どんな日も、どんな時代も、そばにある。

三条別院|浄土真宗 真宗大谷派
三条別院|浄土真宗 真宗大谷派

最新情報
NEWS

2020年3月6日

「『歎異抄』に聞く」を聞く ブログ

廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く -「第七章」-

久々に記事を書きました。廣河です。新型コロナウィルスの話題が嫌でも耳に入ってきますが…冷静な行動をしたいものです。色々あり代わりに『歎異抄』に聞く、聞いてもらっていましたが、今回は無事聞くことができました。廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く、第19回目です。1月28日(火)に宗祖御命日日中法要が勤められました。その後の御命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回はなななんと!三条別院職員、列座の小原暁に、『歎異抄』「第七章」を主題にご法話頂きました。

子煩悩列座、小原暁。このとき、何故だか変な汗が止まらなかったそうです。

『歎異抄』第七章
【本文】

一 念仏者は無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々
【意訳】

念仏者は、何ものにも妨げられることのない、ひとすじの大道を歩むものである。その理由は、他力の信心をいただいて念仏申す者には、天の神・地の神も敬い平伏し、人間の生き方を妨げ悩ますものや、本願力によらないで救済されると考えるすべての思想も妨げとなることがない。また、自分の犯してきた過去の行いについて、善悪の報いに振り回されることがなく、他力の念仏以外のあらゆる行いも阿弥陀如来の大悲のはたらきには及ばないのであるから、無碍の一道なのであると、親鸞聖人は仰せになりました。

【語註】

天神地祇…天の神、地の神。すべての神々。

魔界…人間の生き方をさまたげ悩ますもの。

外道…仏教以外の教え。ここでは本願力のよらないで救済されると考えるすべての思想。

障碍…さわり、さまたげ。

業報…過去の行為によって受ける善悪の報い。

感ずる…過去の行為の報いが現れること。

諸善…往生、成仏のためのもろもろの善行。ここでは、他力の念仏以外のあらゆる作善。

【聞く】

『歎異抄』第七章は、我々人間の人生の歩みを脅かし、不安に満ちたものとする様々な「碍り(さわり)」について書かれています。それは、罪悪を犯せばその業報を怖れ、よい行いをすればそれに固執してやまない、人間の内にある暗い心であり、また天神地祇・魔界外道という、我々の外にあって我々を縛り脅かすものへの怖れです。しかしながら、念仏者の歩みは、内外にあって自分を縛る暗い碍りにさまたげられないものであることを顕して、「念仏者は無碍の一道なり」と、端的に力強く書かれています。

小原氏は第七章について、御自身の今の生活や、三条真宗学院生時代のときにであった人や言葉を振り返りながらお話されました。

まず、無碍とは何かというところを取り上げ、障害がないこと、邪魔するものがないことを言われた上で、その反対は有碍(うげ)であるとして、事前の告知のあったホームページの記事の言葉を借りれば翻弄であるとしました。

いわく、①妻子に翻弄される、②お寺に翻弄される、③ローンに翻弄される云々…、中々思うようには行かない日々、無碍の一道とはいえない日常だそうです。こんな私でも、無碍の一道を歩めるのだろうか…。

そこで小原氏は、『教行信証』「行巻」の言葉を引用されました。

「無碍」は、いわく、生死すなわちこれ涅槃なりと知るなり。(『真宗聖典』一九四頁)

この言葉は『華厳経』の言葉を親鸞聖人が引かれたものですが、ここに、さわりがない(無碍)というのは、生死(迷い)がそのまま覚りだとしることだ、と言われております。ちなみに「生死」というのは「しょうじ」と読み、元々は仏教語です。お釈迦様の時代のインドの言葉、サンスクリットの「サンサーラ」の訳語です。これは「輪廻」とも訳されますが、「死んでは生まれ変わること」を意味しています。そこから換言され、苦しみの人生を繰り返していく「迷い」の在り方として表現されます。また、『華厳経』の言葉と同じような表現であるとして、「正信偈」の「不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり)」の言葉も引かれました。

迷いが覚りである、煩悩を断たずして涅槃を得る、と言われても、中々信じられないのが我々。念仏すれば救われる(念仏往生)と言われても、そんな簡単で単純なことで、本当に救われるのかと、かえって疑いの目をむけてしまうのが我々です。ではどうしたらいいのか。

