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2020年12月31日
廣河に代わり小原が「『歎異抄』に聞く」を聞く-「第十六章」-
あれ?なんかタイトルが違うぞ?そう思った皆さん、ご安心ください。
10月より再開したご命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに序文から順にご法話をいただいています。いつもなら廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞いておりますが、今回廣河が法務のため不在でしたので、代わりに私、小原が「『歎異抄』に聞く」を聞いてまいりました。今回は勝廣寺(佐渡市両津湊)の濱松 智弘 氏に、『歎異抄』「第十六章」を主題にご法話頂きました。

勝廣寺(佐渡市両津湊)濱松 智弘 氏
【『歎異抄』「第十六章」本文】
一 信心の行者、自然に、はらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶にもあいて口論をもしては、かならず回心すべしということ。
この条、断悪修善のここちか。一向専修のひとにおいては、回心ということ、ただひとたびあるべし。
その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまわりて、日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、回心とはもうしそうらえ。
一切の事に、あしたゆうべに回心して、往生をとげそうろうべくは、ひとのいのちは、いずるいき、いるいきをまたずしておわることなれば、回心もせず、柔和忍辱のおもいにも住せざらんさきにいのちつきば、摂取不捨の誓願は、むなしくならせおわしますべきにや。
くちには願力をたのみたてまつるといいて、こころには、さこそ悪人をたすけんという願、不思議にましますというとも、さすがよからんものをこそ、たすけたまわんずれとおもうほどに、願力をうたがい、他力をたのみまいらするこころかけて、辺地の生をうけんこと、もっともなげきおもいたまうべきことなり。
信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。
わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。
すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。
しかれば念仏ももうされそうろう。これ自然なり。わがはからわざるを、自然ともうすなり。これすなわち他力にてまします。しかるを、自然ということの別にあるように、われものしりがおにいうひとのそうろうよし、うけたまわる。あさましくそうろうなり。
【『歎異抄』「第十六章」現代語訳】
本願を信じて生活しているひとが、思わず腹を立てたり、悪い行いをしたり、あるいは仲間と口論などをしたときには、かならず回心すべきであると発言することについて。
この主張は、悪を断ち切り、善を行って浄土に生まれようとする心境から出てきたものであろうか。ひたすら念仏のみに生きるひとにおいて、回心ということは、生涯に二度とない出来事なのである。
回心とは、つね日ごろ、本願他力である真実の教えを知らない人が、阿弥陀の知恵をいただいて、いままでいだいてきたこころでは浄土へ往生できないと思い知らされ、この自力のこころをひるがえして、本願に全身をまかせることである。それをこそ、「回心」というのである。
もし、すべての出来事に対して、そのたびごとに回心して、往生を遂げるというのであれば、ひとのいのちは、吐く息が吸う息を待つことなしに終わるものだから、回心もしないで、穏やかで受容的なこころになる前に、いのちが終わってしまえば、阿弥陀如来のおさめとって捨てないという誓いは、無意味になってしまうのであろうか。
口には、「人間の思いを超えた阿弥陀の本願力にすべてを任せます」といいながら、こころの奥底では「悪人を助ける本願がいかに不思議であるとはいっても、やはり善人をこそたすけるのだろう」と思い込んでしまう。そのひとは本願力を疑い、他力をたのむこころが欠けているので、辺地に生まれることになる。これこそ、もっともなげかわしいことだと思わなければならない。
