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三条別院|浄土真宗 真宗大谷派
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2019年8月30日

別院だより・三条教区通信

三条別院たより・三条教区通信9月号をお届けします

『三条別院たより』9月号・『三条教区通信』第144号をどうぞご覧ください。

2019年8月27日

「『歎異抄』に聞く」を聞く ブログ

廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く -「第一章」-

今年の酷暑もひどいもんでしたが、みなさんいかがでしたでしょうか。廣河もさすがに身体にこたえました…。下旬になって気温もようやく朝晩落ち着いてきた感じですが、うっかりしてるとすぐ秋、そして冬ですからね。過ごしやすい気候というのは過ぎ去りやすい、そんな気がします。

さて、廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く、第13回目です。7月28日(日)に宗祖御命日日中法要が勤められました。その後の御命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに、序文から順にご法話を頂いています。今回は三条教区17組妙音寺(新潟市西区五十嵐)の富樫大樹氏に、『歎異抄』「第一章」を主題にご法話頂きました。

妙音寺住職の富樫大樹氏。氏は三条教区教化センタ―の副主幹も務められております。

【本文】

一 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々

【私訳】

人間の思慮を超えた阿弥陀の本願の大いなるはたらきにまるごと救われて、新しい生活を獲得できると自覚して、本願に従おうというこころが湧きおこる時、迷い多きこの身のままに、阿弥陀の無限なる慈悲に包まれて、不動の精神的大地が与えられるのである。

阿弥陀の本願は、人間のいかなる条件によっても分け隔てや選びをしない。ただ、如来の本願に目覚めるこころひとつが肝心なのである。

なぜなら、生活状況に振り回されて、欲から抜け出せずに悩み苦しんでいる私たちをこそ救おうとする願いだからである。

そうであるから、本願の救いに目覚めるならば、どのような善であっても肝心なことではなくなる。それは念仏がどのような善をも超えている。また、悪も救いを妨げると恐れることはない。なぜならば、阿弥陀の本願はどのような悪にも妨げられないからである。

【語註】

誓願不思議…阿弥陀如来の本願の、清浄にして真実をめぐむはたらき。

この「不思議」については、誓願が、人間の思議・分別を超越したものであることを表していると一般に理解されている。しかし親鸞聖人の著作に親しむとき、これが単に本願の超越性を表す言葉ではなく、仏道を歩もうとする私たちの上に、本願のはたらきによって、如来の世界が開示されることが示されていると考えられる。そのことは、和讃(天親讃)に「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」と、端的にうたわれるとおりである。ひとたび本願に値遇するという体験を得た人は、そこに、煩悩の身であることを知らされながら、その煩悩の身にさまたげられることのない、光に満ちた広やかな世界を実感し、如来のまことがその身に恵まれることを知るのである。この感動を親鸞聖人は「不思議」という言葉で繰り返し語り、また浄土真宗が、「誓願不思議」という道理に立って実現する仏道であると、示しておられることを思い合わすべきである。

往生…阿弥陀如来の世界(浄土)に生まれていくこと。

『歎異抄』においては、念仏と信心に大きな関心が向けられ、仏道を念仏往生の道として語り告げている。したがって、『歎異抄』を一貫する主題は「往生」であると言ってよいだろう。この往生については、一般に「未来往生」、つまり、往生を死後に実現するものと理解してきた伝統があり、『歎異抄』においても、肉体の命が終わる際に遂げるものとして語られてもいる。しかしながら、『歎異抄』の主眼が、自力の諸行を往生の行としないで、念仏こそ本願に裏付けられた往生の行であると確かめていることを思うとき、「臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき、往生またさだまるなり」(『末燈鈔』)という、『大経』の本願成就の教えに立った親鸞聖人の往生理解が、思い合わされるべきである。「念仏もうさんとおもいたつこころ」として信心が起こるとき、その人は如来の浄土を実感しながら、往生の道に立つこととなるのである。

摂取不捨…阿弥陀如来の救済を表す言葉。

『観経』に説かれるこの言葉は、浄土教の伝統において如来の救済を表すものとして、大切にされていた。親鸞聖人もまた、この「摂取不捨」をしばしば語っている。ただし、親鸞聖人の著作において、「摂取不捨」は多くの場合、「正定聚」として了解されていることに注意したい。この正定聚とは、必ず仏となるべき身と定まったことを表す。聖人自身が「『大無量寿経』に、摂取不捨の利益にさだまるを正定聚となづけ、『無量寿如来会』には、等正覚ととき給えり」(『末燈鈔』)と語るように、『大経』の思想に立って、救済を意味する「摂取不捨」を、正定聚・等正覚として捉え直しているのである。つまり信心の人の歩みは、単に如来の光に抱かれ護られるのみならず、大乗の究極的なさとりである無上涅槃へ向かって開かれている。したがって、念仏者の人生は、まさに大乗の仏道を歩む堂々たる独立者の風貌を湛えているのである。

