どんな日も、どんな時代も、そばにある。

三条教区・三条別院 | 浄土真宗 真宗大谷派
三条教区・三条別院 | 浄土真宗 真宗大谷派

ブログ
BLOG

2019年12月31日

ブログ

2020年、今年の一言「大悲無倦」

除夜の鐘整理券をお受け取りの皆さま、悪天候の中三条別院にお参りいただきありがとうございます。2019年はいろいろとお世話になりました。2020年もどうぞよろしくお願いします。さて、今年の一言は「大悲無倦(だいひむけん」です。大悲とは阿弥陀如来の慈悲。「無倦」とはものうきことなくということです。正信偈には「常照我」と続きます。さっそく語句を解説しましょう。

畑でとれた大根(通称:米山農園の野菜)を煮ている米山氏(通称:米山調理人)。大晦日新名物大根煮をどうぞ!

【大意】

「我もまたかの摂取の中に在れども、煩悩の眼障えられて見たてまつらずといえども、大悲倦(ものう)きこと無くして、常に我が身を照らしたもう」この言葉は親鸞聖人の「正信偈」に引用される源信僧都の言葉です。意味は「真実信心を得る人は身は娑婆にあるが、かの摂取の光明の中にいる。煩悩が眼をおおって、見ることはできないが、阿弥陀仏はそんな私たちを見捨てることなく智慧と慈悲によって照らし続けている」ということです。

【解説】

まず、阿弥陀仏の智慧と慈悲によって照らされている「我」の内容を確かめたいと思います。仏教の根本の教えとして、人間は「我(私中心の見方、考え方、生き方)」によって「苦しむ」ということがあります。しかし、戦後70年を経て便利になった現在の私たちの多くは、衣食住にも満たされ、「苦しむ」ということが分からなくなりつつあり、それと同時に本来迷いであるはずの「我」というものが「個人の尊重」などという形でかえって尊ばれているように見えます。しかし、仏教は思想ではなく真実を教えています。むしろ真実でないものは仏教ではなく思想です。「我」というものは貫くことはできない、むしろ必ず折れるということが真実です。仏さまは「我というものは必ず折れるぞ、折れたっていいのだ」と先んじて願っています。私たちの努力が挫折した時、私たちはある時は絶望しますが、努力は挫折するものなのだという優しい視線で仏さまは受けとめてくれています。そんなことに気がつかずに、私たちは我を張り続けています。しかしいつでも、先んじて仏さまは願っているのです。挫折した先には思ったよりも広い世界が開けています。(解説:斎木)

 

 

2019年12月30日

ブログ

除夜の鐘・修正会を迎えるにあたり、花講が歳末立花と米山氏が大根煮!

2019年12月31日の除夜の鐘、2020年1月1日の修正会に向けて、荘厳も整ってまいりました。12月25日は今年最後の花講の活動である「歳末立花」が行われ、若松、南天、柳などの正月の花材を使い、正月をお迎えする準備をしました。

花講のニューフェイス塚本智海氏は京都で庭師経験あり。柳の皮をむいています。

斎木列座と田澤列座で担当した中尊前の仏花。

大溪氏は除夜の鐘の待機場所である旧御堂前に花を生ける。

鷲尾氏は本堂の入り口に花を生ける。昨年から、生け花経験者に旧御堂前と本堂前の飾りをお願いしています。

廣河列座と塚本氏で御代前を担当。

小原列座と横田氏で祖師前を担当。

山田氏は余間を担当。

関﨑列座は旧御堂を担当。

本堂に荘厳。中尊前。

祖師前。

御代前。

北余間。

畑でとれた大根(通称:米山農園の野菜)を煮ている米山氏(通称:米山調理人)。

いよいよ除夜の鐘も迫ってまいりました。深夜23時45分、輪番の第1打からはじまりますが、整理券の配布は11時30分で、配布場所の旧御堂は22時に開いて、大根煮、甘酒、ココアを振舞っています。整理券をもっている方は、今泉で年越しそばを500円で食べられます!今泉は深夜1時までに入れば食べられるということです。本堂では深夜零時に修正会が勤められるので、本堂でお参りした後に除夜の鐘を撞くのもよいかもしれません。ぜひ、お待ちしています!

