どんな日も、どんな時代も、そばにある。

三条別院|浄土真宗 真宗大谷派
三条別院|浄土真宗 真宗大谷派

最新情報
NEWS

2017年12月8日

別院だより・三条教区通信

別院たより・教区通信12月号

『別院たより』お取り越し報恩講特集号と『教区通信』第124号を掲載します。
是非ご覧ください。

11月は三条別院お取り越し報恩講執行のため発信できず申し訳ありませんでした。
今回の内容は実質12月号となります。
次回の発信は1月号として、12月末に発信させていただきます。

こちらからダウンロードください。
tayori_tsushin2017-12

2017年12月3日

講演会・お知らせ

三条別院御煤払い奉仕団、除夜の鐘、修正会のご案内

12月17日(日)9時から12時まで、御本尊と親鸞聖人の真向きの御影の御煤を払い、その後、本堂などの清掃をする御煤払い(おすすはらい)奉仕団を行います。
本堂の内陣の清掃ができる希な機会です。また、真宗史研究者の西山郷史先生による法話(仏教・浄土真宗にとって「正月」の意味)もありますので、ぜひお参りください。
参加費は昼食代の500円で、12月14日(木)までにお申し込みください。


イラストは天才漫画家のたまごのマッシュタカノ(高野恭輔氏)です。

そして、流行に便乗して、ドイツやフランスで親しまれているシュトーレンを本場フランスで修業した菓子職人(三条中央商店街のむさしや)が、別院行事宣伝バージョン特別定価500円で店頭販売します。

除夜の鐘は12月31日(日)の23時45分に第1打。23時30分から受け付け開始で実際に鐘をついていただけます。今年は22時から旧御堂を開放していますので、寒くなくお待ちいただけます。ココアと甘酒を用意しています。今年も除夜の鐘整理券をもってそば処「今泉」に行くと、500円で年越しそばが食べられます!

2017年12月2日

ブログ

落語研究会新潟県央と「法話と落語」を行いました。

11月30日三条別院旧御堂にて、三条中央公民館主催の「お寺で体感 法話と落語」を開催しました。
落語研究会新潟県央の世久利亭応契さんと運転し亭越後屋さんのお二人と、三条別院列座の斎木と森尻でお話ししました。
社会人落語という分野があるそうで、他に学生落語とプロ落語があるのですが、他の仕事をしながら落語を研究することで、ある意味ではプロよりも幅をもった落語ができる(笑)ということです。某警備会社勤務の世久利亭応契さんが得意なものは「泥棒もの」、えちごトキめき鉄道に勤め日本一面白い車掌を自負する運転し亭越後屋さんは観光列車ならではの巧みな話術と下ネタなど、それぞれに武器があります。
今年の3月の春彼岸に、やっちく二人会の八木さんと竹原さんに来ていただいて、斬新な「法話と落語」というスタイルでお話ししていただきましたが、完全にその方法にのっとって、「導入の法話」⇒「落語」⇒「解説の法話」という流れで2席行いました!

第1部は「釜泥」
石川五右衛門の子孫が、釜茹でにされた五右衛門の供養のため、町中の釜を盗もうとたくらむ話。豆腐屋夫婦が釜を盗まれないように、釜の中で番をするが……
世久利亭応契さんが得意の「泥棒もの」でした。

【法話】(斎木)
この話で泥棒は「悪人」でしょうか?泥棒は、泥棒の正義があり、石川五右衛門の供養という大義があり、泥棒にとっては自分たちは「善人」です。豆腐屋は商売道具の豆を煮る釜を取られないように必死ですので当然「善人」です。しかし、浄土真宗の人間観では世の中にはには「悪人」しかいないと考えます。
「善人」とは「善人面した悪人」です。「悪人」と「善人面した悪人」とどちらがましでしょうか?人間は原理的に自分に課せられた責任を果たせないようになっていて、責任を果たせなくてごめんなさいと謝れる「悪人」が、自分は正しい!と言い張る「善人面した悪人」よりましではないでしょうか?「善人面した悪人」から「悪人」に帰ることを「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」(『歎異抄』)という親鸞聖人の言葉は示しているのではないでしょうか。

第2部は「風呂敷」
ある女が亭主が不在の時に他の男を家に連れ込んでいたが、亭主が帰ってきてしまい、男を押し入れに隠したものの、どう脱出したらいいものか……風呂敷を利用して脱出を試みます。
運転し亭越後屋さんが流行(?)の男女の関係のもつれをおかしく表現しました。

【法話】(森尻)
落語では明言されませんが、この女性は「浮気」をしていたと考えられます。浮気は仏教では「不邪淫戒」といい、男女が邪に交わることをいいます。普通、浮気は、するほうが悪いと言いますが、この亭主は酔っぱらっていて乱暴者として演じられていましたし、もしかしたら浮気をしてしまう理由があったのかもしれない。人間にとって、「逃げ場」が大切なことがあり、浮気が「逃げ場」である可能性があったのではないか。浮気という方法だけでなく、「安心して逃げ場を与えてくれる」のが、念仏の教えではないでしょうか?

ちなみに集合写真の駒札のとなりは中央公民館担当の澤崎さんで、斎木の小学校・中学校・高校の同級生です。

2017年11月28日

三条別院に想う

小松酒店さんに三条別院に想うを執筆していただきました!


