三条別院に想う
MEMORIES OF THE BETSUIN
2021年5月9日
感染症流行下の地域おこしについて
(株式会社Founding Base 池田和也氏)
2020年に三条中央商店街にSANJO BLANC(サンジョーブラン)という喫茶店ができました。三条市から委託された地域おこし協力隊のお店で、コミュニティスペースとしてイベントやワークショップも開催しています。新型ウイルス感染症流行下で様々な業種の方と対話をされているコミュニティー・コーディネーターの池田和也氏(株式会社Founding Base)にお聞きします。

BLANCのコンセプトは「言葉とアートを愉しむCAFE」
▼株式会社Founding Baseについて
地方自治体と連携し、地方経済の活性化に取り組んでいます。 三条市では、「移住定住者の促進」をテーマに、ツアーコンテンツの開発や空き家の魅力化、 地域コミュニティ造成のためのコミュニティカフェ「SANJO BLANC」の運営などを行っています。
▼コロナ禍における地域での暮らし
我々が三条市での活動を始めたのは、2019年の11月。ちょうど新型コロナウィルスの存在が世界的に明らかになった頃になります。 御存知の通り、人々の生活スタイルが一変し、外出自粛や家で過ごす時間が増え、移住したての我々もストレスを感じることも多かったことを覚えています。 特に、本寺小路の飲食店や、三条市内の商工業者の方々にとっては、類を見ないほどの過酷な時期だったのではないでしょうか。 生活スタイルの変化に順応していく中で、自分たちに出来ることが何なのかを考えていく中、新しい活動に取り組み始めました。
▼自分たちがupdateするスタンス
まちのことをまだあまり分かっていない中ではありましたが、今必要とされていることは何なのか、自分たちだったら出来ることは何かを常々考えていました。 幸い、新しい生活環境にもすぐに適応しているメンバーも多く、自分たちにはできても、地域の人にとってはそうでないことを模索した結果、 飲食店支援のために始めた、「三条エール飯」(※)と、三条出身の学生支援のために始めた「三条縁むすび」をスタートさせました。 今ではテイクアウトや、学生支援も定着し、地域の生活の一部となってきて本当に嬉しく思っています。 日々変化する環境の中でも、自分たちがどうその状況を愉しみながら、自分たちだけで完結せず、 地域を巻き込みながら新しいことにチャレンジできるかをこれからも大事にしたいと思います。
▼これからの話
BLANCで開催されたイベント
緊急事態宣言の再開や、東京オリンピックなど、これからも人々の移動やこれまで通りの生活が叶うようになるには、時間がかかるものだと思っています。 しかしながら、今だからこそ出来ること、感じられることもあるのではないでしょうか。 中々会えなくなったからこそ感じる人と人とのつながりや、地域で暮らすことの温かさ、など、 現状に悲観的になるのではなく、今この状況をいかに良いものに出来るかどうか、愉しみながら実践し続けていきたいと思います。
▼Q&A
Q.自治体と連携しながらということですが、三条市の「地域おこし協力隊」ということになるのでしょうか?
A.そうです。三条市は特に地域おこし協力隊は多く、約35名います。下田地区に20名、三条地区に15名います。我々はFounding Baseの社員ですが、形としては「まちなか」の活性化に従事しており、三条別院周辺も含むまちなかエリアの賑わい創出を委託されています。
Q.新型ウイルス感染症が流行する中で、もとから賑わいが減りつつあった中央商店街にカフェであるSANJO BLANCをオープンしたというのは、大変だったのではないでしょうか?
A.実は、カフェをしながら、空き店舗の問題に取り組んでいます。中央商店街をはじめとして、三条市内に空き家・空き店舗が多数存在し、それをリノベーション等、活用して町を活性化することも目的の一つです。宅建や不動産鑑定士の資格の取得にも挑戦しています。
Q.実際に住んでみて三条はどんな街でしょうか?