2019年12月23日

「『歎異抄』に聞く」を聞く ブログ

関崎が「『歎異抄』に聞く」を聞く -「第五章」-【番外編】

11月28日(木)、三条別院では宗祖御命日日中法要が勤まりました。
その後の御命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに、序文から順にご法話を頂いています。
今回は、廣河が11月27日から真宗本廟御正忌報恩講団体参拝の引率で不在のため、
かわって非常勤列座の関﨑が「『歎異抄』に聞く」を聞く、17回目をお届けします。

今回は三条教区第12組安淨寺(新潟県長岡市)の安原陽二氏に、『歎異抄』「第五章」を主題にご法話頂きました。

安淨寺、安原陽二氏。三条別院の報恩講実行委員会にて教化部会の主査をされているなど、別院と関わり多く、今一番アツい方です。

歎異抄第五章
【本文】
親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。
わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。
ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、
いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々

【訳】
私《親鸞》は、亡くなった父母への供養のために念仏したことは、いまだかつて一度もない。
その理由は、いま現に生きとし生けるものは、あらゆるいのちとつながりあって生きる父母兄弟のような存在だからである。
どのような存在であろうとも、やがて仏の位に到ったときには、だれをも救済することができるのである。
もし念仏が自分の努力でおこなえる善行であるのならば、念仏を振り向けて父母をたすけることもできよう。
しかし、自分の努力でなんでもでき、ひとを愛せると思っている心に絶望して、
すみやかに弥陀の本願の広大なる智慧をいただくならば、その智慧のはたらきによって、
どのような苦悩多い境遇に埋没している存在であっても救われるのである。
(訳・親鸞仏教センター)

 

【語註】
孝養(きょうよう)・・・・・・・・・・亡き親たちへの追善供養
有情(うじょう)・・・・・・・・・・・いのちあるもの 「衆生」に同じ
世々生々の(せせしょうじょうの)・・・幾度も生まれ変わってきた、長い生命の歩み
順次生(じゅんししょ・・・・・・・・・次の生
六道四生(ろくどうししょう)・・・・・六道は地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道、四生は胎生・卵生・湿生・化生で、いずれも迷いの世界と、その生れ方を表す
業苦(ごうく・・・・・・・・・・・・・生きているうえで抱えつづける苦悩
神通方便(じんずうほうべん)・・・・・さとりを得たものの自由自在な救いのはたらき

 

【聞く】
安原陽二氏は、冒頭で日本の仏教離れと葬式仏教化についての問題を取り上げられました。
一体、『歎異抄』第五章とどのようにかかわってくるのか。
講師の安原陽二氏が用意されたレジュメを一部掲載(「」部分)しながら振り返りたいと思います。
まず第五章を『歎異抄』全体の中で、どのように位置づけられているのかを説明していただきました。

「第一章は真宗教義の基本を、第2章では他力の信心が理論を弄ぶ概念的な追及では得られないことを。
第三章にいたって弥陀の本願を道徳的水準に引き下ろしてあげつろうてはいけない事を戒め、虚しい議論と律法を超えた正しい真宗信仰の本質を顕彰せられた。
第四章から第六章までは真宗の正しい立場から周囲の人たちとどのように接していくかいわば真宗門徒の対人関係を示されたものであります。
その中で四章は広く一般の慈悲活動について小慈悲、中慈悲、大慈悲の問題を解明しています。
第六章は、師弟関係を解明しています。
その中で五章は慈悲問題を、特に親に対する心情を真実の信仰の立場から吐露せられたものであります。」

そこで第五章の内容にはいっていくわけですが、第五章は、三つに分けて展開できるとのことでした。

まず、

―親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず―
「親鸞聖人は、亡き父母のためにとおもって念仏を唱えたことはいっぺんもない。と言い切られています。
つまり古来より行われてきた追善供養を否定されたのであります。これはどういうことでしょうか。」

一つ目の理由として述べられているのが、

―そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり―

という箇所であり、
「父母といえども、現世の父母だけでなく世世生々して一切の生あるものは、皆あさからぬ因縁に結ばれていると言うことです。
第四章の慈悲として、直接の父母だけでなく全てのいけるものに親しみを持って救いの手を差し伸べねばならないということです。(大慈悲)」

