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三条別院|浄土真宗 真宗大谷派
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「『歎異抄』に聞く」を聞く ブログ

廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く -「第三章」-

随分と、更新が遅れてしまいました。完全に言い訳ですが、9月頃から、三条別院のお取り越し報恩講の準備が段々と激化してくるので、御命日のつどいの記録も中々書く時間が取れなかったのですね。そして日があけば、どんな内容だったか思い出すところから…いやはや、力不足を感じる今日この頃です。去年の私は一体どうやってこの時期書いていたんだろうかと思って、去年の記事を見てみましたが、次の一文で辟易。

 

来月にお取り越し報恩講を控え、慌ただしい日々を過ごしております。ですが、どのような日々であってもすべてが聞法生活。その意識が薄れていかないように、何度でも仏法に出遇わせていただくということが、大切なことのように思います。廣河が『歎異抄』に聞くを聞く。 ー「第十二章」ー

 

随分と偉そうなことを申しております(汗)果たして私は仏法に出遇えているのでしょうか。忙しさに右往左往し、お役目も果たせず慌てふためいている姿しか回想できません…。それでもと、言い続けるしかないのでしょうけど。

さて気を取り直して、廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く、第15回目です。9月28日(土)に宗祖御命日日中法要が勤められました。その後の御命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回は三条教区第20組光圓寺(新潟市江南区沢海)の村手淳史氏に、『歎異抄』「第三章」を主題にご法話頂きました。

第20組光圓寺 村手淳史氏。定例布教として、以前にもこの『歎異抄』に聞くでもお話いただいております。

『歎異抄』「第三章」
【本文】

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。

【現代語訳】

善人でさえ往生を遂げることができる。だから悪人は言うまでもない。それなのに世間の人たちは常に言っている。悪人でさえも往生する、だから善人は言うまでもない。このことは、一応その道理があるように思われるけれども、本願他力の趣旨に背いている。その理由は、自らの力をたのんで善を作し功徳を積もうとする人は、一筋に他力をたのむ心が欠けているので 阿弥陀仏の本願にかなっていない。けれども、自力の心をひるがえして、他力をおたのみするならば真実の報土の往生を遂げることができるのである。須悩をことごとく具えている私たちは どのような行いによってもこの迷いの世界を離れることがまったくないということを悲しまれて本願を発された本当の御心は、悪人成仏のためであるから、他力をおたのみする悪人こそ、もっとも往生の正因なのである。それ故、善人でさえ往生する、だから悪人は言うまでもない。と親鷲聖人は仰せられました。

○今回、村手さんより現代語訳を含むレジュメをいただいているので、そちらから掲載しております。

【語註】

善人…自分を善い行いをすることができると思っている人。

悪人…自分を真実に背く罪悪の身だと自覚している人。

一旦…一応

そのいわれあるににたれども…道理があるように思われますが。

自力作善のひと…自力の力によって、善い行いができると思っている人。

真実報土…本願がかたちをとってあらわれた、迷いを超えた世界。浄土のこと。

煩悩具足…さまざまな煩悩をすべてそなえて生きていること。

生死…生にとらわれ、死を遠ざけている迷いの人生。

悪人成仏…罪悪の身を自覚し生きているものが、仏になること。

往生の正因…往生を遂げるための最も大切な自覚。

【聞く】

第三章は、一見突拍子もなく、「救い」の対象として、善人より悪人のほうが救われるという提言がなされています。仏教に詳しくない、浄土真宗全然わからないという人でも、この「悪人正機」の話は聞いたことがあるのではないでしょうか。私も高校の時、歴史の授業で習った覚えがあります。当時の私はこのことを聞いて、悪い人こそ救われるのなら、悪い事し放題で困った世の中になってしまうだろうなと考えたものです。仏教に関心がなく、親鸞聖人の思想、他力本願の意味も知らない人間にとっては、「悪人正機」ということだけを見ればそのように受け取ってしまうのも当然のことかと思います。そういう意味で、受け取り、取り扱いに注意の必要な章と言えます。