小原氏は、信じること、念仏がわからんというときはどうすればいいのかと提起した上で真宗学院で恩師の話された言葉を教えてくれました。

「わからないことをごまかさないで、念仏すれば往生するっていうことは何なのか、問いとして問うていく」

ごまかさない、ということが、いかにできていないか。我々は、お念仏に、阿弥陀さまに、ごまかさずに向き合っていると言えるでしょうか。日々の生活に埋没して、忘れていないでしょうか、目を背けていないでしょうか…それを問い続けること、聞き続けることの大切さを氏は述べます。

また、小原氏が大谷派教師資格の取得のために行われる修練を受けているときに、スタッフが話された言葉も言われました。

「問いは世界を開く 答えは世界を閉ざす」

私たちは、問いがあると問い続けるけれども、答えを知るとそこで歩みをやめてしまう。まずは、念仏がわからないのであれば、わからない自分があることを自覚し、ごまかさずに問い続けることを、重ねて言われました。

さらに、浄土真宗の僧侶である安田理深氏の言葉も二つ、教えてもらいました。

「道があるだけでは、信心は不完全である。道を得た人がある、ということを信ずるのが信仰の核である。人が道を具体化する。」

道があるだけでは歩もうという気にはならない。自分が何故そこを歩みたいのか、認識するために、そこを歩いてきた人の存在を感じなければ、道を歩むことの意義がわからなくなる、と小原氏は述べます。そして、自分たちより先に無碍の一道を歩まれた、親鸞聖人や、安田理深氏、そういった人たちの教えを聞いて、問いを持ち続けることが歩みとなると言われます。

またもう一つ。

「もっともっと悩まねばなりません。人類の様々な問題が私たちに圧しかかってきているのです。安っぽい喜びと安心にひたるような信仰に逃避していることはできません。むしろそういう安っぽい信仰を打ち破っていくのが浄土真宗です。」

小原氏は、安っぽい喜びと安心にひたるような信仰とは何かを問いかけ、今回の章にある「魔界外道」に連関させ、人の生活をある時は勇気づけ、ある時は悩ませ惑わすものへの信仰を話されました。つまり、普段の生活の中で、例えば天気予報の最後の血液型占いが気になってしまったり、例えば厄除けの祈願(無病息災、家内安全など)をしたり、加持祈禱、占いに一喜一憂などなど…。それらは信仰といっても、時と場合、人によって受け取り方は変わってきますから、無常であり、真実でないのです。そういった、「魔界外道」ということを打ち破っていくことが浄土真宗であり、無碍の一道を歩む人の志願ではないかと言われ、締めくくられました。

 

多くの御参詣。駐在の髙田さん他、小原さんの勇姿を見に真宗学院卒業生も拝聴に。

2月28日(金)の御命日のつどいでは、年頭会が勤まりました。詳細は改めて新しい記事で報告します。

また、3月28日(土)の御命日のつどいでは、佐渡組淨願寺(佐渡市片野尾)住職の藤岡正典氏に『歎異抄』第八章についてお話いただく予定でしたが、新型コロナウィルスの感染拡大に伴う対応として、法話は中止とさせていただきました。当日は御命日日中法要を職員のみでお勤め(内勤め)させていただきます。

4月28日(火)の御命日のつどいは開催予定です。第18組永傳寺住職の本多智之氏に、『歎異抄』第九章を主題にお話いただきます。どうぞお誘い合わせの上、ご参詣ください。

2020年3月4日

講演会・お知らせ

新型コロナウイルス感染症への対応について

現在、各種報道のとおり、新型コロナウイルス感染症のさらなる感染拡大が懸念されております。

三条教区・三条別院としても、宗派に準じた対応をとることとなりました。

つきましては、三条教区・三条別院諸行事について、中止または内容変更の措置を取らせていただくことになりましたのでお知らせします。

宗派の対応及び三条教区・三条別院諸行事の開催状況一覧について、添付資料(PDF)にてご確認くださいますようお願いいたします。

[真宗大谷派]新型コロナウイルス感染症の感染拡大に伴う対応について

三条教区別院行事の中止・延期状況一覧(3月3日内容現在)

2020年2月26日

別院だより

三条別院たより・三条教区通信3月号をお届けします

『三条別院たより』3月号・『三条教区通信』第150号をどうぞご覧ください。

 