 

二つ目の理由として述べられているのが

―わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。
ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、
いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々―

「真宗の念仏は如来の回向であること。自分の善根ではない。つまり、自力で功徳を振り向けようとする態度そのものを否定されたのであります。」

 

「さて、親の追善供養は必要ないのかと言う問題です? どうだろうか?私たちは古来より、親兄弟の法事もし、葬式もしております。
ではこのことはどう言うことなのでしょうか。そのことについて考えてみたいです。」ということでさらに詳しくみていきました。

 

まずはひとつめの理由を考えます。
「父母といえども、現世の父母だけでなく世々生々して一切の生あるものは、皆あさからぬ因縁に結ばれていると言う問題です」
講義中の安原陽二氏の言葉によると「同じいのちをわけあいながら生れて生きて、死にいのちの故郷に還っていく、
過去に未来にもそういう世界があり、現在の私たちを生かしている。次の世代にもまた同じいのちをわけあった者が生れ生きていく。
いのちがつながれていく。そこではじめて共に生きる、と言える。皆、同じ広いいのちの世界にわたしが生かされている。
ということが「世々生々の父母兄弟」ということである」ということです。

二つ目の理由は如来回向の問題があります。
「自力と他力の問題がやはりある。真宗の回向は如来より賜りたるものであり、私の善根によってされるものではありません。
ですから助かるも助からんも、如来のオンはからいであることが大切です。その意味では自力の追善の供養はすべての人を救い遂げることは、
あり得ないことではあります。しかし、本当の救いを頂くためには人情や純粋な人間心理を通りながら具体的に働くことになると私は感じるのであります。」
ということです。

以上を踏まえ、冒頭で述べられた現代の葬式仏教化した、「自力の追善の供養」と化した仏事に、
親鸞聖人が言われた「父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」が何を問いかけているのでしょうか。

安原陽二氏は、元専修学院院長の竹中智秀先生の言われていた「追善としての仏事」と「報恩としての仏事」ということから語ってくださいました。
「追善の仏事」とは、亡くなった人を思って、その人が死後安らかであれという思いをもって、善い行いをもって供養していくことです。
浄土真宗の仏事は「報恩としての仏事」です。「報恩としての仏事」ということを大切にされていたのは法然聖人です。
『法然聖人没後二箇条事』という法然聖人の遺言の中で、世間の風習で追善供養することもあるだろうが、
次の事を大切にしてくださいということで述べられています。

「図仏・写経等の善、浴室・檀施等の行、一向にこれを修すべからず」
(写経などの善い行いや法要の際にお風呂を用意して(浴室)、ご飯を振舞い(檀施)皆に喜んでもらう行いをもって亡くなったものを追善していくこと)
念仏申すものは法然聖人のための「追善としての仏事」をする必要がないと言われたのでした。

そして
「もし追善報恩の志あらん人は、ただ一向に念仏の行を修すべし」と言われます。
ここに「報恩としての仏事」が述べられています。
縁ある者と共に念仏して生きていく者となることが願われているのが「報恩としての仏事」です。

売る覚えですが、引用された松本梶丸氏『歎異抄に学ぶ』の中の一節が印象に残りました。
「父の無念を供養するため懸命にがんばっていた。がんばっているうちに自分の思いがおおきな間違いだと気づかされた。
父の死を縁として生きることの意味を考え、みんなと力を合わせて生きてくれと、父から呼びかけられていたことが供養だった。
供養を受けなければならないのは生きている私たちではないだろうか」

我々にとって仏事は、「報恩としての仏事」としてなりえているのでしょうか。

親鸞聖人の第五章の応答は、どんな問いに対してなされたものなのでしょうか。
『歎異抄』第五章は「真宗門徒の対人関係」が示されていると冒頭で言われていたわけですが、
つまるところ、第五章が、亡くなった者とのことににとどまらず、
生きている者の間においても聞こえてくる響きがあると思うのですが、どうでしょうか。

 

