたこと】

純粋な信仰心とは何か?親鸞聖人は「正信偈」で「有無の見を破す」という言葉を使っていますが、死後に何らなの世界があると信じたり願ったりすることは「有見」、死んだら何もなくなるということを「無見」と仮に定義すると、神社や教会やあるいはニヒリズムのような思想は、有見か無見に陥っているということでしょうか。有見の恣意性はわかりやすそうですが、死んだら何もなくなる「無」という状況は、よく考えてみると、「無」ということを例えば「永遠の闇」など、自分がこれまで経験したこと(たとえば現実の闇)の延長線上で想定してみていることでしかありません。有見・無見ともに、自分(我)が中心にある。我を中心にしないことが阿弥陀仏に手をあわせるという意味であるならば、それが純粋な信仰ということなのでしょうか。純粋な信仰心をめぐってさらに考えていきたいです。斎木の「『歎異抄』に聞く」を聞くは終わることはないのです。〈未完〉

2019年12月23日

「『歎異抄』に聞く」を聞く ブログ

関崎が「『歎異抄』に聞く」を聞く -「第五章」-【番外編】

11月28日(木)、三条別院では宗祖御命日日中法要が勤まりました。
その後の御命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに、序文から順にご法話を頂いています。
今回は、廣河が11月27日から真宗本廟御正忌報恩講団体参拝の引率で不在のため、
かわって非常勤列座の関﨑が「『歎異抄』に聞く」を聞く、17回目をお届けします。

今回は三条教区第12組安淨寺(新潟県長岡市)の安原陽二氏に、『歎異抄』「第五章」を主題にご法話頂きました。

安淨寺、安原陽二氏。三条別院の報恩講実行委員会にて教化部会の主査をされているなど、別院と関わり多く、今一番アツい方です。

歎異抄第五章
【本文】
親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。
わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。
ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、
いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々

【訳】
私《親鸞》は、亡くなった父母への供養のために念仏したことは、いまだかつて一度もない。
その理由は、いま現に生きとし生けるものは、あらゆるいのちとつながりあって生きる父母兄弟のような存在だからである。
どのような存在であろうとも、やがて仏の位に到ったときには、だれをも救済することができるのである。
もし念仏が自分の努力でおこなえる善行であるのならば、念仏を振り向けて父母をたすけることもできよう。
しかし、自分の努力でなんでもでき、ひとを愛せると思っている心に絶望して、
すみやかに弥陀の本願の広大なる智慧をいただくならば、その智慧のはたらきによって、
どのような苦悩多い境遇に埋没している存在であっても救われるのである。
(訳・親鸞仏教センター)

 

【語註】
孝養(きょうよう)・・・・・・・・・・亡き親たちへの追善供養
有情(うじょう)・・・・・・・・・・・いのちあるもの 「衆生」に同じ
世々生々の(せせしょうじょうの)・・・幾度も生まれ変わってきた、長い生命の歩み
順次生(じゅんししょ・・・・・・・・・次の生
六道四生(ろくどうししょう)・・・・・六道は地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道、四生は胎生・卵生・湿生・化生で、いずれも迷いの世界と、その生れ方を表す
業苦(ごうく・・・・・・・・・・・・・生きているうえで抱えつづける苦悩
神通方便(じんずうほうべん)・・・・・さとりを得たものの自由自在な救いのはたらき

 

【聞く】
安原陽二氏は、冒頭で日本の仏教離れと葬式仏教化についての問題を取り上げられました。
一体、『歎異抄』第五章とどのようにかかわってくるのか。
講師の安原陽二氏が用意されたレジュメを一部掲載(「」部分)しながら振り返りたいと思います。
まず第五章を『歎異抄』全体の中で、どのように位置づけられているのかを説明していただきました。

「第一章は真宗教義の基本を、第2章では他力の信心が理論を弄ぶ概念的な追及では得られないことを。
第三章にいたって弥陀の本願を道徳的水準に引き下ろしてあげつろうてはいけない事を戒め、虚しい議論と律法を超えた正しい真宗信仰の本質を顕彰せられた。
第四章から第六章までは真宗の正しい立場から周囲の人たちとどのように接していくかいわば真宗門徒の対人関係を示されたものであります。
その中で四章は広く一般の慈悲活動について小慈悲、中慈悲、大慈悲の問題を解明しています。
第六章は、師弟関係を解明しています。
その中で五章は慈悲問題を、特に親に対する心情を真実の信仰の立場から吐露せられたものであります。」

そこで第五章の内容にはいっていくわけですが、第五章は、三つに分けて展開できるとのことでした。

まず、

―親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず―
「親鸞聖人は、亡き父母のためにとおもって念仏を唱えたことはいっぺんもない。と言い切られています。
つまり古来より行われてきた追善供養を否定されたのであります。これはどういうことでしょうか。」

一つ目の理由として述べられているのが、

―そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり―

という箇所であり、
「父母といえども、現世の父母だけでなく世世生々して一切の生あるものは、皆あさからぬ因縁に結ばれていると言うことです。
第四章の慈悲として、直接の父母だけでなく全てのいけるものに親しみを持って救いの手を差し伸べねばならないということです。(大慈悲)」

 

二つ目の理由として述べられているのが

―わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。
ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、
いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々―

「真宗の念仏は如来の回向であること。自分の善根ではない。つまり、自力で功徳を振り向けようとする態度そのものを否定されたのであります。」

 