2020年2月23日

「『歎異抄』に聞く」を聞く

廣河に代わり小原が「『歎異抄』に聞く」を聞く-「第六章」-

12月28日(土)、三条別院では宗祖御命日日中法要が勤まりました。

その後の御命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに、序文から順にご法話を頂いています。

今回は三条教区第11組長福寺(新潟県長岡市)の北島栄誠氏に、『歎異抄』「第六章」を主題にご法話頂きました。

タイトルをご覧になってお気づきの通り、今回は廣河が法務の為不在だったので、代わりに小原が「『歎異抄』に聞く」を聞いてまいりました。

長福寺、北島栄誠氏。教区内の教化委員や三条別院の報恩講実行委員に携われるなど、多岐にわたって活躍されております。

『歎異抄』「第六章」原文

-専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細なり。

親鸞は弟子一人ももたずそうろう。そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。

つぐべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいうこと、不可説なり。如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。かえすがえすもあるべからざることなり。

自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々

現代語訳

本願他力の念仏を信奉する人びとの中で、自分の弟子だ、ひとの弟子だという争いがあるのは、もってのほかのことである。

私(親鸞)は、弟子を一人ももたない。というのは、私の工夫や努力で、ひとの「本願を信ずるこころ」を起こさせることができるならば、自分の弟子であるということもできるであろう。しかし、本願力のはたらきに促されて、本願を信ずることができたひとを、自分の弟子であるということは、とんでもないこころえ違いである。

出会うべき縁があればともに歩み、別れるべき縁があれば、別れていくこともある。そうであるのに、師に背いて、他のひとつについて念仏の教えを受けるのであれば、本願の救いを得られないなどということは、まったくの見当違いである。無限大悲に育てられ目覚めたこころを、個人的な所有物でもあるかのように、取り返そうとでもいうのであろうか。どう考えても、断じてあってはならないことである。

人間のはからいを超えた、如来の本願の大いなるはたらきとひとつになるならば、如来の恩を知ることができ、また師の恩をも頷くことができるのである。

 

【聞く】

北島氏は、第6章の文をご自身の今の生活に照らし合わせてお話しされました。今のお寺に入って今年で10年目だそうで、お寺のご門徒さんから「いい寺になった」と言われるそうです。(当日もお寺ではご門徒さんを中心に餅つきが行われていました。)しかし、年間一件ほど「檀家を辞めたい」と言ってくるご門徒さんがいるそうです。「こっちは頑張ってやっているのに」と思っても、引き止めようにもその方は覚悟を持って来るので引き止められないと言います。

そのことが、冒頭の「わが弟子ひとの弟子」という一文に通じるところがあるといいます。人間にはどうしても我執(自分のモノという執着)があるから、「私の弟子」という所有の意識は拭えません。親鸞は、人間関係は徹底して縁が織りなすという認識があります。そのことが、原文にある「つぐべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも」に表れているのだと思います。

仏法を聞く、仏法に遇うことはお手次寺に限らずどこでもできます。(三条別院には直参門徒はいませんが御命日のつどい、定例法話等に沢山の方が来られます。)ご門徒さんを自分のモノと執着せず、本当に仏の教えに遇って欲しいということを「わが弟子ひとの弟子…」という一文に教えられたそうです。かくいう私も「門徒(檀家)がいなければやっていけない、辞めたいなんてとんでもない」と思いましたが、話を聞いて私自身気付かなかった私の中の我執が照らし出された、そんな風に思いました。

続いて、原文中の「弟子一人ももたず」について、親鸞聖人はご自身も弟子であるということを表現しているのではないかということでした。では誰の弟子かというと、仏の弟子(仏弟子)なのです。私たち真宗門徒は仏法を聞く名告りとして「法名」を授かります。よく似たものに「戒名」があります。「戒名」は五戒(殺生しない、盗まない、嘘をつかない、お酒を飲まない、イチャイチャしない)という戒律を守っていくという名告りなのですが、それに対して、その戒律を守れない、愚かな人間であるという自覚をもって名告るのが「法名」です。そういう生き方の中で、お釈迦さまから「釈」の字を一字いただいて仏弟子の名告りとするのです。上記の五戒を守ることができる、と言い切れる人というのはそういないはずです。私たちは「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と『歎異抄』13章にあるように、縁があれば何でもしてしまう、それこそ縁があれば人殺ししてしまう可能性のある、「約束の守れない」私たちが救われていく道として、仏法を聞き、念仏もうす名告りとして法名をいただくわけです。私も法名をいただいてますが、自分が愚かな人間であるという自覚があるのか、仏法を聴聞し念仏もうす生活をしているのか、あらためて考えさせられる機会になりました。