これにて、関﨑が「『歎異抄』に聞く」を聞く。-第五章-は終わりです。
しかし、関﨑の歎異抄に聞くは終わることはないのです。

次回の御命日のつどいは12月28日(土)、『歎異抄』「第六章」をテーマに三条教区第11組長福寺(新潟県長岡市)の北島栄誠氏よりお話頂く予定です。
どうぞお誘い合わせてお参りください。

【追記】

12月23日に講師の安原氏より、追記執筆者(斎木)のところに、法話の内容と少し違うのではないかというラインが来ました。ということで、講師の話の攻究ということで、多方面から光をあててみたいと思いますので、斎木が聞き耳の底に残ったところを、いささか記そうと思います。

安原氏は現住職から入寺することをすすめられて仕事をやめて大谷専修学院にはいり、卒業したてで、住職が宗門の要職に就き京都に住むこととなったため、いきなり法務全般を任されることとなったが、その内容はほとんど「葬儀」と「法事」であり一般的に言うと「父母の孝養」であった。しかし真宗の儀式としては親鸞聖人が『歎異抄』で父母の孝養のための念仏はしないといっている。『歎異抄』は前章の四章が聖道の慈悲は必ず行き詰り、浄土の慈悲への「かわりめ」があるという。第四章と第五章は連続しているため、「孝養父母」が行き詰り、浄土の慈悲に転じるところがただ一向に念仏するという浄土真宗の儀式となっていく…。このような流れの話に思ういますが、これは関﨑列座も安原氏の法話から聞いた御巣鷹山の日航機墜落事故の遺族の心情が変化していくところだと思います。その後座談があったのですが、みなさんなかなか浄土真宗の「救い」ということが分からないようです。わたしは皆さん、それほど行き詰まりを感じていないのではないか?ということを感じました。すでに行き詰っているというのに。また安原氏から違うという連絡が入りそうです。斎木の「『歎異抄』に聞く」を聞くは終わることはないのです。〈未完〉

2019年12月23日

「『歎異抄』に聞く」を聞く ブログ

廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く -「第四章」-

12月も半分過ぎ、2019年もあと僅かとなりました。三条は今日も雨。いかがお過ごしでしょう。

御存じの通り、12月は和風月名で師走といわれます。その由来は諸説ありますが、もっとも有名な説は、師匠である僧侶が、お経をあげるために東西を馳せる月という意味の「師馳す(しはす)」からきているそうで、そこから字が当てられ「師走」となったそうです。要するに、年末は忙しいんやと。例えば仕事納めに年末調整、年賀状、元旦準備、お歳暮、大掃除などなど…挙げればキリがないですね。そこにクリスマスとかも入ってきたりするのでしょう。忙しいわけです。

廣河も別院の中をかけ走っているので、師匠でもお経でもないですが、気持ち的にほぼ師走です。忙しさは生活のハリということがいえるのではと思いますが、たまにはメリ、気持ちをゆるめてゆっくりお聴聞でもしませんかと自分に言いたくなります。そういう意味でも、『歎異抄』に聞くで記事を書けているのは、有り難いことなのかもしれません。

さて、廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く、第16回目です。10月28日(月)に宗祖御命日日中法要が勤められました。その後の御命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回は三条教区第17組淨福寺(新潟市西蒲区)の八田裕治氏に、『歎異抄』「第四章」を主題にご法話頂きました。

淨福寺、八田裕治氏。去年(2018年)に住職になられたばかりなんだとか。

『歎異抄』「第四章」

一 慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々

【現代語訳】○八田さんより現代語訳、語句を含むレジュメをいただいているので、そちらから掲載しております。

慈悲という言葉は同じでも聖道門自力の道の慈悲と、浄土門の慈悲には違いがあります。聖道門の慈悲というのは、自分のカで全てのいきものをあわれみ、慈しみ、育てようとする心です。しかしながら、思い通りに救いを完結することは極めて困難です。一方、浄土門の慈悲というのは、念仏して(阿弥陀仏の本願を憶念して)、急いで仏と成り、阿弥陀仏の大慈大悲心の心によって、思い通り全てのいきものを救うことができるということを確信することをいうのです。この世でどんなにいとおしい、かわいそうだと思っても、既に御存知の通り、助けることは困難なのですから、聖道の慈悲には始まりも終わりも完了もないのです。ですから、念仏申すことだけが、徹底し大慈悲心であることが出来るのです、と親鷲聖人からお聞きしました。