「さて、親の追善供養は必要ないのかと言う問題です? どうだろうか?私たちは古来より、親兄弟の法事もし、葬式もしております。
ではこのことはどう言うことなのでしょうか。そのことについて考えてみたいです。」ということでさらに詳しくみていきました。

 

まずはひとつめの理由を考えます。
「父母といえども、現世の父母だけでなく世々生々して一切の生あるものは、皆あさからぬ因縁に結ばれていると言う問題です」
講義中の安原陽二氏の言葉によると「同じいのちをわけあいながら生れて生きて、死にいのちの故郷に還っていく、
過去に未来にもそういう世界があり、現在の私たちを生かしている。次の世代にもまた同じいのちをわけあった者が生れ生きていく。
いのちがつながれていく。そこではじめて共に生きる、と言える。皆、同じ広いいのちの世界にわたしが生かされている。
ということが「世々生々の父母兄弟」ということである」ということです。

二つ目の理由は如来回向の問題があります。
「自力と他力の問題がやはりある。真宗の回向は如来より賜りたるものであり、私の善根によってされるものではありません。
ですから助かるも助からんも、如来のオンはからいであることが大切です。その意味では自力の追善の供養はすべての人を救い遂げることは、
あり得ないことではあります。しかし、本当の救いを頂くためには人情や純粋な人間心理を通りながら具体的に働くことになると私は感じるのであります。」
ということです。

以上を踏まえ、冒頭で述べられた現代の葬式仏教化した、「自力の追善の供養」と化した仏事に、
親鸞聖人が言われた「父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」が何を問いかけているのでしょうか。

安原陽二氏は、元専修学院院長の竹中智秀先生の言われていた「追善としての仏事」と「報恩としての仏事」ということから語ってくださいました。
「追善の仏事」とは、亡くなった人を思って、その人が死後安らかであれという思いをもって、善い行いをもって供養していくことです。
浄土真宗の仏事は「報恩としての仏事」です。「報恩としての仏事」ということを大切にされていたのは法然聖人です。
『法然聖人没後二箇条事』という法然聖人の遺言の中で、世間の風習で追善供養することもあるだろうが、
次の事を大切にしてくださいということで述べられています。

「図仏・写経等の善、浴室・檀施等の行、一向にこれを修すべからず」
(写経などの善い行いや法要の際にお風呂を用意して(浴室)、ご飯を振舞い(檀施)皆に喜んでもらう行いをもって亡くなったものを追善していくこと)
念仏申すものは法然聖人のための「追善としての仏事」をする必要がないと言われたのでした。

そして
「もし追善報恩の志あらん人は、ただ一向に念仏の行を修すべし」と言われます。
ここに「報恩としての仏事」が述べられています。
縁ある者と共に念仏して生きていく者となることが願われているのが「報恩としての仏事」です。

売る覚えですが、引用された松本梶丸氏『歎異抄に学ぶ』の中の一節が印象に残りました。
「父の無念を供養するため懸命にがんばっていた。がんばっているうちに自分の思いがおおきな間違いだと気づかされた。
父の死を縁として生きることの意味を考え、みんなと力を合わせて生きてくれと、父から呼びかけられていたことが供養だった。
供養を受けなければならないのは生きている私たちではないだろうか」

我々にとって仏事は、「報恩としての仏事」としてなりえているのでしょうか。

親鸞聖人の第五章の応答は、どんな問いに対してなされたものなのでしょうか。
『歎異抄』第五章は「真宗門徒の対人関係」が示されていると冒頭で言われていたわけですが、
つまるところ、第五章が、亡くなった者とのことににとどまらず、
生きている者の間においても聞こえてくる響きがあると思うのですが、どうでしょうか。

 

これにて、関﨑が「『歎異抄』に聞く」を聞く。-第五章-は終わりです。
しかし、関﨑の歎異抄に聞くは終わることはないのです。

次回の御命日のつどいは12月28日(土)、『歎異抄』「第六章」をテーマに三条教区第11組長福寺(新潟県長岡市)の北島栄誠氏よりお話頂く予定です。
どうぞお誘い合わせてお参りください。

【追記】

12月23日に講師の安原氏より、追記執筆者(斎木)のところに、法話の内容と少し違うのではないかというラインが来ました。ということで、講師の話の攻究ということで、多方面から光をあててみたいと思いますので、斎木が聞き耳の底に残ったところを、いささか記そうと思います。

安原氏は現住職から入寺することをすすめられて仕事をやめて大谷専修学院にはいり、卒業したてで、住職が宗門の要職に就き京都に住むこととなったため、いきなり法務全般を任されることとなったが、その内容はほとんど「葬儀」と「法事」であり一般的に言うと「父母の孝養」であった。しかし真宗の儀式としては親鸞聖人が『歎異抄』で父母の孝養のための念仏はしないといっている。『歎異抄』は前章の四章が聖道の慈悲は必ず行き詰り、浄土の慈悲への「かわりめ」があるという。第四章と第五章は連続しているため、「孝養父母」が行き詰り、浄土の慈悲に転じるところがただ一向に念仏するという浄土真宗の儀式となっていく…。このような流れの話に思ういますが、これは関﨑列座も安原氏の法話から聞いた御巣鷹山の日航機墜落事故の遺族の心情が変化していくところだと思います。その後座談があったのですが、みなさんなかなか浄土真宗の「救い」ということが分からないようです。わたしは皆さん、それほど行き詰まりを感じていないのではないか?ということを感じました。すでに行き詰っているというのに。また安原氏から違うという連絡が入りそうです。斎木の「『歎異抄』に聞く」を聞くは終わることはないのです。〈未完〉

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