どんな日も、どんな時代も、そばにある。

三条別院|浄土真宗 真宗大谷派
三条別院|浄土真宗 真宗大谷派

「『歎異抄』に聞く」を聞く

廣河に代わり小原が「『歎異抄』に聞く」を聞く-「第十六章」-

あれ?なんかタイトルが違うぞ?そう思った皆さん、ご安心ください。

10月より再開したご命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに序文から順にご法話をいただいています。いつもなら廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞いておりますが、今回廣河が法務のため不在でしたので、代わりに私、小原が「『歎異抄』に聞く」を聞いてまいりました。今回は勝廣寺(佐渡市両津湊)の濱松 智弘 氏に、『歎異抄』「第十六章」を主題にご法話頂きました。

勝廣寺(佐渡市両津湊)濱松 智弘 氏

【『歎異抄』「第十六章」本文】

一 信心の行者、自然に、はらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶にもあいて口論をもしては、かならず回心すべしということ。

この条、断悪修善のここちか。一向専修のひとにおいては、回心ということ、ただひとたびあるべし。

その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまわりて、日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、回心とはもうしそうらえ。

一切の事に、あしたゆうべに回心して、往生をとげそうろうべくは、ひとのいのちは、いずるいき、いるいきをまたずしておわることなれば、回心もせず、柔和忍辱のおもいにも住せざらんさきにいのちつきば、摂取不捨の誓願は、むなしくならせおわしますべきにや。

くちには願力をたのみたてまつるといいて、こころには、さこそ悪人をたすけんという願、不思議にましますというとも、さすがよからんものをこそ、たすけたまわんずれとおもうほどに、願力をうたがい、他力をたのみまいらするこころかけて、辺地の生をうけんこと、もっともなげきおもいたまうべきことなり。

信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。

わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。

すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。

しかれば念仏ももうされそうろう。これ自然なり。わがはからわざるを、自然ともうすなり。これすなわち他力にてまします。しかるを、自然ということの別にあるように、われものしりがおにいうひとのそうろうよし、うけたまわる。あさましくそうろうなり。

【『歎異抄』「第十六章」現代語訳】

本願を信じて生活しているひとが、思わず腹を立てたり、悪い行いをしたり、あるいは仲間と口論などをしたときには、かならず回心すべきであると発言することについて。

この主張は、悪を断ち切り、善を行って浄土に生まれようとする心境から出てきたものであろうか。ひたすら念仏のみに生きるひとにおいて、回心ということは、生涯に二度とない出来事なのである。

回心とは、つね日ごろ、本願他力である真実の教えを知らない人が、阿弥陀の知恵をいただいて、いままでいだいてきたこころでは浄土へ往生できないと思い知らされ、この自力のこころをひるがえして、本願に全身をまかせることである。それをこそ、「回心」というのである。

もし、すべての出来事に対して、そのたびごとに回心して、往生を遂げるというのであれば、ひとのいのちは、吐く息が吸う息を待つことなしに終わるものだから、回心もしないで、穏やかで受容的なこころになる前に、いのちが終わってしまえば、阿弥陀如来のおさめとって捨てないという誓いは、無意味になってしまうのであろうか。

口には、「人間の思いを超えた阿弥陀の本願力にすべてを任せます」といいながら、こころの奥底では「悪人を助ける本願がいかに不思議であるとはいっても、やはり善人をこそたすけるのだろう」と思い込んでしまう。そのひとは本願力を疑い、他力をたのむこころが欠けているので、辺地に生まれることになる。これこそ、もっともなげかわしいことだと思わなければならない。

ひとたび信心を獲得したならば、浄土への往生は、ひとえに阿弥陀如来のはたらきで決まることであるから、人間の側の是非・善悪が関わることではない。

自分はどれほど悪い存在だと思えても、いよいよ阿弥陀の本願力を仰ぐならば、おのずから穏やかで受容的なこころも生まれてくることだろう。

いついかなるときでも、弥陀の浄土へ往生するについては、こざかしい思いをまじえず、ただほれぼれと、阿弥陀如来のご恩の深いことを、いつも思いだすべきである。

そうすれば、おのずから念仏も称えられることだろう。これは、「自然」である。人間の作為や打算をまじえない、本願力のおのずからなるはたらきであるから、「自然」というのである。これを「他力」という。それなのに「自然」が、本願力のはたらきの他にあると、物知り顔でいうひとがいると聞いている。まったくなげかわしいことである。

【聞く】

第十六章は、「回心」に焦点が置かれています。「回心」とは、それまでの世界観や人生観が大きく変わる「こころのひるがえり」のことをいいます。つまり、「念仏もうさんと思い立つ」こころが起こることだと濱松先生は仰いました。「日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて」とありますが、私たちの日頃のこころとは、善悪、分別、自我の眼で物事を見るということです。しかし、そのようなこころはどうしても行き詰まっていってしまいます。そのときはじめて、「回心」という体験が起こるということがあるそうです。そしてそれは、ムカついたり、悪いことをしたりするたびに「回心」する、しなければならない、というのではなく、どうしても行き詰まったときに「自然」と「回心」は起こるといいます。濱松先生は「回心」は自己反省のようなものだと仰いました。(※赤字の部分について濱松先生からご指摘がありました。詳細は後半に追記を掲載しています。この章は腹を立てたり、口論したりということを否定してはいません。阿弥陀如来の本願は罪悪深重の凡夫を救うと言ってますからね。しかし、悪いことをしたら反省しなさいよ、とも言っているわけです。私自身も日常生活ではムカついたりケンカしたりはあります。そして冷静になって「悪いことを言ったなぁ」とおもい、謝るということは多々あります。主に妻に。

唯円「断悪修善のここちか」

私  「えぇ!?」

唯円は、断悪修善という考えにとらわれて間違っているのだと言っているのです。「断悪修善」つまり悪いことを断って良いことを修める、これはどんな宗教にもよらず、人間に普遍的に備わっている考えではないでしょうか。しかし、そのようにしようと思っても、清らかに生きるという理想と「こんなはずじゃなかった」という現実に乖離していく。理想の自分と正反対の「汚れっちまった」今を生きている。こうあるべきだという自分の理想、日ごろのこころを手放したとき、往生が定まっていく、それはこうしなきゃいけないというのではなく自然とそうなっていくんだよ。唯円さん、こういうことでしょうか!?

次回の「『歎異抄』に聞く」は第十七章をテーマに第13組專行寺御住職の木村邦和先生よりお話し頂きます。そして次回からは廣河が戻ってきます!乞うご期待です!

 

【追記2021/1/15】

年明けに講師の濱松先生より、記事の内容について一点訂正をお願いしたいとのお手紙をいただきました。その一点とは、「濱松先生は「回心」は自己反省のようなものだと仰いました」というところです。

回心は人生を貫くただ一度の転換、すなわち本願のはたらきにより凡夫が念仏申す身と転ぜられることです。なので回心は自分で起こす転換でもないし、単なる自己反省でもありません。そこを唯円は「回心ということ、ただひとたびあるべし」と正しているのです。

濱松先生は「回心とは別の問題として、日常生活でのあやまちに対する自己反省」と仰ったところを、私小原が誤解してしまいました。申し訳ありません。濱松先生としては、自己反省などでは間に合わなくなったところ(自力無功)に信仰の問題(回心の問題)があらわれてくると言いたかったということでした。

たしかに、もし回心が自己反省なら自力で回心してしまうことになってしまいます。そのような自力では及ばないところに気づいたとき、はじめて本願によって念仏を申す身になっていくことなのでは、と感じました。

トップへ戻る