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三条別院|浄土真宗 真宗大谷派
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「『歎異抄』に聞く」を聞く ブログ

関崎が「『歎異抄』に聞く」を聞く -「第五章」-【番外編】

11月28日(木)、三条別院では宗祖御命日日中法要が勤まりました。
その後の御命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに、序文から順にご法話を頂いています。
今回は、廣河が11月27日から真宗本廟御正忌報恩講団体参拝の引率で不在のため、
かわって非常勤列座の関﨑が「『歎異抄』に聞く」を聞く、17回目をお届けします。

今回は三条教区第12組安淨寺(新潟県長岡市)の安原陽二氏に、『歎異抄』「第五章」を主題にご法話頂きました。

安淨寺、安原陽二氏。三条別院の報恩講実行委員会にて教化部会の主査をされているなど、別院と関わり多く、今一番アツい方です。

歎異抄第五章
【本文】
親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。
わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。
ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、
いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々

【訳】
私《親鸞》は、亡くなった父母への供養のために念仏したことは、いまだかつて一度もない。
その理由は、いま現に生きとし生けるものは、あらゆるいのちとつながりあって生きる父母兄弟のような存在だからである。
どのような存在であろうとも、やがて仏の位に到ったときには、だれをも救済することができるのである。
もし念仏が自分の努力でおこなえる善行であるのならば、念仏を振り向けて父母をたすけることもできよう。
しかし、自分の努力でなんでもでき、ひとを愛せると思っている心に絶望して、
すみやかに弥陀の本願の広大なる智慧をいただくならば、その智慧のはたらきによって、
どのような苦悩多い境遇に埋没している存在であっても救われるのである。
(訳・親鸞仏教センター)

 

【語註】
孝養(きょうよう)・・・・・・・・・・亡き親たちへの追善供養
有情(うじょう)・・・・・・・・・・・いのちあるもの 「衆生」に同じ
世々生々の(せせしょうじょうの)・・・幾度も生まれ変わってきた、長い生命の歩み
順次生(じゅんししょ・・・・・・・・・次の生
六道四生(ろくどうししょう)・・・・・六道は地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道、四生は胎生・卵生・湿生・化生で、いずれも迷いの世界と、その生れ方を表す
業苦(ごうく・・・・・・・・・・・・・生きているうえで抱えつづける苦悩
神通方便(じんずうほうべん)・・・・・さとりを得たものの自由自在な救いのはたらき

 

【聞く】
安原陽二氏は、冒頭で日本の仏教離れと葬式仏教化についての問題を取り上げられました。
一体、『歎異抄』第五章とどのようにかかわってくるのか。
講師の安原陽二氏が用意されたレジュメを一部掲載(「」部分)しながら振り返りたいと思います。
まず第五章を『歎異抄』全体の中で、どのように位置づけられているのかを説明していただきました。

「第一章は真宗教義の基本を、第2章では他力の信心が理論を弄ぶ概念的な追及では得られないことを。
第三章にいたって弥陀の本願を道徳的水準に引き下ろしてあげつろうてはいけない事を戒め、虚しい議論と律法を超えた正しい真宗信仰の本質を顕彰せられた。
第四章から第六章までは真宗の正しい立場から周囲の人たちとどのように接していくかいわば真宗門徒の対人関係を示されたものであります。
その中で四章は広く一般の慈悲活動について小慈悲、中慈悲、大慈悲の問題を解明しています。
第六章は、師弟関係を解明しています。
その中で五章は慈悲問題を、特に親に対する心情を真実の信仰の立場から吐露せられたものであります。」

そこで第五章の内容にはいっていくわけですが、第五章は、三つに分けて展開できるとのことでした。

まず、

―親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず―
「親鸞聖人は、亡き父母のためにとおもって念仏を唱えたことはいっぺんもない。と言い切られています。
つまり古来より行われてきた追善供養を否定されたのであります。これはどういうことでしょうか。」

一つ目の理由として述べられているのが、

―そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり―

という箇所であり、
「父母といえども、現世の父母だけでなく世世生々して一切の生あるものは、皆あさからぬ因縁に結ばれていると言うことです。
第四章の慈悲として、直接の父母だけでなく全てのいけるものに親しみを持って救いの手を差し伸べねばならないということです。(大慈悲)」

 

二つ目の理由として述べられているのが

―わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。
ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、
いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々―

「真宗の念仏は如来の回向であること。自分の善根ではない。つまり、自力で功徳を振り向けようとする態度そのものを否定されたのであります。」

 

「さて、親の追善供養は必要ないのかと言う問題です? どうだろうか?私たちは古来より、親兄弟の法事もし、葬式もしております。
ではこのことはどう言うことなのでしょうか。そのことについて考えてみたいです。」ということでさらに詳しくみていきました。

 

