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2021年2月15日
出版物の紹介

発行 東本願寺出版
著者 蒲池 勢至氏
発刊 2020/6/28
頁数 152頁
価格 1,760円(税込)
全国各地の真宗門徒の特色ある信仰の姿や、葬儀、年中行事などの儀礼を、柳田賞受賞の民俗学者・蒲池勢至氏が探訪する「真宗民俗の世界」。日本人の失われつつある古き良き暮らしの一端を垣間見るとともに、現代につながる信仰のありかたを見つめる一冊。
蓮如上人御影道中や三条別院お取り越し報恩講の内容が記載されております。三条別院名物「ごぼさまのからみそ」も掲載されております。
購入をご希望の方は三条教務所までご連絡ください。(℡:0256-33-2805)
2021年2月15日
出版物の紹介

発行 東本願寺出版
発刊 2013/11/28
頁数 63頁
価格 275円(税込)
誕生から入滅までの親鸞聖人のご生涯を、はじめて親鸞聖人について学ぶ方に向けてわかりやすく解説した入門書。絵画写真や系図、地図を豊富に収載し、従来よりもさらに大きな文字で読みやすく、コンパクトで持ち運びに便利な一冊。
初めて浄土真宗に触れる方でもわかりやすい本でございます。三条教区でも別院報恩講や研修会等で販売しております。
購入をご希望の方は三条教務所までご連絡ください。(℡:0256-33-2805)
2021年2月3日
坊守籍簿登録について
坊守籍簿登録申請(坊守登録)をご存知でしょうか。
真宗大谷派では、「住職又は教会主管者の配偶者を坊守と称する。」(寺院教会条例第20条)、「坊守籍簿に登録されない者は、坊守の待遇を受けることができない。」(寺院教会条例施行条規第31条)と定められております。
坊守登録をされなくても「坊守」と称することはできますが、坊守登録をされていないと本山や教区における各種共済や諸願事などの手続きや待遇を受けることができませんので、坊守登録をお勧めします。
詳しくは以下のチラシをご覧ください。
坊守登録を希望される方、坊守登録の有無について分からない方は三条教務所(℡0256-33-2805)までご連絡ください。
2021年1月27日
DODALO「WEBで会うのと リアルで会うのは 何が違うの?」


「御慈悲を お思はしてもらやぁ ぬくいでなぁ」
柳宗悦・衣笠一省 編『妙好人 因幡の源左』(百華苑)29頁
【解説】
新型コロナウイルス感染症拡大を避けるために「三密(密集・密閉・密接)」を控えることが社会に求められ、人と人とが直接会いにくくなりました。
看取りができない
入院した患者が家族と一度も会えないまま亡くなっていくことが続いています。新型コロナに感染した志村けんさんは容体が急変し亡くなりました。病院で面会ができなかった親族は、遺骨となってやっと再会できたと言われました。それから、新型コロナ感染者に限らず、人と直接会うことが制限され、新しい生活様式としてWEBで会うことが増えつつあります。
リモート診療と在宅診療
昨年、在宅医療をライフワークとしておられる医師の方と話をする機会があり、リモート診療というものはどのように感じておられますかとお聞きしたところ、「例えば私が診察をするときには病院の診察室へ入ってくる時もすでに診察になっています。椅子に座ってからが診察なのではありません。在宅医療(往診)ではその人の生活の背景まで感ずることができます。リモート診療での画面の中だけで、病状だけを見聞きしていては気がつかないことがたくさんありますからね」と話しておられました。自分の眼の狭さに気がついて真実を求めているのだなあと感じた事です。
「リアルで会う」ことと「WEBで会う」こと
朝日新聞(2020年12月3日)の『いま考える「死」とは』のインタビューで作家の柳田邦男さんは「タブレットやiPadでは、対面と違いますか」という問いに、「本質的に違います。その場で手を握り、体をさすり、耳元で声をかける。ぬくもりが言わば『心の血流』となって伝わります」と言われています。また「画面越しでは、会話ができたとしても不充分でしょうか」という問いに対して「夫婦や親子の会話は、断片的な言葉だけでも思いが伝わっています。論理的で文脈のある言葉を介するのはコミュニケーションの20%程度という説もあるのです。それ以外の、生身の触れ合いや表情、肉声で伝わる微妙な感情や愛や思いは画面越しでは難しい」と。「相手が昏睡状態のみとりでも、伝わるものがありますか」という問いに「人間は聴覚が最後まで残るとされます。全身麻酔を受けた患者の10%程度は、昏睡状態でも、その間に交わされたベッド脇の会話を記憶している、という論文が医学専門誌に発表されています。昏睡状態で亡くなる相手にも、手を握り、耳元で『いつでも一緒にいるから安心してね』と言うことで、『共存性』とでもいうべき安心感が伝わると思います」と述べています。
「リアルで会う」ことの意味を教えられます。しかし一方、リアルで会うことを許されない状況で「WEBで会う」ということも会いたいと願う人にとっては切なる願いです。
私たちは「会う」ことができているのだろうか?