A.実は私は佐賀県出身で、「適度に都会」で三条はかなり住みやすいと感じています。また、お酒は好きなので本寺小路を中心に積極的に飲食しています。グーグルマップで行ったところ、これから行きたいところをチェックしています(実際にみせてもらう)
Q.これは、かなり制覇していますね。こんどぜひ一緒に本寺小路の魅力について語り合いたいですね。
(※)4月にエールマップを作製した際、別院は写真の提供と配布のお手伝いをさせていただきました。また、11月にはエール飯マップお取り越し版を作製していただきました。
池田 和也 氏
(株式会社Founding Base)
○次回の「三条別院に想う」は、
富沢栄昌氏(第21組超願寺)より
ご執筆いただきます
【次回は特別編⑭西堀は】
新潟県の新型ウイルス患者も4月に入り過去最高人数を更新する一方で、高齢者を中心にしてワクチンの接種もはじまりました。この記事で本寺小路の様子等は報告してきましたが、現在飲食店の営業時間短縮要請がでている新潟市の中心(古町等)の様子についてお聞きしたいと思います。
2021年4月28日
新型ウイルス流行下での教化について
(第10組 行通寺 佐々木恵一郎 氏)
▲本年1月に首都圏を中心に再発令された緊急事態宣言が3月21日で解除されました(原稿執筆時。4月25日より再発例)が、新潟県では警報を継続する等、諸行事をする際には依然として難しい判断が迫られています。三条別院でも従来の教化事業の代わりに、「エール飯」、「フードバンク」、「DODALO(法語カード/座談カード)」、「YouTubeチャンネル」等を行ってきました。佐々木恵一郎氏(第10組行通寺)のお寺でも法話ライブ配信のサテライト会場になったり、少人数で別院報恩講に参拝していただいたり、別院の教化事業にもこまめに反応をいただいています。新型ウイルスの収束時期が読めない今後の仏教教化について、どのように考えているのかお聞きしました。
昨年来、新型コロナウイルス感染防止のための対策が必要となり、場合によってはお寺の行事自体を取りやめたり、行うにしても縮小して行うことが当たり前になってきています。
コロナを理由に法事の数も減り、月忌参りや祥月のお参りも遠慮したいと申し出るご門徒さんが出てきました。感染防止のためにお寺の行事が制限を受けるのはやむを得ないことなのでしょう。また一方で、寺院側にも必要以上に行動を自粛することがあったとも聞いたりもしました。
そんな中です。感染症の流行と仏事の執行とについて大いに悩んでいたときに、三条別院から「DODALOカード」なるものが送られてきたではありませんか。そこには「わたしたちにとって、本当に急ぐべき事、必要な事は何ですか?」とのメッセージと齊藤研氏が書かれた檄文がありました。それは、コロナ禍において自分が感じていた行き詰まり感を打破する内容だったのです。

註1
また、三条別院列座諸君は日々の昼食を毎日のように、「三条エール飯」という形で、地元三条のテイクアウトメニューを大いに食しています。今回のコロナ禍において打撃を受けている飲食店の救済のために何かしなくては…という思いを行動に表した姿なんでしょう。
また、そのことはFacebook上で#(ハッシュタグ)三条エール飯で映像付きでのメニューの紹介レポートを全世界に発信しているのです。

註2
コロナ禍において何かしなくては…と思いながらも何もできないでいた私にとって、アグレッシブとも思える三条別院の取組は良い刺激となりました。
自分でできること、自分でもできることは何か、そんな事を模索しながら日々の法務に励んでいます。ちなみに、三条別院の取組のアグレッシブさが後押しとなり、女性研修会の会場を引き受けた事を口実にして、お寺でプロジェクターとスクリーンとを購入しました。アグレッシブには身を切る痛みが伴うということも学んだことでした。

本寺小路の料亭福海老

註3

佐々木恵一郎氏(第10組行通寺住職)
▲教区の役職として企画委員会の副委員長を勤められている佐々木氏ですが、このように別院の諸行事を最大限活用していただいています。現下の状況では、「アグレッシブ」に新しい教化を模索しなければいけない一方で、依然として先行きの見えない中で「倹約する」方法が同時に求められている気がします。そんな中、別院・教区の事業を利用し、一寺院の住職として御門徒さんと共に歩まれるこの姿勢は一つの範となるように思えます。皆さんもぜひ、積極的に三条別院をご利用ください!