信心…阿弥陀如来の本願にめざめる心。

罪悪深重…如来に背き他を傷つける重い障り。

煩悩熾盛…欲望、憎しみ、怒りが激しく動いていること。

衆生…いのちあるもの。

【聞く】

「第一章」は、誓願ということ、浄土真宗のすべてを支える如来の誓願についての、親鸞聖人の了解が述べられます。先回の池田先生が紹介されていた章立てから言えば、「弘願信心章」という名前をつけることもできます。

そもそもの話で、誓願って、なに??ってこともあると思うので、辞典を引いてみます。

◆誓願…願を起こして、成し遂げようと誓うこと。仏や菩薩には、共通した願である総願と、仏・菩薩個々の願である別願とがある。浄土教では、特に阿弥陀仏の本願をさして誓願という。それは弘くすべてのものを救おうとする願い、誓いであるから、弘願、弘誓といい、あわれみの心が深く重いから重願といい、また不捨の誓約、本誓などともいう。誓願の救済力を誓願力といい、そのはたらきが凡夫の考えの及ばないものであるから誓願不思議という。親鸞の門下で、誓願の力で救われるか、名号の力で救われるかという論争をする者があったが、親鸞は誓願と名号とは同一であるとした(御消息集)。ただし存覚の名号不思議誓願不思議問答には、誓願不思議を他力中の他力、名号不思議を他力中の自力であるという。(『[新版]仏教学辞典』)

とあります。とりわけここでは阿弥陀如来の誓願のことを言われているわけですが、浄土真宗の根っこ、救済原理ですね。浄土真宗の大切な言葉として信心であったり、お念仏であったり色々ありますけど、その全体にはこの如来の誓願ということが流れているわけです。それは弘くすべてのものを救おうとする願い、誓いと書かれております。要するに、正確には阿弥陀如来の前身である「法蔵菩薩」が、「生きとしいけるすべてのいのちを救えなければ、自分は仏とはならない」と誓われた願ということです。そして、これは単に生きとしいけるものを救いたいという菩薩の一方的な愛の表現ではありません。苦しんでいるいのちを向こうに置いて、菩薩がそれを助けようとするのではない。苦しみ迷っているいのちと一体となって、つまり他人事ではなくして、いのち全体を救う。ここに、浄土真宗を浄土真宗たらしめる柱があるわけです。

ご法話では印象的だった話として、阿弥陀如来の本願は「えらばず、きらわず、みすてず」の心なんですよということをお話しいただきました。この「えらばず、きらわず、みすてず」という言葉は大谷専修学院元学院長の竹中智秀師の言葉でありますが、富樫先生は専修学院で学生をされていたとき、このことしか聞いていないんじゃないかというぐらい教えられてきた言葉だと言われておりました。それだけ大切な言葉だということですね。この言葉は、我々一人ひとりが尊い存在として、真実を求める存在として、我々のことを見つめてくださっている。そういった阿弥陀如来の心、摂取不捨という摂め取って捨てない阿弥陀の利益を、平易な言葉で表現しているわけです。ここには、私たち人間がお互いを尊重して出会っていくために必要なことが詰まっているように思います。

思えば、私たちの生活の中で「えらばず・きらわず・みすてず」の実践はとても困難でありましょう。何故なら、何処かしらで、人や物を選んだり、嫌ったり、見捨てて生きているから。「選んで、選り好みして、見捨てる」。口に出したとしても、出さなかったとしても、自分の経験や行動、思いの中では「えらばず、きらはず、みすてず」ということは成り立たないことばかりではないでしょうか。それは、こっちを立てると、あっちが立たないといった具合にいつもどちらかを選んでいるから起こるわけです。阿弥陀如来はそういった、生きとし生ける、悩み苦しむ一切の衆生を救いたいと願われた。その心というものが「えらばず、きらはず、みすてず」なのでしょう。誰一人としてもらすこともなく、皆、共に浄土に往生して欲しいという願いがここには託されているわけです。