ひとたび信心を獲得したならば、浄土への往生は、ひとえに阿弥陀如来のはたらきで決まることであるから、人間の側の是非・善悪が関わることではない。
自分はどれほど悪い存在だと思えても、いよいよ阿弥陀の本願力を仰ぐならば、おのずから穏やかで受容的なこころも生まれてくることだろう。
いついかなるときでも、弥陀の浄土へ往生するについては、こざかしい思いをまじえず、ただほれぼれと、阿弥陀如来のご恩の深いことを、いつも思いだすべきである。
そうすれば、おのずから念仏も称えられることだろう。これは、「自然」である。人間の作為や打算をまじえない、本願力のおのずからなるはたらきであるから、「自然」というのである。これを「他力」という。それなのに「自然」が、本願力のはたらきの他にあると、物知り顔でいうひとがいると聞いている。まったくなげかわしいことである。

【聞く】
第十六章は、「回心」に焦点が置かれています。「回心」とは、それまでの世界観や人生観が大きく変わる「こころのひるがえり」のことをいいます。つまり、「念仏もうさんと思い立つ」こころが起こることだと濱松先生は仰いました。「日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて」とありますが、私たちの日頃のこころとは、善悪、分別、自我の眼で物事を見るということです。しかし、そのようなこころはどうしても行き詰まっていってしまいます。そのときはじめて、「回心」という体験が起こるということがあるそうです。そしてそれは、ムカついたり、悪いことをしたりするたびに「回心」する、しなければならない、というのではなく、どうしても行き詰まったときに「自然」と「回心」は起こるといいます。濱松先生は「回心」は自己反省のようなものだと仰いました。(※赤字の部分について濱松先生からご指摘がありました。詳細は後半に追記を掲載しています。)この章は腹を立てたり、口論したりということを否定してはいません。阿弥陀如来の本願は罪悪深重の凡夫を救うと言ってますからね。しかし、悪いことをしたら反省しなさいよ、とも言っているわけです。私自身も日常生活ではムカついたりケンカしたりはあります。そして冷静になって「悪いことを言ったなぁ」とおもい、謝るということは多々あります。主に妻に。
唯円「断悪修善のここちか」
私 「えぇ!?」
唯円は、断悪修善という考えにとらわれて間違っているのだと言っているのです。「断悪修善」つまり悪いことを断って良いことを修める、これはどんな宗教にもよらず、人間に普遍的に備わっている考えではないでしょうか。しかし、そのようにしようと思っても、清らかに生きるという理想と「こんなはずじゃなかった」という現実に乖離していく。理想の自分と正反対の「汚れっちまった」今を生きている。こうあるべきだという自分の理想、日ごろのこころを手放したとき、往生が定まっていく、それはこうしなきゃいけないというのではなく自然とそうなっていくんだよ。唯円さん、こういうことでしょうか!?
次回の「『歎異抄』に聞く」は第十七章をテーマに第13組專行寺御住職の木村邦和先生よりお話し頂きます。そして次回からは廣河が戻ってきます!乞うご期待です!
【追記2021/1/15】
年明けに講師の濱松先生より、記事の内容について一点訂正をお願いしたいとのお手紙をいただきました。その一点とは、「濱松先生は「回心」は自己反省のようなものだと仰いました」というところです。
回心は人生を貫くただ一度の転換、すなわち本願のはたらきにより凡夫が念仏申す身と転ぜられることです。なので回心は自分で起こす転換でもないし、単なる自己反省でもありません。そこを唯円は「回心ということ、ただひとたびあるべし」と正しているのです。
濱松先生は「回心とは別の問題として、日常生活でのあやまちに対する自己反省」と仰ったところを、私小原が誤解してしまいました。申し訳ありません。濱松先生としては、自己反省などでは間に合わなくなったところ(自力無功)に信仰の問題(回心の問題)があらわれてくると言いたかったということでした。
たしかに、もし回心が自己反省なら自力で回心してしまうことになってしまいます。そのような自力では及ばないところに気づいたとき、はじめて本願によって念仏を申す身になっていくことなのでは、と感じました。
2020年12月28日
2020年三条別院お取り越し報恩講法話(動画)
2020年11月5日から8日に、三条別院お取り越し報恩講がお勤まりになりました。