○次回の「三条別院に想う」は、
池田 和也 氏
(株式会社FoundingBase)より
ご執筆いただきます
【次回は特別編⑬感染症流行下の地域おこしについて】
2020年に三条中央商店街にSANJO BLANC(サンジョーブラン)という喫茶店ができました。三条市から委託された地域おこし協力隊のお店で、コミュニティスペースとしてイベントやワークショップも開催しています。新型ウイルス感染症流行下で様々な業種の方と対話をされているので、その一端をお聞きします。
2021年3月1日
大正時代と三条別院—米北教学会を中心に―(三条別院に想う)
【特別編⑪大正時代と三条別院】
はじめに・松葉幼稚園創立100周年と100年前の別院
▲新型コロナウイルス感染症が世界中に流行した2020年、今年に入ってもまだ収束の兆しをみせていません。ちょうど100年前、スペイン風邪が流行し、収束しつつあったのが1921(大正10)年であったといいます。そして本年2月7日で松葉幼稚園は創立100周年を迎えました。本来であれば記念式典が盛大に開かれる予定でしたが、新型ウイルス感染症のため、職員と園児のみで「祝う会」が粛々と行われました。幼稚園が設立される以前、そこには「米北教校」があり、1883(明治16)年に寺院子弟の教育機関として設置された後、国と教団の教育政策の変更によってめまぐるしく体制が変わり、1888(明治21)年に一般人の受入も行うようになり、1900(明治33)年に県立新潟中学三条分校(現在の三条高校)の設置が決まると同時に廃止になりました。実はその後、別院の境内地の教校跡地に「米北教学会」が置かれ、その建物内に幼稚園が設立されたことはあまり知られていません。今回は明治後期に米北教学会の幹事を務めていた土屋法潤氏に焦点をあて、第15組淨照寺前坊守土屋紀美子氏に、明治から大正にかけてのお話をうかがいました。
◎話し手 ▲聞き手・編集(斎木)
▲土屋法潤氏について教えてください。
◎先代住職(土屋守氏・故人)が私の配偶者で、その父親の18世の土屋秀謙から聞いたことになります。嫁に来た私に昔のことをいろいろと語ってくれました。
◎土屋法潤〔嘉永元(1848)年~昭和4(1929)年〕は真宗大谷派淨照寺第16世住職です。
◎三条市立月岡小学校の創始者であり、漢学の素養があり「月岡八景」等の漢詩が残されています。
◎米北教学会の幹事を勤めていて、1904(明治37)年の幹事退職記念の写真があります。
※この写真は土屋法潤氏のみの部分であるが、原本は集合写真で、教区内で当時活躍していた僧侶達の姿がみえる。
◎東本願寺第23代彰如上人(句仏上人)の時、本山の命で朝鮮景城別院に布教監督として勤務していたそうです。朝鮮布教の際には、陸軍第13師団で従軍布教使をしていた鈴木峰暎氏(第16組願念寺)を用心棒(笑)として連れて行ったそうです。鈴木氏は一寸のことでもよく議論する議論好きで(真宗問答といったそうです)議論に負けるとしばらく「風邪をひいた」といって寝込んだそうです。
▲当時の新聞等で調べるとおそらく1907(明治40)年から1908(明治41)年だと思われ、その際に真宗大谷派の現地責任者として朝鮮布教をしているという大変なことのようです。これは日露戦争後の日本の植民地政策の中で非常に不安定な時期で1905(明治38)年に韓国統監府(初代統監伊藤博文)が置かれ、1909(明治42)年には伊藤博文は暗殺され、それをきっかけに1910(明治43)年に朝鮮総督府が設置されています。
◎帰国後は本山勤務が長かったので、後堂の一部屋を与えられ「法潤の間」と言われて僧侶の出入りが多かったそうです。
◎真宗大谷派本山教学部長に任命され、奉職中、真宗大学から大谷大学に移行する時に尽力したそうです(『真宗大学廃滅の顛末』参照)。
▲宗報を見ると明治41年に教学部長に任命されているようです。土屋法潤が任期中にいったん収まりかけた問題も再燃し、明治44年に移転が決定してしまうようです。
◎ところで、明治44年の金子大榮から第17世住職土屋秀圓宛の手紙があります。真宗大学時代に非常に親しかったということです。曽我量深とも親交がありました。土屋秀圓は土屋法潤の娘婿で、笈ケ島の願念寺から来ました。朝鮮で鈴木峰暎氏と一緒だったため縁談があったと聞いています。善性寺の福田見昌氏の影響で、「専修念仏」を生涯実践していて、息子の秀謙も生涯念仏を称えた方でした。