【語註】○同じく八田さんより語句を含むレジュメをいただいているので、そちらから掲載しております。

この慈悲始終なし…徹底しない。
慈悲…特定の人に対してではなく、すべての人々に友情を持つことが《慈》、人生の痛苦に呻き嘆いたことのある者のみが、苦しみ悩んでいる者を真実に理解でき、その苦しみに同感しその苦しみを癒すことができるのであるが、その道苦の思いやりを《悲》という。涅槃経より慈悲に三種あり凡夫の衆生縁は個々の人間関係によって起こされるから小悲。法縁の慈悲は諸法の道理を悟った菩薩などの聖者によって起こされるから中悲。無縁の慈悲は仏のみ起こされる慈悲で何事にもとらわれず、また妨げられずに起こされる絶対平等の慈悲、大慈悲とも大慈大悲心ともいう。『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』に「仏心というは大慈悲これなり。無縁の慈をもってもろもろの衆生を摂す」聖典106、3無縁の慈悲が大慈悲なのです。
かわりめ…かわりめ 区別 ちがい目 物事の移り変わり
驚聖人の仏道理解について (略) 自力聖道の道を行ずることを通して自力無効と信知させられて、他力浄土門へ転入させられる。慈悲についても聖道門の慈悲から浄土門の慈悲への転換点が「かわりめ」である。〈広瀬杲『いのちのまこと(歎異抄講話2)』〉
聖道門…覚りを妨げる煩悩を克服するために、自らの能力を信じて厳しい修行に励む道。自力門・難行道 自分が主体
浄土門…力のない凡夫を何としても助けたいと願われる阿弥陀仏の本願に従おうとした自覚から開かれる。他力門・易行道 阿弥陀仏が主体

【聞く】

第四章は、「慈悲」ということ、聖道の慈悲と浄土の慈悲ということが述べられております。つまり、聖道の慈悲は私たちが自分の力で行う慈悲、浄土の慈悲は阿弥陀仏の念仏のはたらきによって他力にめざめる慈悲を言われているわけですが、そもそも「慈悲」ってどういう意味なんでしょう?私がイメージできるところで言えば、例えば面倒見がよい人、生き物を大切にする人、困っている人を助ける人、他人のために行動する人などは、いわゆる「慈悲深い」と言える人達かと思います。ではなぜ、こういった人たちの慈悲は深いのでしょうか。

語註でもある通り、慈悲とは、仏教から出た言葉です。親鸞聖人が尊敬されている、中国の曇鸞大師(どんらんだいし)というお坊さんは「慈悲」についてこのように言われています。

苦を抜くを慈と曰う、楽を与うるを悲と曰う(『浄土論註』)

「慈悲」とは「慈しみ悲しむ」と書きますが、意味は、抜苦与楽(ばっくよらく)ということで、苦しみを抜き、楽しみを与えるということです。誰かが困っていたら助けて、苦しみを抜いてやりたい。人の幸せのために行動して、相手の喜ぶ顔を見たい。このような心が抜苦与楽であり、慈悲といわれるわけですね。それを第四章では、聖道の慈悲と浄土の慈悲とで対比させて言われているわけです。

ご法話では、我々凡夫が情によって起こした心、誰かを助けたいという心は、(もちろん大切なことではあるが)徹底しないもの、限界があるんだと言われた上で、三条に起こった水害(おそらく平成16年の7.13水害)と、今年の10月に上陸した台風19号のことを話されておりました。水害においてはその後の復旧、清掃活動に八田さん自身参加されていたそうなのですが、それは御縁に従って行ったことで、まったく仏の慈悲、大悲といえることではないと話されており、また台風19号については、八田さんのお寺の近くはあまり被害がなかったそうで、もちろん被害に遭われた方を聞けば心配するし、亡くなった方を思うと悲しみいたむけれども、やはり「私たちの方には被害がなくてよかったね」と言ってしまう。そして、被害に遭った場所に親類や知り合いがいれば、救援に行くという方もいる。それらは、まったく批判されるようなことではないんだけれども、人間の持つこころの動き、情からくるものであって、仏の大慈大悲心とはまったく違うのだと話されておりました。

