2017年12月2日
落語研究会新潟県央と「法話と落語」を行いました。
11月30日三条別院旧御堂にて、三条中央公民館主催の「お寺で体感 法話と落語」を開催しました。
落語研究会新潟県央の世久利亭応契さんと運転し亭越後屋さんのお二人と、三条別院列座の斎木と森尻でお話ししました。
社会人落語という分野があるそうで、他に学生落語とプロ落語があるのですが、他の仕事をしながら落語を研究することで、ある意味ではプロよりも幅をもった落語ができる(笑)ということです。某警備会社勤務の世久利亭応契さんが得意なものは「泥棒もの」、えちごトキめき鉄道に勤め日本一面白い車掌を自負する運転し亭越後屋さんは観光列車ならではの巧みな話術と下ネタなど、それぞれに武器があります。
今年の3月の春彼岸に、やっちく二人会の八木さんと竹原さんに来ていただいて、斬新な「法話と落語」というスタイルでお話ししていただきましたが、完全にその方法にのっとって、「導入の法話」⇒「落語」⇒「解説の法話」という流れで2席行いました!
第1部は「釜泥」
石川五右衛門の子孫が、釜茹でにされた五右衛門の供養のため、町中の釜を盗もうとたくらむ話。豆腐屋夫婦が釜を盗まれないように、釜の中で番をするが……
世久利亭応契さんが得意の「泥棒もの」でした。
【法話】(斎木)
この話で泥棒は「悪人」でしょうか?泥棒は、泥棒の正義があり、石川五右衛門の供養という大義があり、泥棒にとっては自分たちは「善人」です。豆腐屋は商売道具の豆を煮る釜を取られないように必死ですので当然「善人」です。しかし、浄土真宗の人間観では世の中にはには「悪人」しかいないと考えます。
「善人」とは「善人面した悪人」です。「悪人」と「善人面した悪人」とどちらがましでしょうか?人間は原理的に自分に課せられた責任を果たせないようになっていて、責任を果たせなくてごめんなさいと謝れる「悪人」が、自分は正しい!と言い張る「善人面した悪人」よりましではないでしょうか?「善人面した悪人」から「悪人」に帰ることを「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」(『歎異抄』)という親鸞聖人の言葉は示しているのではないでしょうか。
第2部は「風呂敷」
ある女が亭主が不在の時に他の男を家に連れ込んでいたが、亭主が帰ってきてしまい、男を押し入れに隠したものの、どう脱出したらいいものか……風呂敷を利用して脱出を試みます。
運転し亭越後屋さんが流行(?)の男女の関係のもつれをおかしく表現しました。
【法話】(森尻)
落語では明言されませんが、この女性は「浮気」をしていたと考えられます。浮気は仏教では「不邪淫戒」といい、男女が邪に交わることをいいます。普通、浮気は、するほうが悪いと言いますが、この亭主は酔っぱらっていて乱暴者として演じられていましたし、もしかしたら浮気をしてしまう理由があったのかもしれない。人間にとって、「逃げ場」が大切なことがあり、浮気が「逃げ場」である可能性があったのではないか。浮気という方法だけでなく、「安心して逃げ場を与えてくれる」のが、念仏の教えではないでしょうか?
ちなみに集合写真の駒札のとなりは中央公民館担当の澤崎さんで、斎木の小学校・中学校・高校の同級生です。