▲東京巣鴨の真宗大学は1901(明治34)年に開校し初代学監は清沢満之。清沢満之亡き後は南条文雄が二代目学監となりました。1911(明治44)年、わずか10年で真宗大学と高倉大学寮を併合して真宗大谷大学と改称し、京都に置くことが決定しています。曽我量深等を含め当時の教授たちは必死で抵抗したようです。結果として改革運動は敗れていくわけですが、その問題の渦中で鎮静に当たったのが土屋法潤だということなのですね。その娘婿宛に、リアルタイムで金子大榮がその心境を手紙に記して送っているということで、貴重な資料であると思います。
◎若い頃、彰如(句仏)上人の随行で別院に来たそうで、後に上人が三条別院に立ち寄られた際に法潤に会いたいといわれたそうですが「老骨の姿はみせられない」と断ったそうです。
▲彰如(句仏)上人は本山の宗祖650回御遠忌法要の関連の行事や、あるいは三条別院蓮如上人400回忌兼厳如上人25回忌法要(大正8年)や聖徳太子の1300回忌法要(大正10年)等でたびたび三条別院に立ち寄られています。また彰如上人の借財とそれに伴う僧籍削除事件で連座した僧侶も多いようです。
▲なお第16組願善寺の光井栄泉氏から当時の米北教学会の議事録の写しの一部を頂戴しました。今回の記事もこの資料を参考に補っています。
その他解説①曽我量深没後50年
本年は曽我量深〔1875(明治8)年~1971(昭和46)年〕の没後50年に当たる。ちなみに1921(大正10)年は曽我量深は46歳。三条別院でも50回忌にちなみ、新潟親鸞学会にご協力いただき、親鸞学会白根大会の翌日の、祥月命日である6月20日(日)に長谷正當先生(京都大学名誉教授)に引き続き別院にてお話しいただく計画をしている(詳細は次号)。1976年には金子大榮が還浄しているので5年後には金子大榮の50回忌も行われるであろう。インタビューの中には金子大榮の同級生で曽我量深とも親交の深かった土屋秀圓にも触れられている。ここで注意すべきは曽我量深・金子大榮と同時代の越後の念仏者が多数いたことである。そこで今回「米北教学会」に注目してみた。ちなみに曽我量深の義理の父である曽我慧南も所属していて土屋氏の退職記念の写真に姿がある。
②100年前の三条別院
本年2月22日は聖徳太子1400回忌にあたるが、大正10(1921)年6月には、彰如(句仏)上人御親修のもと別院にて1300回忌法要が盛大に厳修されている。
③戦争とスペイン風邪流行と日本の公衆衛生
明治末から大正時代にかけて、1904年(明治37)年から1905(明治38年)年にかけて日露戦争、韓国併合〔1910(明治43)年〕、1914(大正3)年から1918(大正7)年にかけて第一次世界大戦がおこっている。スペイン風邪は1918年から1921年にかけて世界的に流行した。この時代の東本願寺は中国・朝鮮各地に別院を設置して布教を行っていった(新野和暢『皇道仏教と大陸布教』に詳しい)。
日本の公衆衛生の基礎は、1871(明治4)年から1873(明治6)年までの欧米使節団での視察により作られたという。100年前のスペイン風邪の際はマスクと手洗いの徹底が奨励されたようである。100年経って何も進歩がないと言われるが、逆に100年前の医学的な知識がいかに優れていたかが知られる。魯迅は漢方医に絶望して日本に留学して医学を学んだ。アジアの国々はいち早く西洋列強の仲間入りをした日本に学ぶため、留学生を送っている。1904(明治37)年仙台医学専門学校の授業のスライドで、ロシアのスパイの中国人が見せしめに日本軍に首を切られ、その見物のために囲んでいる中国人の姿をみて、「あのことがあって以来、私は、医学などは肝要でない、と考えるようになった。愚弱な国民は、たとい体格がよく、どんなに頑強であっても、せいぜいくだらぬ見せしめの材料と、その見物人になるだけだ。病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。むしろわれわれの最初に果たすべき任務は、かれらの精神を改造することだ」(『吶喊』)と文芸運動を志し、夏目漱石などに影響を受けていく。魯迅が「愚弱な国民」を象徴した主人公を描く『阿Q正伝』を記したのがちょうど1921(大正10)年なのである。ちなみに夏目漱石の門下生の松岡譲は第12組本覚寺の出身であったが、東本願寺への激しい批判を交えて還俗する私小説『法城を護る人々』を発表するのは1923(大正12)年から1926(大正15)年にかけてである。そこには小説という形ではあるが、当時の改革派と保守派が仏教の精神から外れたものではないかという、寺に生まれた当事者としての煩悶の中で、ともに辛辣に批判されている。遠いようでいて近い大正時代に思いを馳せると、この新型ウイルス危機に仏教が必要であるかが試されているようにも思える。