さて、次回の「『歎異抄』聞く」第7章ですが…なんと、私小原が話させていただくことになりました(!?)私なんかで大丈夫なのか…不安はありますが、これも仏法を聴聞するいいご縁と思って頑張ります!

 

2020年2月21日

ブログ 三条別院に想う

「鍛冶ガール」について三条マルシェ実行委員に執筆してもらいました!

【三条別院に想う】鈴木千博氏(三条マルシェ実行委員)

昔、よく散歩したり走りまわったりしてたな

昔、裏山があったよな

三条マルシェに携わる様になってから、昔みたいによく訪れる様になりました

すごく懐かしく感じています

 

この街の中心にある別院さん

時代は変わっても三条の中心から、街全体を見守るかのようにそこにいてくれていますね

色んな時代を見てきたんだと思います

別院さん、もしこの街の今とはちょっと違った風景が見れたらどうですか?

もし、昔見ていたような懐かしい風景も

また見れるかもしれないとなったらワクワクしませんか?

 

私は【鍛冶ガール】という2次元キャラを、多くの方々と共にこの街に誕生させました

もしかしたらその鍛冶ガールが、そんな風景を見せてくれるかもしれません

別院さん、その時は鍛冶ガールが別院さんの敷地内を散歩したり走りまわったり

するかもしれませんが、その時は許してあげてください

そして、この街のちょっと違った風景をニコニコしながら見守ってください

 

この街を、今よりも元気で面白い街にしていきたいと想います

昔走りまわっていた別院さんの敷地内で、そう想います

中央が鈴木氏。それを囲むイベント班を中心とした三条マルシェ実行委員たち。

 

【「鍛冶ガール」に想う】

三条別院の職員として私が町おこしをしたいと思うのは、別院周辺の本寺小路や中央商店街や一ノ木戸商店街がふたたび賑わえば、三条別院への参詣者が増え、仏教を聞いてもらうきっかけになれればという理由である。この「町おこしをしたい」という理由は、中小企業であれば経済を活性化したいということや、過疎などに伴う人口流出の加速などの深刻な問題や、実生活における不便(スーパーマーケットや病院など)の問題や、あるいは仲間を増やしたい、あるいは自己実現の場としたいということだったり、自分たちの町を自分たちで作るという意識であったり、さまざまであると思われる。さて、今回の主題の「三条マルシェ」であるが、三条別院も年に1回程度会場となるということで、実行委員としても参加させていただいている(出席率は悪いが別院開催の時の会議はなるべく出席している)。その良さは三条市民みずからによる実行委員制で、やけに頻度が多いことや、それに伴う気軽さや敷居の低さであるといえよう。そこには多種多様な町おこしの動機達が集まってくる。今回三条市体育文化会館のリニューアルイベントで三条マルシェが行われた際には、三十路をはるかに越えたおじさんたちが「萌え」で町おこしをしたいということで(「萌えおこし」というのはもはや現代用語になっているという…)、鈴木氏をはじめとした委員の懸命の働きかけで、「鍛冶ガール」というキャラクターが短期間で誕生した(それを私は横で見ていた)。短期間に委員間で多量のやりとりがありすぎて私はマルシェのグループラインの通知をオフにしたくらいである。今後は映画化などを目指しているというが、このような過剰な情熱を敷居を低く受け入れる土壌が三条マルシェにはあるということが良いところである。今回発案者のイベント班の鈴木さんから原稿を書いてもらい、認知度が高まる前に「青田買い」したので、ゆくゆくはこの記事の価値が出るかもしれない。あるいは星くずとなって消えるかもしれない。しかし、お寺は敷居が高いと言われることもある昨今、このような取り組みに学ぶことがあるように思う。

(斎木)

【リンク(更なる詳細)】

ケンオードットコムのマルシェの記事

鈴木氏のブログ

トップへ戻る