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三条別院|浄土真宗 真宗大谷派
三条別院|浄土真宗 真宗大谷派

「『歎異抄』に聞く」を聞く

廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。 -第十一章-

「廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。」第四回目となります。いつもよりも投稿が遅れ、申し訳なく思います。また、私事になりますが、9月より私廣河は三条別院の常勤列座となりました(これまでは非常勤列座でした)。非常に嬉しく思いますが、仕事量もその分増えますので、今後の連載はより一層苛烈を極めることと予測できます。土俵際、褌締めて、ぶちかまし。ということで、今後ともよろしくお願いいたします。

8月28日(火)に宗祖御命日日中法要が勤められました。その後の御命日のつどいでは、一昨年から『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回は三条教区23組長願寺(新発田市下興野)の北條祐史氏に、『歎異抄』「第十一章」を主題にご法話頂きました。

元和元年(1615年)から続く長願寺のご住職、北條祐史氏。

『歎異抄』「第十一章」

一 一文不通のともがらの念仏もうすにおうて、「なんじは誓願不思議を信じて念仏もうすか、また名号不思議を信ずるか」と、いいおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明にいいひらかずして、ひとのこころをまどわすこと、この条、かえすがえすもこころをとどめて、おもいわくべきことなり。誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束あることなれば、まず弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて、生死をいずべしと信じて、念仏のもうさるるも、如来の御はからいなりとおもえば、すこしもみずからのはからいまじわらざるがゆえに、本願に相応して、実報土に往生するなり。これは誓願の不思議を、むねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり。つぎにみずからのはからいをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さわり、二様におもうは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、もうすところの念仏をも自行になすなり。このひとは、名号の不思議をも、また信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地懈慢疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなわち、誓願不思議のゆえなれば、ただひとつなるべし。(『歎異抄』真宗大谷派宗務所出版部)

【私訳】

一つ 学問・知識によらないで、ひたすら念仏を称えているひとたちに対して、「お前は、人間の思慮を超えた阿弥陀の本願を信じて念仏をしているのか?それとも、阿弥陀の名号(南無阿弥陀仏)の不思議なはたらきを信じて念仏しているのか?」と、相手をびっくりさせるような議論を吹っかけて、ふたつの不思議の本当の意味をはっきりと説くこともしないで、人びとのこころを惑わせるようなことは、くれぐれも熟慮し、注意して慎しまねばならない。阿弥陀仏は、思慮を超えた本願のはたらきによって、いつでも思い起こすことができ、だれでも称えることのできる名号として、自らをこの娑婆世界へ表現し、この名号を称えるものを、浄土に迎えとろうと約束されていることである。そうであるから、まず阿弥陀仏の大悲のはたらきに無条件に包まれて、迷いの生活をひるがえすことができると信じて、南無阿弥陀仏と称えられるのも、阿弥陀如来の尊いはたらきだと頷けば、まったく人間の努力意識が混ざらないのである。よって本願のおこころとひとつになって、阿弥陀如来の真実の世界に生まれることができるのである。これはつまり、思慮を超えた本願のはたらきを、もっとも肝要だとこころの底から受け止めたならば、すでに南無阿弥陀仏の不思議も備わっているのだから、誓願と名号の不思議はひとつであり、まったく異なることはないのである。次に、自分自身の思慮・分別をさしはさんで、善悪の行為について、これは往生のためのたすけとなる善い行為、これは往生のために妨げとなる悪い行為と、ふたつに分けて考えるのは、思慮を超えた本願のはたらきにすべてをまかせないで、自分のこころで往生のための善行をはげみ、南無阿弥陀仏を称えることも自己満足のための行為にしてしまうことである。このひとは、阿弥陀の名号の思慮・分別を超えたはたらきをも、また信じていないのである。しかし、たとえ信じていなくとも、方便化土(仮りの救い)に摂めとって、真実の浄土に必ず生まれさせずにはおかないという願いによって、究極的に真実の浄土に往けるのは、阿弥陀の名号の不思議な力のはたらきなのである。これは、そのまま思慮を超えた阿弥陀の本願の不思議なはたらきであるから、誓願と名号とはまったくひとつなのである。

【語註】○参考…①『[新装]仏教学辞典』 法蔵館発行 ②『歎異抄』真宗大谷派宗務所出版部

誓願…願を起こして、成し遂げようと誓うこと。仏や菩薩には、共通した願である総願と、仏。菩薩個々の願である別願とがある。浄土教では、特に阿弥陀仏の本願をさして誓願という。それは弘くすべてのものを救おうとする願い、誓いであるから、弘願、弘誓といい、あわれみの心が深く思いから重願といい、また不捨の誓約、本誓などともいう。誓願の救済力を誓願力といい、そのはたらきが凡夫の考えの及ばないものであるから誓願不思議という。親鸞の門下で、誓願の力で救われるか、名号の力で救われるかという論争をする者があったが、親鸞は誓願と名号とは同一であるとした(御消息集)。ただし存覚の名号不思議誓願不思議問答には、誓願不思議を他力中の他力、名号不思議を他力中の自力であるという。①

名号…主として仏・菩薩の名をいう。ほめたたえて宝号、尊号、徳号、嘉号などといい、仏のさとりの名であるから果名、果号、果上の名号などという。≪中略≫浄土教では専ら阿弥陀仏の名をいい、南無阿弥陀仏(六字の名号)を称えることにより、あるいは名号のはたらきを身に受けることにより、浄土に生まれるとする。阿弥陀には無量寿((梵)アミターユス Amitayus)、無量光((梵)アミターバ Amitabha)の意があるから、南無阿弥陀仏を訳して帰命無量寿如来、南無不可思議光如来(九字名号)、帰命尽十方無礙光如来(十字名号)などという。真宗では九字・十字の名号を六字名号と共に本尊として用いることがある。①