そしてこの願いは、私たちを見捨てないという宣言でもあるのです。どうしても選んだり、嫌ったり、見捨てたりしてしまう、そういうことでしか生きていけず、傷ついていかざるをえない世界を私たちは生きているわけですが、如来の誓願がすでにあるのだということによって、どっしりと構えることができる。わかりやすい表現か最早わからないですが、つまり安心して迷うことができる。如来の誓願という大いなる大地に立たしめられているからこそ、人生の中でどれだけ動揺しても決して倒れることのない安心感があり、たとえ倒れたとしても本願の大地の上なんだ、という安心感があるわけです。
私たちはこの「えらばず、きらわず、みすてず」という阿弥陀如来の心を、実は本質的には持っているのかもしれません。皆、選んだり、嫌ったり、見捨てたりした時に、「これで良かったのか?どうしてあの時こういう判断をしたのだろう?」と後悔したり、悩んだりしないでしょうか。「えらばず、きらわず、みすてず」を出来ないでいる私たちに対して、阿弥陀如来が心の方から呼びかけてきている、とも考えられないでしょうか。
心の呼びかけに目を向けられないでいるのは日々の生活の中での自分の思い、分別があるからでありましょう。時々気がついたとしても、ずっとそちらに目を向けながら生きていくと言う事が難しく、気持ちの上では応えていきたいと感じるのだが、いつの間にか目を外してしまっている。けれども、心の方からの呼びかけに少しでも応えられた時、阿弥陀如来からの呼びかけというものにも、少しばかり気づく事ができるのではないかと感じます。私自身も自分の内面の呼びかけを大切に、応えて生きていけたら…。その本願のはたらきに出遇い、自らの在り方を見つめ直す時、縁によって支え合い、生かされている我が身の姿が見えてくるのではないでしょうか。

ご法話に心打たれている廣河の図。決して舟を漕いでいるわけではありません!

明日、8月28日(水)の御命日のつどいでは、『歎異抄』「第二章」をテーマに第19組明誓寺(新潟市南区)の当院であり、当別院の列座でもある田澤友生氏よりお話頂きます。どうぞお誘い合わせてお参りください。

 

2019年8月26日

講演会・お知らせ

秋彼岸会に柳衛悠平氏がやってくる!

今年の三条別院秋彼岸会には「ニセ坊主」(響流書房)の著作もある柳衛悠平氏がやってきます!

柳衛さんは、学習院大学大学院人文科学研究科の博士課程修了後、一般企業勤務を経て、財団法人本願寺維持財団(現本願寺文化興隆財団)に就職し、得度をして法務を学ばれ、退職および僧籍返上の後、公益財団法人仏教伝道協会にて仏教書の出版事業に従事されて、真宗大谷派で人生二度目の得度をされたという異色の経歴の持ち主です。節談説教の研鑽にも取り組んでいます。

【秋彼岸の日程】

人生講座:秋彼岸期間中の午前6時からお勤め、法話。人生講座特製パンをご用意しております。
テーマは「煩悩」。
秋彼岸期間中書院にて御虫干展開催(9:00~16:00)
9月24日(火)
人生講座「むさぼり」 最賢寺(上越市南本町)金子 光洋 氏
午後1時30分 逮夜法要 淨照寺(三条市月岡) 土屋  真 氏
午後3時 掛け軸の扱い方の講話と講習   後藤 光晴 氏(後藤経装)
9月25日(水)
人生講座「いかり」 長泉寺(三条市上保内)石塚 祐堂 氏
午前10時 日中法要
成真寺(静岡県三島市)柳衛 悠平 氏(節談説教)

正午 お斎(松木屋の精進弁当)※要予約・冥加金2000円(当日券若干あり)
午後1時30分 逮夜法要    ひきつづき 柳衛 悠平 氏(節談説教)
9月26日(木)
人生講座「おろかさ」 等覺寺(村上市細工町)遠藤 博子 氏
午前10時 日中法要  成真寺(静岡県三島市)柳衛 悠平 氏(節談説教)

詳細は追ってホームページにアップします!

2019年8月26日

ブログ

2019年朝の人生講座報告

2017年の朝の人生講座より、テーマを「生老病死」と決め、3年目の今年は「病」ということで、20代僧侶、30代僧侶、40代僧侶、50代僧侶の皆さんにそれぞれお話しいただきました。

福田拓哉氏(新潟市南区福圓寺)講題は「闘と共」

塚本智秀氏(新潟市南区等運寺)講題は「病が見えない」

井上知法氏(長岡市願性寺)講題は「病むほどの責任と無責任と云う病いについて」

鏑木智子氏(新潟市中央区勝樂寺衆徒)講題は「種々に善巧方便し」

同時に2017年から中央商店街のコロネットに協力していただき、オリジナルのパンと牛乳を朝食として配布しています。今年は三条市役所健康づくり課食育推進室から「共食(きょうしょく)」を提案していただき、残っていただける参詣者と法話講師・輪番・職員で旧御堂でパンと牛乳を食べました。

今年のパンは…

大納言スネイクがさらに三条別院のイメージカラーの緑色の豆に!