この話には、人間の起こす慈悲の特徴がよく表れているように思います。人間の慈悲は、「幸せになってもらいたい」と思う相手が、子供や親、夫や妻、友人など、身近な人には強くかかりますが、縁遠い人だと、さほど慈悲の心がおきません。人間の慈悲には限界があり、誰に対しても平等にはなりえないわけです。ともすれば「私たちの方には被害がなくてよかったね」という差別的な心も生まれてしまうのですね。

また、人間の慈悲は、その思いが長続きしないということも言えると思います。八田さんのお話も、水害があったから、台風があったからこころが動き、行動を起こしているわけですが、その思いはほんの一時のことでしょう。一生を通してその思いが続くかと言われれば、それはまずありえない。助けたいという気持ちは、御縁がなければ生まれないわけですし、日々あらゆる出来事に直面している我々の気持ちは転々と移り変わって安定しません。そういう意味で、我々凡夫の慈悲には限界があるといえるのだと思われます。

人間の慈悲の中で、最も純粋なのは親の子供に対する愛の心ではないでしょうか。幼いころ、病気になって親に看病してもらった経験は誰しもあることでしょう。子が病に伏して苦しんでいるのを見ると、親は自分のことは目もくれず、食べやすいおかゆを作ったり、熱が出れば氷枕を準備したり、看病につきっきりになったりします。苦しむ子供の声が聞こえれば、たとえそれが深夜であっても一心に看病します。元気になれば、子供の喜ぶことならと思って、好きなものを買い与えたり、出先で珍しいお土産のお菓子をいただいた時は持って帰って、子供に食べさせたりします。仏教ではそんな人間の慈悲を小悲と言われます。悲しいことですが、それはすべての人に平等にかかるものではなく、限られた関係性の相手だけにかかる小さい慈悲であるからです。自分の子供と同じように、他人の子供に接することはできません。また、時には良かれと思ってしたことがかえって不幸を招いてしまうこともあります。親の溺愛といわれますが、盲目的な愛によって、一切怒らず、過保護に育てた結果、社会に出ても自立心が弱く、社会の荒波に順応できなくなってしまうことがあります。人間の慈悲の中でも純粋といえる親の愛であっても、限界があるわけです。

一方で、浄土の慈悲は、人間が抱く慈悲ではありません。如来が、生きとし生けるもの全体に対して抱く慈悲です。人間全体が如来から哀れまれ、過去・現在・未来につながるすべての存在を、ともに救わんとする、という大いなる慈悲です。その機縁は、他者をたすけたい、自分をたすけたいという思いの限界です。その究極は、愛する者との別離、死でしょう。最愛の人がもし死ぬとなったときに、自分が代わりに死ぬことはできないのです。そこで、人間の慈悲には限界があることに気づいて、そのこころがまるごとひっくり返されるところに、如来のほうから慈悲が発現される。ここでは、対比の形をとっていますが、浄土の慈悲が上等で聖道の慈悲が下等だとか、そういう話をしているわけではありません。「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」の「かわりめ」は、慈悲の性質自体がひっくり返り、まったく質が異なることを言われているのだと思われます。ここには、「あれかこれか」という人間の二者択一的な思いを超えて、「これしかない」という他力のめざめを念仏によっていただくことが言われているのでしょう。

しかしどこまでいっても、我々人間はいきものをあわれみ、かなしみ、はぐくむことをやめれないですし、それしかできません。だからこそ、聖道の慈悲では解決できないことに直面したときに、「浄土」という形で表現される超越の課題、つまり「この世」を超えた視点から、「この世」を問うという問題関心を言い続けなければならないのでしょう。

ご法話は途中、八田さんと、その坊守さんも一緒になって話されておりまして、夫婦漫才ならぬ夫婦法話、なんて言われておりましたが、法話の新たなスタイルがそこにあったと思います。楽しくご聴聞させていただきました。