ご法話では、善人とはどういう人か、悪人とはどういう人なのかについて言及されておりました。つまり、善人とはわかったつもりの人(わかろうとしない人)、悪人とはわからない人(わからないことがわかった人)と言われ、その上で、世間的価値観から自分を見れば、全員善人で、全員善人であろうとする。仏さまから人間を見れば、全員悪人であると言われておりました。

高校時の私の捉えは正しく世間的価値観の上での捉えですね。悪い事をした人が、悪い人、悪人になる。しかし、その悪い事というのは誰が決めたのか?親が、友達が、先生が、法律が、周りがそう決め、教えるから善か悪かをイメージできるわけですが、あくまでそれは世間的価値観で判別しているにすぎません。だから、世間が移ろえば善悪の価値観も変動しますし、人もまた同じでしょう。本当のところは何もわからないけれど、時と場合によって善悪を判断し、わかったつもりでいる。ここに、全員悪人であるという仏の眼が言えるのだと思います。

 

親鸞聖人は人間を省察する上で、人間を善、悪によって定型化しておりません。

さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし(『真宗聖典』六三四頁)

善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。(『真宗聖典』六四〇頁)

このように、人間の在り方は時、場所の条件、業縁(カルマ)によって善人にも悪人にもなり得る存在とみております。また、業縁の中を人間も含め、生物は生きているわけですが、人間存在は生物的な生命にとどまらず、人格的な生命、社会的な共同体を営みます。善悪の規範、規準によって共同体を生きているわけですから、その人を善か悪か判じることは全くできることではないのです。

夏目漱石が『こころ』という作品の中で、善い人間と悪い人間について、次のように述べているところがあります。

君は今、君の親戚なぞの中に、これといって、悪い人間はいないようだと云いましたね。然し、悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。だから油断ができないのです。(『こころ』夏目漱石 新潮文庫)

ドラマなど見ていても、家の当主を喪った、哀しい死を悼むお通夜の場面が、一転して翌朝には、遺産相続の醜い骨肉の争いになることがあります。その意味では、夏目漱石のいう「平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです」という了解は、親鸞聖人の「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という、人間存在の凝視と共通しているといえるでしょう。

そういった親鸞聖人の悪人理解をふまえた上で、この章は、「善人のほうが救われるのか、悪人のほうが救われるのか」ということが表にでておりますが、「往生」ということ、つまり本願を信じ、自分の悪(わからない)に目覚めた人こそ、往生の一道に立った人であるということが基本線になっていると了解できます。この短い章に、「往生」という言葉が5回、そして同義語といえる「成仏」「生死をはなれて」という内容が繰り返されている点にも留意すべきと思います。つまり、出家者(道)、在家者(俗)の区別なくすべての人が救われる地平、仏に成る道はどこにあるのかの教示であろうかと思います。

長く仏道は、聖道と称して純潔と自制を願いとした「戒」の論理にありました。その願いは純潔な理念でありましたが、生活の大地からは離れていました。山に籠って修行をするという修道院仏教の枠を出ることはできなかったのです。第三章に対応しているといわれる第十三章では、その問題を

持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきや(『真宗聖典』六三四頁)

と問いかけ、その修道院仏教から疎外されていた民衆の人々の名を挙げています。

うみやまに、あみをひき、つりをして、世をわたるもの(漁師)

野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがら(猟師)

あきないをもし(商人)

田畠をつくりてすぐるひと(農民)

そこには、日々の生活に明け暮れ、生きるためには殺生をなし、物を売り買いして生きなければならない、日常の人間業の救いこそを問題にしております。清浄の行を基準とする善、戒の論理からみれば除かれる人々です。この第三章の内容は、そういった「人間業によって悪(罪)を犯すものの救いはあり得るのか」ということを、通底して問いかけているのではないでしょうか。

 

10月28日(月)の御命日のつどいでは、『歎異抄』「第四章」をテーマに第17組淨福寺(新潟市西蒲区)の八田裕治氏よりお話頂きました。鋭意執筆中です!ではまた!

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