まずはひとつめの理由を考えます。
「父母といえども、現世の父母だけでなく世々生々して一切の生あるものは、皆あさからぬ因縁に結ばれていると言う問題です」
講義中の安原陽二氏の言葉によると「同じいのちをわけあいながら生れて生きて、死にいのちの故郷に還っていく、
過去に未来にもそういう世界があり、現在の私たちを生かしている。次の世代にもまた同じいのちをわけあった者が生れ生きていく。
いのちがつながれていく。そこではじめて共に生きる、と言える。皆、同じ広いいのちの世界にわたしが生かされている。
ということが「世々生々の父母兄弟」ということである」ということです。

二つ目の理由は如来回向の問題があります。
「自力と他力の問題がやはりある。真宗の回向は如来より賜りたるものであり、私の善根によってされるものではありません。
ですから助かるも助からんも、如来のオンはからいであることが大切です。その意味では自力の追善の供養はすべての人を救い遂げることは、
あり得ないことではあります。しかし、本当の救いを頂くためには人情や純粋な人間心理を通りながら具体的に働くことになると私は感じるのであります。」
ということです。

以上を踏まえ、冒頭で述べられた現代の葬式仏教化した、「自力の追善の供養」と化した仏事に、
親鸞聖人が言われた「父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」が何を問いかけているのでしょうか。

安原陽二氏は、元専修学院院長の竹中智秀先生の言われていた「追善としての仏事」と「報恩としての仏事」ということから語ってくださいました。
「追善の仏事」とは、亡くなった人を思って、その人が死後安らかであれという思いをもって、善い行いをもって供養していくことです。
浄土真宗の仏事は「報恩としての仏事」です。「報恩としての仏事」ということを大切にされていたのは法然聖人です。
『法然聖人没後二箇条事』という法然聖人の遺言の中で、世間の風習で追善供養することもあるだろうが、
次の事を大切にしてくださいということで述べられています。

「図仏・写経等の善、浴室・檀施等の行、一向にこれを修すべからず」
(写経などの善い行いや法要の際にお風呂を用意して(浴室)、ご飯を振舞い(檀施)皆に喜んでもらう行いをもって亡くなったものを追善していくこと)
念仏申すものは法然聖人のための「追善としての仏事」をする必要がないと言われたのでした。

そして
「もし追善報恩の志あらん人は、ただ一向に念仏の行を修すべし」と言われます。
ここに「報恩としての仏事」が述べられています。
縁ある者と共に念仏して生きていく者となることが願われているのが「報恩としての仏事」です。

売る覚えですが、引用された松本梶丸氏『歎異抄に学ぶ』の中の一節が印象に残りました。
「父の無念を供養するため懸命にがんばっていた。がんばっているうちに自分の思いがおおきな間違いだと気づかされた。
父の死を縁として生きることの意味を考え、みんなと力を合わせて生きてくれと、父から呼びかけられていたことが供養だった。
供養を受けなければならないのは生きている私たちではないだろうか」

我々にとって仏事は、「報恩としての仏事」としてなりえているのでしょうか。

親鸞聖人の第五章の応答は、どんな問いに対してなされたものなのでしょうか。
『歎異抄』第五章は「真宗門徒の対人関係」が示されていると冒頭で言われていたわけですが、
つまるところ、第五章が、亡くなった者とのことににとどまらず、
生きている者の間においても聞こえてくる響きがあると思うのですが、どうでしょうか。

 

これにて、関﨑が「『歎異抄』に聞く」を聞く。-第五章-は終わりです。
しかし、関﨑の歎異抄に聞くは終わることはないのです。

次回の御命日のつどいは12月28日(土)、『歎異抄』「第六章」をテーマに三条教区第11組長福寺(新潟県長岡市)の北島栄誠氏よりお話頂く予定です。
どうぞお誘い合わせてお参りください。

【追記】

12月23日に講師の安原氏より、追記執筆者(斎木)のところに、法話の内容と少し違うのではないかというラインが来ました。ということで、講師の話の攻究ということで、多方面から光をあててみたいと思いますので、斎木が聞き耳の底に残ったところを、いささか記そうと思います。

安原氏は現住職から入寺することをすすめられて仕事をやめて大谷専修学院にはいり、卒業したてで、住職が宗門の要職に就き京都に住むこととなったため、いきなり法務全般を任されることとなったが、その内容はほとんど「葬儀」と「法事」であり一般的に言うと「父母の孝養」であった。しかし真宗の儀式としては親鸞聖人が『歎異抄』で父母の孝養のための念仏はしないといっている。『歎異抄』は前章の四章が聖道の慈悲は必ず行き詰り、浄土の慈悲への「かわりめ」があるという。第四章と第五章は連続しているため、「孝養父母」が行き詰り、浄土の慈悲に転じるところがただ一向に念仏するという浄土真宗の儀式となっていく…。このような流れの話に思ういますが、これは関﨑列座も安原氏の法話から聞いた御巣鷹山の日航機墜落事故の遺族の心情が変化していくところだと思います。その後座談があったのですが、みなさんなかなか浄土真宗の「救い」ということが分からないようです。わたしは皆さん、それほど行き詰まりを感じていないのではないか?ということを感じました。すでに行き詰っているというのに。また安原氏から違うという連絡が入りそうです。斎木の「『歎異抄』に聞く」を聞くは終わることはないのです。〈未完〉

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