11月28日(木)の御命日のつどいでは、『歎異抄』「第五章」をテーマに第13組安淨寺(長岡市)の安原陽二氏よりお話頂きました。その日、廣河は御正忌報恩講団体参拝で上山していて不在でしたので、代わりに関崎列座に聞いていただきました!順次アップロードしております。合わせてご覧ください。

2019年12月11日

「『歎異抄』に聞く」を聞く ブログ

廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く -「第三章」-

随分と、更新が遅れてしまいました。完全に言い訳ですが、9月頃から、三条別院のお取り越し報恩講の準備が段々と激化してくるので、御命日のつどいの記録も中々書く時間が取れなかったのですね。そして日があけば、どんな内容だったか思い出すところから…いやはや、力不足を感じる今日この頃です。去年の私は一体どうやってこの時期書いていたんだろうかと思って、去年の記事を見てみましたが、次の一文で辟易。

 

来月にお取り越し報恩講を控え、慌ただしい日々を過ごしております。ですが、どのような日々であってもすべてが聞法生活。その意識が薄れていかないように、何度でも仏法に出遇わせていただくということが、大切なことのように思います。廣河が『歎異抄』に聞くを聞く。 ー「第十二章」ー

 

随分と偉そうなことを申しております(汗)果たして私は仏法に出遇えているのでしょうか。忙しさに右往左往し、お役目も果たせず慌てふためいている姿しか回想できません…。それでもと、言い続けるしかないのでしょうけど。

さて気を取り直して、廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く、第15回目です。9月28日(土)に宗祖御命日日中法要が勤められました。その後の御命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回は三条教区第20組光圓寺(新潟市江南区沢海)の村手淳史氏に、『歎異抄』「第三章」を主題にご法話頂きました。

第20組光圓寺 村手淳史氏。定例布教として、以前にもこの『歎異抄』に聞くでもお話いただいております。

『歎異抄』「第三章」
【本文】

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや悪人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。

【現代語訳】

善人でさえ往生と遂げることができる だから悪人は言うまでもない。それなのに世間の人たちは常に言っている。悪人でさえも往生する、だから善人は言うまでもない。このことは、一応その道理があるように思われるけれども、本願他力の趣旨に背いている。その理由は、自らの力をたのんで善を作し功徳を積もうとする人は、一筋に他力をたのむ心が欠けているので 阿弥陀仏の本願にかなっていない。けれども、自力の心をひるがえして、他力をおたのみするならば真実の報土の往生を遂げることができるのである。須悩をことごとく具えている私たちは どのような行いによってもこの迷いの世界を離れることがまったくないということを悲しまれて本願を発された本当の御心は、悪人成仏のためであるから、他力をおたのみする悪人こそ、もっとも往生の正因なのである。それ故、善人でさえ往生する、だから悪人は言うまでもない。と親鷲聖人は仰せられました。

○今回、村手さんより現代語訳を含むレジュメをいただいているので、そちらから掲載しております。

【語註】

善人…自分を善い行いをすることができると思っている人。

悪人…自分を真実に背く罪悪の身だと自覚している人。

一旦…一応

そのいわれあるににたれども…道理があるように思われますが。

自力作善のひと…自力の力によって、善い行いができると思っている人。

真実報土…本願がかたちをとってあらわれた、迷いを超えた世界。浄土のこと。

煩悩具足…さまざまな煩悩をすべてそなえて生きていること。

生死…生にとらわれ、死を遠ざけている迷いの人生。

悪人成仏…罪悪の身を自覚し生きているものが、仏になること。

往生の正因…往生を遂げるための最も大切な自覚。

【聞く】

第三章は、一見突拍子もなく、「救い」の対象として、善人より悪人のほうが救われるという提言がなされています。仏教に詳しくない、浄土真宗全然わからないという人でも、この「悪人正機」の話は聞いたことがあるのではないでしょうか。私も高校の時、歴史の授業で習った覚えがあります。当時の私はこのことを聞いて、悪い人こそ救われるのなら、悪い事し放題で困った世の中になってしまうだろうなと考えたものです。仏教に関心がなく、親鸞聖人の思想、他力本願の意味も知らない人間にとっては、「悪人正機」ということだけを見ればそのように受け取ってしまうのも当然のことかと思います。そういう意味で、受け取り、取り扱いに注意の必要な章と言えます。