こちらの動画は11月7日の結願逮夜前に、富沢慶栄氏(三条教区第21組 超願寺住職)にお話いただいたものです。是非ご覧ください。
2020年12月15日
御煤払い奉仕団・除夜の鐘・修正会のご案内
(12/28更新)
三条別院御煤払い奉仕団・除夜の鐘・修正会のお知らせです。
2020年12月28日更新
一般参詣者の除夜の鐘
中止のお知らせ
新潟県より新型ウイルスの警報が出され、三条市内で感染症患者が増加しています。皆様の健康を最優先し、一般参詣者が除夜の鐘を撞くことを中止します。別院輪番・淨圓寺御住職様・列座と関係者で、いつもより強めに梵鐘の音を街に響かせます。修正会は深夜零時から本堂にて勤まりますので、密を避けながらお参りください。
収束の目処が立たない新型ウイルスで不安な日々をお過ごしの方、いつでも三条別院にお立ち寄りください。三条別院は365日、毎日皆さんをお待ちしています。
御煤払い
○12月20日(日)午前9時から12時
○法話講師:第15組 正楽寺 斎藤 研 氏
○12月17日(木)までに出欠をお知らせください。
○当日参加も可能です(500円)。

除夜の鐘
○12月31日(木)
○午後11時45分第一打
○午後11時30分受付開始
★毎年甘酒・ココア・大根煮の振る舞いをさせていただいていましたが、今年は感染症対策のため、缶をお配りさせていただきます。

修正会
○1月1日(金)午前0時厳修
○法要後、輪番より新年の挨拶がございます。
シュトーレン
★除夜の鐘×すす払い×むさしや(三条市本町)
人気菓子シュトーレン。ドイツ発祥のイースト菓子で、ドイツやフランスでは冬が始まると売られ始め、薄くスライスし、徐々に味の変化を楽しみます。フランスで修行した職人のシュトーレンの別院行事宣伝バージョンを店頭で500円で発売しています。
年越しそば
★除夜の鐘×今泉(三条市居島)
除夜の鐘の整理券を「今泉(そば)」に持参すると、500円で年越しそばが食べられるなど、特別サービスが受けられます。
2020年12月10日
廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。-第十五章-
新型コロナウイルス感染症によって三条別院主催の法話会は中止となっておりましたが、10月から再開させていただいております。この記事は10月28日(水)にお勤まりになった宗祖御命日日中法要と、その後の御命日のつどいの記録です。『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回は廣永寺(佐渡市相川)の大久保 州 氏に、『歎異抄』「第十五章」を主題にご法話頂きました。

廣永寺(佐渡市相川)の大久保 州 氏。
【『歎異抄』「第十五章」本文】
一 煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。この条、もってのほかのことにそうろう。即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。おおよそ、今生においては、煩悩悪障を断ぜんこと、きわめてありがたきあいだ、真言・法華を行ずる浄侶、なおもて順次生のさとりをいのる。いかにいわんや、戒行恵解ともになしといえども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらわれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてはそうらえ。この身をもってさとりをひらくとそうろうなるひとは、釈尊のごとく、種種の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益そうろうにや。これをこそ、今生にさとりをひらく本とはもうしそうらえ。『和讃』にいわく「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」(善導讃)とはそうらえば、信心のさだまるときに、ひとたび摂取してすてたまわざれば、六道に輪廻すべからず。しかればながく生死をばへだてそうろうぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいいまぎらかすべきや。あわれにそうろうをや。「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならいそうろうぞ」とこそ、故聖人のおおせにはそうらいしか。