▲註 近代仏教と戦争をめぐる研究がすすんでいるが、最近の成果に近藤俊太郎/名和達宣編『近代の仏教思想と日本主義』(法蔵館)がある。同書所収論文の東真行「聖徳太子と日本主義―金子大榮を中心に―」を読むと100年前、聖徳太子が仏教と神道を結びつけるために盛んに研究されたこと、そして1300回忌法要がなぜ盛大に行われたか理解できる。曽我量深・金子大榮の50回忌を迎えるにあたり、その思想の「功罪」両面をあらためて知るために、このような研究群は必要に思われる。
○次回の「三条別院に想う」は、
佐々木恵一郎 氏(第10組行通寺)より
ご執筆いただきます
【次回は特別編⑫新型ウイルス流行下での教化について】
▲新型ウイルス感染症流行下で従来の教化事業が行えなくなっています。三条別院でも、「エール飯」、「フードバンク」、「DODALO(法語カード/座談カード)」、「Youtubeチャンネル」等を行ってきました。佐々木さんのお寺でも法話ライブ配信のサテライト会場になったり、少人数で別院報恩講に参拝していただいたり、別院の教化事業にもこまめに反応をいただいています。新型ウイルスの収束時期が読めない今後の仏教教化について、どのように考えているのかお聞きします。
2021年2月4日
コロナウイルスと帰敬式
(第16組 專養寺門徒、三条別院有志の会 高橋 隆 氏)
▲2019年12月に三条別院で推進員前期教習が開催されましたが、2020年2月末に予定されていた上山研修は中止、お取り越し報恩講の帰敬式も中止となる中、参加者の一人で、仕事が休みの日に別院のお朝事にお参りされている三条別院有志の会の高橋隆さんに現在の心境をお聞きしました。
別院職員さんより突然電話が有り「三条別院に想う」に執筆していただけませんかと依頼が有り書く事が無いとお断りしましたが、何でも良いという事で御受けいたしました。
私が別院に足を運ぶきっかけになったのは、父が亡くなり、寺とのお付き合いが出来て、手伝いをするようになってから、手次寺のご住職さんから「正信偈やお経の勉強会が有るので、時間が有ったら来てみませんか」と、声をかけていただいたのがきっかけです。時々出席させていただくようになりましたが、他の人達に付いていけなく住職に相談したら、別院で「声明教室」があると言う事を聞きました。それで三条別院に行き話を聞き、声明教室に通うようになったのが、三条別院とのお付き合いの始まりでした。
三条別院に通うようになり、別院の人達とも仲良くなり、色々教えて頂いた中にお朝事や、有志の会があるのを知り、出席させて頂く様になり、色々、勉強させて頂く機会が出来、その中で知人も出来嬉しく思っています。
有志の会で庭講などがあると聞き、時間が合う時に参加させて頂いています。聞法会なども時間が合うと出席させて頂いています。この頃はコロナウイルスの流行により、声明教室や聞法会も中止になり、寂しく思っています。
推進員教習についても深く考えがあっての受講ではなく、他の聞法会などと同じく、ただ研鑚を積む位の気持ちで教習に参加しました。今は住職に相談して法名を考えてもらっている所です。
私は夜に仏壇の前で正信偈を読むのが毎日の日課になっていますが、ひとりで読んでいると、自分の癖が出てしまいそうで、とても不安です。コロナウイルスは無くならないでしょうが、ワクチン等が出来て、また色々な人達と、声明教室や聴聞や庭講などの行事が出来るのを待っています。
皆さんとコロナウイルスにかからない、うつさないを心がけていきたいものです。

高橋 隆 氏(第16組 專養寺門徒、三条別院有志の会)
▲これまでの帰敬式実践運動は受式者数を増やそうという傾向が強いように思いますが、新型コロナウイルスの影響で、自らの意思で受式したい方が、希望通りに受式できないという新しい問題が生まれてきています。高橋さんにお聞きしました。
Q.新型ウイルスの影響で本山及び別院で帰敬式を受けることができませんでしたが、どこで受けたいか希望はありますか。
A.住職に法名を選定してもらい、できれば別院のお取り越し報恩講で受式したいです。
Q.現在はどんな心境ですか。
A.今までは「死んだときもらえればいい」と思っていたのですが、ここ数年は、「縁があれば」生きているうちにもらってもいいと考えるようになりました。
Q.どのような考えの変化があったのでしょう?