ご法話では、善人とはどういう人か、悪人とはどういう人なのかについて言及されておりました。つまり、善人とはわかったつもりの人(わかろうとしない人)、悪人とはわからない人(わからないことがわかった人)と言われ、その上で、世間的価値観から自分を見れば、全員善人で、全員善人であろうとする。仏さまから人間を見れば、全員悪人であると言われておりました。

高校時の私の捉えは正しく世間的価値観の上での捉えですね。悪い事をした人が、悪い人、悪人になる。しかし、その悪い事というのは誰が決めたのか?親が、友達が、先生が、法律が、周りがそう決め、教えるから善か悪かをイメージできるわけですが、あくまでそれは世間的価値観で判別しているにすぎません。だから、世間が移ろえば善悪の価値観も変動しますし、人もまた同じでしょう。本当のところは何もわからないけれど、時と場合によって善悪を判断し、わかったつもりでいる。ここに、全員悪人であるという仏の眼が言えるのだと思います。

 

親鸞聖人は人間を省察する上で、人間を善、悪によって定型化しておりません。

さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし(『真宗聖典』六三四頁)

善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。(『真宗聖典』六四〇頁)

このように、人間の在り方は時、場所の条件、業縁(カルマ)によって善人にも悪人にもなり得る存在とみております。また、業縁の中を人間も含め、生物は生きているわけですが、人間存在は生物的な生命にとどまらず、人格的な生命、社会的な共同体を営みます。善悪の規範、規準によって共同体を生きているわけですから、その人を善か悪か判じることは全くできることではないのです。

夏目漱石が『こころ』という作品の中で、善い人間と悪い人間について、次のように述べているところがあります。

君は今、君の親戚なぞの中に、これといって、悪い人間はいないようだと云いましたね。然し、悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。だから油断ができないのです。(『こころ』夏目漱石 新潮文庫)

ドラマなど見ていても、家の当主を喪った、哀しい死を悼むお通夜の場面が、一転して翌朝には、遺産相続の醜い骨肉の争いになることがあります。その意味では、夏目漱石のいう「平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです」という了解は、親鸞聖人の「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という、人間存在の凝視と共通しているといえるでしょう。

そういった親鸞聖人の悪人理解をふまえた上で、この章は、「善人のほうが救われるのか、悪人のほうが救われるのか」ということが表にでておりますが、「往生」ということ、つまり本願を信じ、自分の悪(わからない)に目覚めた人こそ、往生の一道に立った人であるということが基本線になっていると了解できます。この短い章に、「往生」という言葉が5回、そして同義語といえる「成仏」「生死をはなれて」という内容が繰り返されている点にも留意すべきと思います。つまり、出家者(道)、在家者(俗)の区別なくすべての人が救われる地平、仏に成る道はどこにあるのかの教示であろうかと思います。

長く仏道は、聖道と称して純潔と自制を願いとした「戒」の論理にありました。その願いは純潔な理念でありましたが、生活の大地からは離れていました。山に籠って修行をするという修道院仏教の枠を出ることはできなかったのです。第三章に対応しているといわれる第十三章では、その問題を

持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきや(『真宗聖典』六三四頁)

と問いかけ、その修道院仏教から疎外されていた民衆の人々の名を挙げています。

うみやまに、あみをひき、つりをして、世をわたるもの(漁師)

野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがら(猟師)

あきないをもし(商人)

田畠をつくりてすぐるひと(農民)

そこには、日々の生活に明け暮れ、生きるためには殺生をなし、物を売り買いして生きなければならない、日常の人間業の救いこそを問題にしております。清浄の行を基準とする善、戒の論理からみれば除かれる人々です。この第三章の内容は、そういった「人間業によって悪(罪)を犯すものの救いはあり得るのか」ということを、通底して問いかけているのではないでしょうか。

 

10月28日(月)の御命日のつどいでは、『歎異抄』「第四章」をテーマに第17組淨福寺(新潟市西蒲区)の八田裕治氏よりお話頂きました。鋭意執筆中です!ではまた!

トップへ戻る