【『歎異抄』「第十五章」私訳】
「信心を得たならば、あらゆる煩悩を備えた身のままで、さとりを開くことができる」と主張することについて。この主張は、もってのほかのことです。
即身成仏(この身のままで仏に成ること)という教えは真言密教の根本義であり、三密行業の証果です。六根清浄という教えは、法華一乗の説くところであり、四安楽の行によって得られる功徳であります。これらはみな、特に秀でた能力によって行ずることのできる難しい修行であり、精神統一して仏をイメージすることにより成就するさとりです。それに対して、未来から開かれてくるさとりは、絶対他力を根本義とした浄土真宗の宗旨であり、すなわち、阿弥陀如来の本願力の信心に身も心も定まる道です。これこそ、まったく人間の能力や努力を必要としない普遍的な行であり、善人や悪人という相対的な意味づけや人間の努力を救いの条件とはしない教えです。
だいたい、いのちのある間は、欲望や怒り、罪の意識を断ち切ることは、まったく困難であるので、真言や法華の行者ですら、次の生でさとりを開くことを祈るのです。まして、われらのように戒律や修行や知恵のないものが、この世で「さとり」を開くことなどないのであります。しかし、阿弥陀如来の本願の船に乗って、迷いや罪で満ち満ちた苦海を渡り、浄土の岸に到着したならば、黒雲のような欲望や怒りの感情が晴れ、たちまちに真実が月明かりのように輝き、あらゆるところを照らす阿弥陀如来の光とひとつになって、あらゆる人びとを救うときにこそ、「さとり」とは表現するのです。
この身をもったままでさとりをひらくと言う人は、お釈迦様のように、さまざまな姿をとって現れ、三十二相・八十随形好という瑞相をそなえ、法を説き、人々を救いとろうとでもいうのでしょうか。こういう基準を満たしてこそ、この世で「さとり」を開くと言いうるのでありましょう。
親鸞聖人の『和讃』に、「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」(善導讃)(決して壊れることのない信心が定まるそのとき、阿弥陀如来の大悲の光に照らされ守られ、永遠に迷いのいのちを超えたのである。(善導大師を讃嘆した和讃))といわれているように、信心が決定したとき、二度と捨てることのない阿弥陀如来の救いに摂め取られるならば、六道という迷いの生を繰り返すことはないのです。そうすれば、永遠に迷いの生活を超えていくことができるのです。このように受け止めることを、「さとる」というのです。混乱してはいけません。まったく哀れなことであります。「浄土真宗の教えは、いま、阿弥陀如来の本願の教えを信じ、彼の土でさとりを開く」と、いまは亡き、親鸞聖人は仰せられたのであります。
【語註】
即身成仏…この肉体のまま、さとりを得て仏となること。
真言秘教…真言宗の秘密の教え。真言密教。
三密行業の証果…身に印契を結び、口に真言を唱え、意(心)に仏を観ずる(三密)という密教の実践法。証果はさとりのこと。
六根清浄…眼・耳・鼻・舌・身・意という六根を整えて、自由自在な智慧のはたらきを得ること。
法華一乗の所説…すべての者が等しく救われると説く『法華経』の教え。
四安楽の行…身口意のあやまちを離れる三善行と、慈悲行との、心身を安楽にする四つの行法。六根清浄はこの行によって感得される。
観念成就…精神を集中して、心に仏の姿や功徳を思いうかべ真理を見極めること。
来生の開覚…次の生においてさとりを開くこと。
不簡善悪の法…人を善悪で区別しない、平等に救済される道。
浄侶…出家の僧侶。
戒行恵解…戒を保って修行し、智慧をもって道理を正しく理解すること。
法性の覚月…涅槃のさとり。これを闇夜を払う月に譬える。
応化の身…衆生を救うために、相手の願いに応じて、衆生の姿をとって現れた仏身。
三十二相・八十随形好…仏の身体にそなわる、さまざまなすぐれた特徴。
金剛堅固の信心…本願を信じる心。その信念が堅固でゆるぎないことを金剛に譬えている。
心光摂護して…如来大悲の光に照らされ守られて。
輪廻…さまざまな生をうけて、むなしく生死を繰り返すこと。
【聞く】