辺地懈慢疑城胎宮…辺地とは、真実の浄土のほとり。懈慢は、怠惰の心で、幸福の実現を求めている世界。疑城・胎宮は、仏智のはたらきに心暗い人が生れていくとされる世界で、実は仏法に遇えない様を表している。いずれも本願を疑う心のままに、しかも浄土に生まれたいという心によって願われている世界。(これを真実報土に対して方便化土という。)②

 

※今回私訳と語註を付けてみました。「ここはこうではないか?」とか「読みづらい」などご意見ありましたら、アドバイスをお願い致しますm(_ _)m

『歎異抄』「第十一章」からは、いわゆる「歎異篇」に入っていきます。ここからは、これまでのいわゆる「師訓篇」とは毛色が異なり、「歎異」「異なるを歎く」といわれるように、『歎異抄』の著者が見聞して深い悲しみを覚えた、親鸞聖人の仰せに背くような見解が八ヵ条ほど取り上げられ、批判されています。「第十一章」では特に、「本願を信ずることと、名号を信じること」は違うという見解を正す、ということを中心に批判が述べられています。

法話ではまず、「第十一章」と「第一章」(そのまま「第十二章」と「第二章」、「第十三章」と「第三章」が)対応しているということが言及されました。つまり、「第一章」では誓願不思議というところで、浄土真宗のすべてを支える阿弥陀如来の誓願についての、親鸞聖人の了解が述べられますが、この「第十一章」ではその了解に背く見解が人々の間に広まっているから歎異する、といったつながりになっています。また「第一章」から「第九章」までは、当時の社会不安の中で、異なることを悲しむ著者の想いが、ある種瑞々しく表現されているのに対し、「第十一章」からはどこか理屈っぽく書かれている、と北條氏は述べます。

熱心に聞き入る参詣の皆様。講師も真剣ですが、聞く方も真剣です。

また、北條氏は続けて「不思議」についても言及しました。つまり、言ってしまえば我々が呼吸すること一つをとってみても、地球に重力があり、引力があり、適度な距離に太陽があって気温も極端な変化はなく、水や大地、そして動植物がいるからなど、様々な要素、宇宙の因縁が重なって成り立っている実に「不思議」なことです。北條氏はその「不思議」を「勘定ならない」と表現しました。我々人間に勘定ならないもの、それが「不思議」なのです。

そして、さらにその意味を「阿弥陀」が持っていると北條氏は言います。どういうことか。そもそも阿弥陀とはサンスクリット語の音写で、梵名はアミターバअमिताभAmitābha)、あるいはアミターユス (अमितायुस्Amitāyus)と言い、アミターバは「量(はかり)しれない光を持つ者」、アミターユスは「量りしれない寿命を持つ者」の意味で、これを漢訳して無量光仏無量寿仏と言うのです。それで、さらにサンスクリット語を分解してみますと、A+mita(bhaもしくはyus)となります。”bhaभ(バ)”は光、”yusयुस्(ユス)”は寿命を表しますが、”Aअ(ア)”は否定を表します。そして”mitā मित  (ミタ)”はモノを量るという意味なので、アミダと合わせることで「量ることができない」と訳すことができます。故に、「阿弥陀」は勘定ならないものであり、「不思議」と言えるのです。

北條氏は続けて、その「阿弥陀」ということ、「不思議」ということが何故人間に分からないのかを述べました。つまり、我々人間は、自己を中心とした世界を生きている。そして物事を捉える視点も、認識主体が自己にあるために、自分の都合の良いようにしか認識しない。だから、認識の外にある事柄はまずもって理解し難く、認識内にあると思っていることでも都合良く考えてしまうため、真実がわからない。こう言ってしまうと「不思議」「阿弥陀」ということが、人間と何の接点も持たないという風に見えてしまいます。私は思うに、だからこそ釈尊は、阿弥陀仏の建立された「誓願」と、そのはたらきをもつ「名号」という形をもって、一切衆生を救うと人々に説うたのだと考えます。その「名号」によって、接点のなかった私と仏との間に、橋がかけられるのです。南無阿弥陀仏という名号を称えん者をこそ、迎え入れんという大悲の誓願。「第十一章」で言われるように、「誓願」と「名号」とは我々人間の思慮を超えた阿弥陀の本願の不思議なはたらきなのですから、別々の事柄ではなく、まったく一つなのです。

駐在教導の西山も聴講。聞法に垣根はありません。

『歎異抄』の意味世界へ入っていこうとすると、逆にこちら側が照り返されてきます。それは「逆照作用」といってもよいでしょう。例えば、「誓願不思議・名号不思議」という言葉に出あうと、「不思議」が『歎異抄』の側に属しているように思えてしまいます。しかし、その「不思議」は、「すでに、汝の存在にはたらいているのではないか?」と逆照されてきます。
つまり、ひととして誕生することの「不思議」、国籍・民族・時代・性別などの限定性、自己の存在の原初に「不思議」があるではないかと。「不思議」という言葉を忌避させるのは、理性でしょう。理性は、認識・分析・統合という作用により、「不思議」を排除しようとする。その理性そのものが、『歎異抄』から逆照されてくるのではないでしょうか。そこに初めて、「不思議」を拝跪し、受容する理性が成り立つように思います。

次回9月28日(金)の御命日のつどいでは、『歎異抄』「第十二章」をテーマに第20組金寶寺の朝倉奏氏よりお話頂きます!どうぞお誘い合わせてお参りください。

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