ところで「会う」ことの内容はどのような事なのでしょうか?
『仏説阿弥陀経』に「倶会一処」という言葉があります。
倶会一処とは
「ともに同じ処で会うこと。阿弥陀仏の極楽浄土は、誰にとっても、人と人との純粋で真実の出会いがおこる世界である。」(古田和弘講述『仏説阿弥陀経』に学ぶ)
対して私たちの生きる世界は不純で真実の出会いが出来ない。そういう苦しみを抱えています。だからこそWEBであうこととリアルで会うことの違いは何かと問いたくなるのでしょう。
純粋で真実の出会いがおこる処、すなわち極楽浄土の阿弥陀仏の切なる願いから私たちが具体的に問われてくることがあります。
例えば、(*註)
・過去からの歩みは受け止めているだろうか?
・自分の思いを離れてありのままに見ているだろうか?
・自分の分別を超えてありのままに聞いているだろうか?
・表に出ている姿に惑わされず、その底にあるものを見ているだろうか?
・自分の分別によって動かない言い訳にしていないだろうか?
・自己都合のところだけで生きていて、他はどうでもいいのだろうか?
すこし立ち止まって自分が照らされてみると、自分の都合のよい過去をもとにして、都合よく見、聞き、表面だけを見ている。そういう自分の生き方が悲しまれている。別の言い方をすれば阿弥陀仏のお慈悲のなかにそういう誤魔化すことのできない自分が見出されてくるのでしょう。自分を悲しんでくるおはたらきはどことなく温かい。源左さんが念仏に生きられ、「お慈悲をお思わしてもらやぁ ぬくいでなぁ」と語られる言葉が気になるこの頃です。
だからWEBであうにしても、対面で会うにしても、そこに温もりを感じられなければ、決していのち輝く関係性はひらかれず、いのちが輝かない関係は温かさを失った世界になる他はないように思います。
井上 正
受徳寺(柏崎市)
**註**
6つの視点は『無量寿経』に説かれる六神通(『真宗聖典』16頁~17頁)にもとづいて趣意したもの。六神通とは宿命通、天眼通、天耳通、他心通、神足通、漏尽通。
2020年10月23日
DODALO「あなたはどんな自分になりたいですか?」
「愚者になりて往生す」
『末燈鈔』(親鸞聖人のお手紙)/『真宗聖典』603頁
【解説】
浄土真宗は「愚」という言葉をとても大切にしています。
親鸞聖人は自らを「愚禿釈親鸞」と名のられました。また、その聖人の師である法然上人は、比叡山で「智慧第一の法然坊」と称されながらも、自らを「愚痴の法然坊」と表明しています。ともに自分が「愚」であることを公に語っているのです。なぜそのようなことを公言しているのでしょうか。
一般的に、このような宣言は、謙遜の言葉として受け取られているようですが、私たちの日常の感覚からすれば、あえて自ら誰かにマイナスと受け取られかねない自分を打ち明けることはまず有り得ません。もし、それがあるとするならば、正直に話すことで好感を持たれるのでないか、失敗を大目に見てもらえるのでないか等と、自分の利になる目算がある場合でしょう。私たちが普段使っている謙遜はそのような範疇に納まるものだと思いますが、親鸞聖人たちの名のりもそれと同じような計算高いものなのでしょうか。
また一方で、この「愚」の名のりが、計算ではなく、偽りない自らの事実を語るものとするならば、それは、ただいたずらに自分を卑下するものではないのかと感じる方もいるかもしれません。そこで、親鸞聖人が「愚」という言葉をどのようにいただいていたのかをうかがい知ることのできるエピソードに目を通してみたいと思います。親鸞聖人が晩年に書かれたお手紙の一節で、若かりし頃出会った師、法然上人についての回想です。
故法然聖人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候いしことを、たしかにうけたまわり候いしうえに、ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覧じては、往生必定すべしとてえ〈笑〉ませたまいしをみまいらせ候いき。ふみざた〈文沙汰〉して、さかさかしきひとのまいりたるをば、往生はいかがあらんずらんと、たしかにうけたまわりき。いまにいたるまでおもいあわせられ候うなり。(『真宗聖典』603頁)
