どんな日も、どんな時代も、そばにある。

三条別院|浄土真宗 真宗大谷派
三条別院|浄土真宗 真宗大谷派

三条別院に想う

長岡は今(第13組 願性寺 井上 知法 氏)

▼前号では新潟市の中心部についての記事でしたので、今回は長岡市願性寺の井上知法氏にお聞きしました。


「長岡は今」というお題を頂いたので、長岡市のコロナウィルス感染状況を調べてみる。

2021年6月14日現在。去年3月からの15ヵ月間で人口約26万人の長岡市に於ける感染例は345例、またここ数日感染例はなし、また本日市独自の「緊急警戒情報」が解除され、臨時休館している公共施設を再開するとの事。

……この数字や政策の捉え方には各々差異があるでしょうが、少なくともこの15ヵ月間、私の周囲に感染により身体的なダメージを負う者はいませんでした。また生活に変化があったかどうかと言えば当然人並みに影響はあるのですが、今流行しているウィルスが「子どもに身体的なダメージを与える可能性が著しく低い」という現状は、幼少期の子をもつ親からすれば、“有り難い”ほどセーフティなウィルスだという認識で、その認識を支えに毎日子どもを外に送りだす平常の生活が保たれています。が、この「子どもは大丈夫」という認識が崩れたらと、他のウィルスならそんなことも“有り得る”と想像するとゾッとします。しかし平常の生活が保てない方々がゾッとするような毎日を過していることも承知してはいます。

当初からですが、このウィルスに対する認識の違いが人々の行動を左右し、分断を生んでいます。身体の心配だけではすまない、人間関係にも影響を及ぼすというのは、今更言わずもがなですが、コロナウィルス収束の暁まで続くかと思うと辟易します。

私がコロナ禍をどう過すことが正解なのかなど知る術もなく、ただ実感の伴わない様々な情報にオロオロして、周りの感情や行動に擬態しているだけで、そのような人間もどうかとは思いますが、過し方が定まった方々も生き辛そうです。

ウィルスの蔓延により、「死」を身近なものに感じるようになった者にとってコロナ禍は悲劇でしょうが、「風邪の流行」程度と捉える者にはコロナ禍の混乱は喜劇として映るでしょう。様々な自粛・行動制限、感染対策も悲劇の世界では至極真っ当な行為だとしても、喜劇の世界でのそれらは大衆の愚かさを露呈する行為にしか映らないのかもしれません。

私自身、このコロナ禍で「万が一、○○」とか「○○かもしれない」といった“可能性”という印籠にはグーの音も出せず、また「感染症?知らねえよ、俺聖人君子じゃねえし、俺は俺だ」と言われれば、絶句して過してきました。

確かに選択肢が個人個人に委ねられている限り、「自由に行動する権利」も「安心して生活する権利」もある訳で、ナイーブな事をいえば「やった者勝ち」でもなく「嫌がった者勝ち」でもない共生はできないものかと思います。

互いの見えている世界に理解できないほどの隔たりがある。が、それでも出会ったらどのようなかたちで共生できるのか、共感も同意もできない他者だと気付いたら、それでも私たちはつながれるのか。

新型コロナウィルスの感染拡大が明確にした、収束することのない課題です。

昔、出会ったことば「私たちは徹頭徹尾自我を生き、同時に徹頭徹尾他者と共に在る。」

逃れようのない事実を表したこのことばに改めてうなずき、その困難を実感する今を過しています。

全然「長岡の今」でないですね、すいません。どうか皆さまご自愛のほど。

井上知法 氏(第13組願性寺)


 

○次回の「三条別院に想う」は、

松本 雅裕 氏(佐渡組善宗寺住職)より

ご執筆いただきます

【次回は特別編⑯佐渡は今】

人口5万人の佐渡はかつては銀山・金山で栄え、繁華街が点在していて、当然、新型ウイルスの影響を免れ得ません。次回は、佐渡の現状についてお聞きします。

 

トップへ戻る