とある銀行で「写真で見る三条の歴史展」というのがありました。その一枚に、昭和30年代の「本寺小路」の入り口を写した写真がありました。その写真には大勢の人々でごった返していました
この地域は三条の中心市街地で、昭和30〜40年代には多くの買い物客が、近隣からバスや電車に乗って集まって来ました。それが今では、車社会になり、郊外に大型店ができ、中心市街地にはいつの間にか人の気配がなくなりました。
三条中央商店街では、様々な取り組みをして来ました。イベントをやれば、それなりに人々は戻って来ましたが一時的なもので、なかなかお店に還元する売り出しにはつながりませんでした。
そんな中(1つ目)、若手から、地元にあるコンテンツを見直してそれを生かした取り組みができないか、という話が出ました。それは、「三条別院」を念頭に置いた発言でした。私自身今までのイベント型の売り出しに限界を感じていた矢先でしたし、もっと日常の中で、ゆっくりとした売り出し、それも毎年恒例の、というような形で、その時期が来るのを待ち望まれるような売り出しができたら、と思っていました。
そんな中(2つ目)、三条別院の斎木さんから、今回の「報恩講」を三条中央商店街と一緒に盛り上げることはできないか、とのお話がありました。
図らずも両者の思いが合致し「相思相愛」的な形となり、それからはトントン拍子に話が進んでいきました。
売り出しを終わって、結果としては、まだまだ改善点はありますが、手応えは感じています。来年も同様の売り出しを行いたいと考えています。
今回10月に報恩講の「のぼり」を商店街のアーケードに取り付けた時のウキウキ感は忘れられません。商店街全体が、「報恩講」色に染まった感がありました。
今後も「三条別院」の皆様と一緒にこの地域を盛り上げて行けたらと思います。目指すはあの昭和30年代の大勢の人々でごった返す本寺小路の写真です。

小松 正明

▲酒商 小松酒店
▲三条市本町1丁目9-5 TEL0256-33-0401
▲三条中央商店街とお取り越し報恩講の協力に際し、リーダーとして采配をふるわれた小松酒店の小松さんに執筆していただきましたが、お取り越しが終わっても、三条別院と中央商店街との協力は、まだまだ終わりません。なぜなら、そこに別院があり、そこに中央商店街があるからです。

2017年11月26日

ブログ

10月28日 御命日のつどい法話 日下部文典氏より要約文をいただきました。

三条別院では、親鸞聖人の御命日である毎月28日にお勤めと法話のつどいをひらいております。本年も『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話いただいております。
午前10時からお勤めがありますので、お誘い合わせてお参りください。

10月28日に開催された「御命日のつどい 歎異抄に聞く」法話要約文を、長岡市 蓮壽寺住職 日下部文典師よりお送りいただきました。
日下部師には歎異抄第二章をテーマにご法話いただきました。

御命日のつどい 要約文 日下部文典師

 第二章に心引かれる理由は、①対話という出来事をめぐって、念仏する人々が登場する②動きがあり映像化できる③親鸞聖人の名乗りが聞けるという三点です。第二章のキーワードを「往生極楽のみち」と「地獄は一定」にしました。そこには、これが私の人生と言い切る親鸞の人生観そのものが伺えます。

 では、いのちがけで聞きたいこととは、何だったのでしょう。狭い部屋で膝突き合わせての話し合いに、親鸞が相手の気持ちに寄り添って傾聴、受容する姿が思い起こされます。

 親鸞は、「ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり」と断定しています。親鸞は問うた人々の心を見抜き、教えに対する基本的な姿勢を鋭く突いています。それは、信心不徹底の理由を再確認されていることでもはりましょう。さらに私たちは、この二章の背景にあるもの(善鸞事件等)を確認して読み進めることが大切になってきます。
 
 次に存知は分からない。わかる必要もないこと。信知は身・口。意でわかることです。「親鸞に起きては、ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべしとよき人の仰せをかぶりて別の子細なきなり」の言葉は、全身全霊をかけて「そうであったか」と感得した親鸞の人生観を物語っています。まさに信知でしょう。
 
 私や親鸞ではなく、「親鸞におきては」の表現には、自己の名乗りや主体性が感じられます。それは、親鸞の長い人生をかけて身に開かれた師(教え)とのめぐり遇いの表白と言えましょう。

「地獄一定」は、孤独のどん底にあってもそう言い切ることのできる親鸞の自信ある生き方ではないでしょうか。負ではなく、逆に地獄の立脚点から新しい世界が広がります。

 私たちが三悪道に陥らないためには、①ごめんなさい②ありがとう③どうぞの言葉が大切です。愚身、およびがたき身は、愚かなるがゆえに、真実の見えていない自分を深く見つめる言葉です。そこにこそ、耳を傾け聴こうとする新しい世界が開けてくるのでしょう。「凡夫は、すなわちわれらなり」の言葉には、親鸞の包み込む温かさが感じられます。
 
 御命日のつどい「歎異抄に聞く」
 第二章担当 日下部文典(蓮壽寺)

今月11月28日は村山まみ師(長岡市 願興寺)より歎異抄第三章をご法話いただきます。
どうぞお参りください。

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