A.本文に書いたように、別院に通うようになり、ご縁でお朝事や有志の会にでたり庭講に参加してみたり、声明教室に参加してみたり、聞法会に参加したりしていますが、実は声明も庭講も聞法も自分はあまり区別していません。自分ができる時にできることを、「縁」だと思ってしています。特に2019年に推進員前期教習を受けて細川好圓先生の話を聞き、この12月に改めて教区推進員教習部門主催「後期教習に向けての『お元気ですか?』の集い」に参加して、だんだん法名について真剣に考えるようになってきています。
Q.その他、現在考えていることはありますか。
A.三条別院の声明教室の再開を望みます(註・2月から再開が決定しました)。声をだして正信偈をお勤めし、みんなであわせることがとても大切なことだと改めて思っています。
○次回の「三条別院に想う」は、
土屋紀美子氏(第15組淨照寺)
よりご執筆いただきます。
【次回は特別編⑪ 大正時代と三条別院】
100年前にスペイン風邪は1918(大正7)年から流行をはじめ1921(大正10)年には収束していきますが、その時代、三条別院では1921年に聖徳太子1300回忌法要を厳修しています(今年は1400回忌)。曽我量深・金子大榮に注目が集まりがちですが、その当時三条教区の教団の中心にいた土屋法潤氏についてお聞きします。
2021年1月15日
本寺小路は今(第15組善性寺 福田 学 氏)
▲新潟県では11月に2度目の発令をしていた新型コロナウイルス感染症の「注意報」を1段階引き上げ、12月17日に警報を出しました。県民へは①県外の感染拡大地域との不要不急の往来は控える、②遠方にいる親戚も含めて日ごろ会わない人との飲み会や食事会は控える、③忘年会や新年会、初詣の際の感染防止策の徹底――の3つを求められました。三条別院の参道である本寺小路は県内有数の飲食店街であり、本来であれば忘年会・新年会シーズンで活気づく時期ですが、ようやく人が戻り始めてきた矢先に、三条でも少しづつ感染者が増えてきていますので、突然キャンセルになるケースも多いそうです。今回は三条市東裏館善性寺住職の福田学氏に本寺小路の現在をお聞きしました。
「コロナ禍」の1年が過ぎようとしている。別院職員から「コロナ禍の本寺小路の現状」について書いてほしいと依頼された。なんで俺?と思ったが、やっぱり俺かと思い返した。それ程「本寺小路」に愛着がある。
振り返れば35年前、縁あって今の寺にいきなり住職として入寺した。三条のことなど全く分からず、教師資格は持っていたが教学・儀式作法も覚束ず、親しい友人・知人も居ない中で、幸いにも別院がすぐそばにあったことで学習する機会があり、学生時代の友人・先輩・後輩に再会し、仏青で新たな仲間に出遇い、学習会や会議が終われば自然と「本寺小路」に足が向くようになった。以来35年足繁く通っている。
「本寺小路」の歴史は三条別院が1690(元禄3)年に創立されて以来からの歴史で、持ちつ持たれつの関係で発展してきたのではないかと思う。1995年に発生した「阪神・淡路大震災」後の三条教区仏青の支援活動の一環で「田んぼアート」を企画した時に、一緒に汗を流して手伝ってくれたある店の女の子たちが居たことは、別院との繋がりが今でもあるということを物語っている。もっともそれだけの金を使ってのことだが。酒が入り、女の子が傍に居れば堅い話(仏法?)も柔らかくなり、本性も出てくる。そんな自分を見せてくれる大事な場所である。
「コロナ禍」以前から、「本寺小路」の人出は減少し、活気も無くなったように思う。「コロナ」がそれに拍車をかけて存続も危ういかもしれない。活気がないと言えば、別院はじめ各寺の「報恩講」も活気を失って危うい。自称「本寺小路活性化委員」としては、「本寺小路の灯を消すな!」の活力を「報恩講」再生の活力にもしたいものだと思ってる。こじつけ過ぎか?今日も「本寺小路」に行って考えてみよう!
福田 学 氏(第15組 善性寺)

2020年12月23日21時の本寺小路。ほとんどの店の看板に電気が灯る
○次回の「三条別院に想う」は、
高橋 隆 氏(第16組専養寺門徒 三条別院有志の会庭講)
よりご執筆いただきます。
【次回は特別編⑩コロナウイルスと帰敬式】
▲高橋さんは2020年に三条別院で推進員教習を受講しました。上山研修は中止、お取り越し報恩講の帰敬式は中止となる中、現在の心境等をお話しいただきます。