第十五章の焦点は、念仏者における「即身成仏の主張」を批判し、浄土真宗の「さとり」を明らかにするということにあります。さとりを開くことができるのは「この世」か「あの世」か。ここで聖道門の代表として挙げられている真言宗、法華宗は、この世でさとりを開くことを主眼としますが、浄土真宗においては「彼の土のさとり」が説かれていきます。ご法話では「本当に自分は他力の教えに立っているのか?」「間違ったものを自分だと思って過ごしていないか?」と、宗教は自己一身に関して徹底的に人間性を究明していくものだという宮城 顗 氏の論文を引きながら話され、さらに踏み込んで、自身の立場に安んずることなく、お釈迦様、阿弥陀如来、二尊の呼びかけと呼びかけられる「我」との関係性に注視しながら、実践道としての念仏生活についてお話されていました。
今回、大久保氏より第十五章の要旨をいただいておりますので、そちらをそのまま掲載致します。
『歎異抄』第十五章によって
真言秘教 即身成仏 三密行業の証果
法華一乗 六根清浄 四安楽の行の感徳
これらは難行上根のつとめ 観念成就のさとり
他力浄土 来生の開覚 信心決定の道
これは易行下根のつとめ 不簡善悪の法
言葉を並べるとこうなるが、これらの言葉からどんな声が聞こえるだろうか。私たちは言葉の解釈に終わっていないだろうか。
そして、真言秘教や法華一乗を向こうに置いて、自分は他力浄土の教えの立場に立っているのではないだろうか。
今のコロナ禍によって、祈ること、神社や祈祷をどこかで謗ってはいないだろうか。いのちの声に対して、祈祷という形で応えている人々がいる。しかしその真摯さに文句が言えようか。
私たちはただ専修念仏に縁があり、生まれたお寺が浄土真宗であったり嫁いだお寺が浄土真宗であった。うちの宗旨が浄土真宗である、ということがそもそもの最初の方も多いと思う。そして少しく学んだりお話を聞くようになり、祈祷ではこのコロナ禍には応えられない、となんとなく知っているだけである。どうする、こうすると言いながら、確信は持っているのであろうか。ただなんとなく知っているだけではないだろうか。
そんな私たちは、このコロナ禍だからこそ「正信偈」にあるように「極重悪人唯称仏」と胸を張れるだろうか。
『歎異抄』第一章に拠れば、「弥陀と我」ということが教えられているのではないだろうか。呼びかけるものと呼びかけられる者。今回の十五章の言葉に拠れば「報土のきしにつきぬる」「かの土にしてさとりを開く」とあるが、現実生活における釈迦弥陀二尊の呼びかけに応じ、私たちに念仏生活が始まることが求められているのではないだろうか、ということを教えていただいた。
以上、大久保氏による法話要旨


密集密閉密着を避けての聞法会。 また、法話のあとにある座談会は残念ですがしばらくお休みとなっています。
次回11月28日(土)の御命日のつどいでは、『歎異抄』「第十六章」をテーマに佐渡組勝廣寺の濱松智弘氏よりお話頂きます!どうぞお誘い合わせてお参りください。
2020年12月3日
フードバンク物資お届け第四弾【報告】
当別院では新型コロナウイルス感染症の影響で困窮家庭がさらに追い込まれている現状を受け、新潟県フードバンク連絡協議会「子どもの未来応援プロジェクト」に協力させていただいており、三条教区の御寺院方に物資の支援を募っております。今回は物資お届け第四弾の報告です。10月、11月にかけてお取り越しで繁忙な時期でしたので、まとめて11月24日(火)に受け渡しを行いました。

今回もたくさんの物資!ありがとうございます。
これまで、ご協力いただいた方々を表記させていただいておりましたが、今回は表記漏れの可能性がありましたので控えさせていただきます。匿名含め多くの方々にご協力いただきました。篤く御礼申し上げます。
新型コロナウイルス感染症終息の目処は未だなく、新潟県フードバンク連絡協議会の「子どもの未来応援プロジェクト」は来年の3月まで期間が延長されました。当別院においても「子どもの未来応援プロジェクト」への協力を継続して行っていきます。つきましては、チラシにもございますが下記に今後の引き取り日を掲載致しますので、各御寺院におかれましてもご無理のない範囲で、引き続きご協力のほど、宜しくお願い致します。
なお、県フードバンク連絡協議会では「ひとり親家庭にケーキを贈ろう」という趣旨の資金協力を12月8日(火)まで呼びかけているということです。長期化する感染症で、「心のケア」ということも必要になってきたと、小林事務局長は話されています。
○今後の引き取り予定日
2020年 12月24日(木)
2021年 1月25日(月)、2月24日(水)、3月24日(水)