「ものもおぼえぬあさましき人々」とは、身分が低く貧しいために十分な知識を持つこともできず、たのむべき力を持たない人々です。誇るべきものをなにも持たない者こそ、自らを取り繕うようなことをせず、むしろまっすぐに浄土の教えに耳を傾けることが出来るのだと思います。等身大の自分をもって、道を求めて尋ねて来られる人々をご覧になって、「あの方々の往生は間違いないであろう」と法然上人は微笑んでおられたということです。
「ふみざた(文沙汰)して、さかさかしき(賢々しき)ひと」とは、自分の学び得たことを振りかざして論評し、自分を誇ろうとしていかにも賢そうに振る舞う人のことです。おそらく、この人たちはふざけているわけでも、怠けているわけでもなく、むしろ、真面目で一所懸命努力していたと思います。にもかかわらず、法然上人は「往生はどうであろうか」といぶかしげにおっしゃっています。どこに向かって、その一所懸命な努力がなされているのかを問いかけているのです。
私たちの日常でも、少しでも優れた自分、価値のある自分としてアピールして他者に認めてもらおうとすることがままありますが、それは何のためなのか、よく考えてみると、優れた自分、価値のある自分、役に立つ自分、そのような善き自分の方が、人や社会に受け入れられていくのであろうと心のどこかで感じているからではないでしょうか。それは裏を返せば、善き自分でなければ、相手にされなかったり、見限られたり、居場所を失ったりするのではないか、「善きものでなければ見捨てられるのではないか」という恐れを抱えているということです。時代・社会からの問いかけも厳しいですし、学校や会社、友人関係など、様々な場で、評価や選別にさらされてきた私たちは、それを無言の圧力として肌で感じてしまうのだと思います。
これは一見すると他者や世間の声なき声に対する怯えのようですが、その根底に劣った、価値のない、役に立たないような悪しき自分であれば、それは自分として受け取ることが出来ない、認めたくないという自己不信があるわけです。他ならぬ自分自身が自分を追い詰めているならば、それはあまりに悲しいすがたではないでしょうか。
理想や目標を掲げてそれに向かって一所懸命に努力することは、人として生きていく上でとても大切なことですが、その過程で知らず知らずのうちに、理想に叶わない現実の自分自身や他者を蔑み、ないがしろにして、傷つけることになっているとしたら、それは私たちが本当に望んでいることではないはずです。他者が私のことを必要としてくれるか、認めてくれるかどうかは、相手に任せなければならない事柄ですが、自分のことをどうするのかは、私たち一人ひとりの意志に委ねられています。たとえ、この自分がどれほど小さくつまらないものとして、今見えようとも、その自分こそがすべての道を開いていく鍵となるのでしょう。どんな自分であっても「これが私です」と受け取っていけるところに本当に自由な生き方があるのではないでしょうか。
そして、このお手紙で大事なことは、晩年の親鸞聖人が「いまにいたるまで」ありありとこのお話を思い浮かべているということです。もし、親鸞聖人が当たり前のように、自らの愚かさを自覚して、等身大の事実の自分自身に立って生活しているならば、少なくとも晩年になるまでこの法然上人のお話を思い浮かべ続けることはなかったと思います。むしろ、いつでも賢そうに分かっている者として、自身を問うことも教えられることもなく、自分や他者を踏みつけて顧みないような自分がいたからこそ、この法然上人のお話が親鸞聖人の生涯にわたって突き刺さり続けたのでしょう。分かっている者ではなく、教えられなければならない者として、法然上人の言葉やすがたを通して、仏の教えに自分自身を照らされながら歩まれたのが、親鸞聖人の「愚」の名のりの具体的な中身であると思います。聖人は、知らず知らずの内に、自らの前提としてしまっている生き方の危うさを、そのような形で確かめながら、まわりの人たちにも伝えていました。自分自身の生き方とは、当たり前の前提としてもつものではなく、教えられ、学び続けねばならないものであることを、私たちに示してくださっているのです。
富樫大樹
妙音寺(新潟市西区)