市役所の職員さんがもってきていただいたトースターでパンを温めるために行列ができる。

法話講師も職員も参詣者といっしょに朝食。

従来から「法話講師に質問の時間を設けてほしい」という要望がありましたが、今回の共食の試みによって、講師に親しくいろいろなお話を聞くこともできるようになりました。今回は参詣者がそれほど多くはありませんでしたが、しかし確実に関わる人々が増えてきたと感じます。そしてこちらからの発信ではなく、三条市が「朝の人生講座を共食の会場にしませんか」と別院まで足を運んで提案してくれたことは、別院が気軽に声をかけることのできる存在になりつつあることであり、そして共食の会場になることで、また入りやすくなるのではないでしょうか(これは先般紹介した竹中智秀師が「えらばず、きらわず、みすてず」といった仏さまの心をふまえて記しました)。

2019年8月17日

講演会・お知らせ

朝の人生講座2019の講師と講題が決定!

今年の朝の人生講座(8月22日から25日朝6時から7時30分)のテーマは「病」。釈尊の出家に際する挿話で、四門出遊(しもんしゅつゆう)があります。遊園に出遊する途中で、老人・病人・死人などを見て、人生の苦を感じ、それが出家の動機になったとされています。直接的には死を、そして老や死にであう時、「生」を中心に馬車馬のように生きている自分自身にはじめて疑問をもつかもしれません。「もし馬車馬的な生に対する関係を脱却して、目蔽いをとりはずして、生と死の関係の全体を、もう一度新しく考えなおそうとするときには、いままで考えていた時間の考え方とか、空間の考え方とか、そういうものが皆変わってしまわねばならないような、困難な思考をとることを、余儀なくされる」(武内義範『親鸞と現代』)。

今年のテーマは「病」。各講師の写真と個別の講題が決定しました。

22日(木)福田拓哉氏(新潟市南区福圓寺)の講題は「闘と共」。(写真左から2番目)

20代僧侶の福田氏は(現在29歳)、昨年まで日本精機で勤められており、産業機械用メーターの設計を担当していたということです。コンピューターを駆使する理系の僧侶は意外と少ないのが実情です。仕事のかたわら毎週土曜日に三条真宗学院に通い、今年の春に真宗大谷派教師となり、また、新しい仕事に転職されたそうです。いまどんなことを考えているのでしょうか?

23日(金)塚本智秀氏(新潟市南区等運寺)の講題は「病が見えない」

30代僧侶の塚本智秀氏は、8月19日から21日まで児童夏のつどいの実行委員長としてキャンプから帰ってきてすぐにお話しいただきます。昨年住職に就任されました。前住職の塚本智光氏が、ブラジルサンパウロの開教監督・別院輪番となり地球の裏側に行ってしまったため、周りから見ると「突然住職になり苦労しているのでは?」と感じますが、その苦労もお話しいただきたいのですが、今回のテーマは「病」。どんなお話になるのでしょうか?

24日(土)井上知法氏(長岡市願性寺)の講題は「病むほどの責任と無責任と云う病いについて」

40代僧侶の井上知法氏は、現在三条市東裏館の善性寺で勤められており、地元の人からも親しまれています。善性寺の住職とともに三条別院のお取り越し報恩講の仏花を立てたり立花講習会のスタッフをされています。以前法話された時の「仲間づくりは仲間外れづくり」という言葉どおり、ストイックに「群れないこと」を一貫しているように見えます。プライベートでは4人の女の子(!)の父親で、苦労がたえないそうです。

25日(日)鏑木智子氏(新潟市勝樂寺衆徒)「種々に善巧方便し」。(写真左から2番目)

50代僧侶の鏑木氏は、楽人をされています(楽器は龍笛)。仏教とのであいと雅楽について、あるいは儀式について、お話しいただけるかもしれません。鏑木氏も今年、三条真宗学院を終了されました。

それぞれ皆さん、年齢は異なりますが、不意に訪れた転機などで、「生きる」ということの枠組み自体を問い直されている方たちばかりであると思います。僧侶の人生を通して、また自身の人生について共に考えていきましょう。

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