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2019年12月11日
廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く -「第三章」-
随分と、更新が遅れてしまいました。完全に言い訳ですが、9月頃から、三条別院のお取り越し報恩講の準備が段々と激化してくるので、御命日のつどいの記録も中々書く時間が取れなかったのですね。そして日があけば、どんな内容だったか思い出すところから…いやはや、力不足を感じる今日この頃です。去年の私は一体どうやってこの時期書いていたんだろうかと思って、去年の記事を見てみましたが、次の一文で辟易。
来月にお取り越し報恩講を控え、慌ただしい日々を過ごしております。ですが、どのような日々であってもすべてが聞法生活。その意識が薄れていかないように、何度でも仏法に出遇わせていただくということが、大切なことのように思います。(廣河が『歎異抄』に聞くを聞く。 ー「第十二章」ー)
随分と偉そうなことを申しております(汗)果たして私は仏法に出遇えているのでしょうか。忙しさに右往左往し、お役目も果たせず慌てふためいている姿しか回想できません…。それでもと、言い続けるしかないのでしょうけど。
さて気を取り直して、廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く、第15回目です。9月28日(土)に宗祖御命日日中法要が勤められました。その後の御命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回は三条教区第20組光圓寺(新潟市江南区沢海)の村手淳史氏に、『歎異抄』「第三章」を主題にご法話頂きました。
『歎異抄』「第三章」
【本文】
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。
【現代語訳】
善人でさえ往生を遂げることができる。だから悪人は言うまでもない。それなのに世間の人たちは常に言っている。悪人でさえも往生する、だから善人は言うまでもない。このことは、一応その道理があるように思われるけれども、本願他力の趣旨に背いている。その理由は、自らの力をたのんで善を作し功徳を積もうとする人は、一筋に他力をたのむ心が欠けているので 阿弥陀仏の本願にかなっていない。けれども、自力の心をひるがえして、他力をおたのみするならば真実の報土の往生を遂げることができるのである。須悩をことごとく具えている私たちは どのような行いによってもこの迷いの世界を離れることがまったくないということを悲しまれて本願を発された本当の御心は、悪人成仏のためであるから、他力をおたのみする悪人こそ、もっとも往生の正因なのである。それ故、善人でさえ往生する、だから悪人は言うまでもない。と親鷲聖人は仰せられました。
○今回、村手さんより現代語訳を含むレジュメをいただいているので、そちらから掲載しております。
【語註】
善人…自分を善い行いをすることができると思っている人。
悪人…自分を真実に背く罪悪の身だと自覚している人。
一旦…一応
そのいわれあるににたれども…道理があるように思われますが。
自力作善のひと…自力の力によって、善い行いができると思っている人。
真実報土…本願がかたちをとってあらわれた、迷いを超えた世界。浄土のこと。
煩悩具足…さまざまな煩悩をすべてそなえて生きていること。
生死…生にとらわれ、死を遠ざけている迷いの人生。
悪人成仏…罪悪の身を自覚し生きているものが、仏になること。
往生の正因…往生を遂げるための最も大切な自覚。
【聞く】
第三章は、一見突拍子もなく、「救い」の対象として、善人より悪人のほうが救われるという提言がなされています。仏教に詳しくない、浄土真宗全然わからないという人でも、この「悪人正機」の話は聞いたことがあるのではないでしょうか。私も高校の時、歴史の授業で習った覚えがあります。当時の私はこのことを聞いて、悪い人こそ救われるのなら、悪い事し放題で困った世の中になってしまうだろうなと考えたものです。仏教に関心がなく、親鸞聖人の思想、他力本願の意味も知らない人間にとっては、「悪人正機」ということだけを見ればそのように受け取ってしまうのも当然のことかと思います。そういう意味で、受け取り、取り扱いに注意の必要な章と言えます。
ご法話では、善人とはどういう人か、悪人とはどういう人なのかについて言及されておりました。つまり、善人とはわかったつもりの人(わかろうとしない人)、悪人とはわからない人(わからないことがわかった人)と言われ、その上で、世間的価値観から自分を見れば、全員善人で、全員善人であろうとする。仏さまから人間を見れば、全員悪人であると言われておりました。
高校時の私の捉えは正しく世間的価値観の上での捉えですね。悪い事をした人が、悪い人、悪人になる。しかし、その悪い事というのは誰が決めたのか?親が、友達が、先生が、法律が、周りがそう決め、教えるから善か悪かをイメージできるわけですが、あくまでそれは世間的価値観で判別しているにすぎません。だから、世間が移ろえば善悪の価値観も変動しますし、人もまた同じでしょう。本当のところは何もわからないけれど、時と場合によって善悪を判断し、わかったつもりでいる。ここに、全員悪人であるという仏の眼が言えるのだと思います。
親鸞聖人は人間を省察する上で、人間を善、悪によって定型化しておりません。
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし(『真宗聖典』六三四頁)
善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。(『真宗聖典』六四〇頁)
このように、人間の在り方は時、場所の条件、業縁(カルマ)によって善人にも悪人にもなり得る存在とみております。また、業縁の中を人間も含め、生物は生きているわけですが、人間存在は生物的な生命にとどまらず、人格的な生命、社会的な共同体を営みます。善悪の規範、規準によって共同体を生きているわけですから、その人を善か悪か判じることは全くできることではないのです。
夏目漱石が『こころ』という作品の中で、善い人間と悪い人間について、次のように述べているところがあります。
君は今、君の親戚なぞの中に、これといって、悪い人間はいないようだと云いましたね。然し、悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。だから油断ができないのです。(『こころ』夏目漱石 新潮文庫)
ドラマなど見ていても、家の当主を喪った、哀しい死を悼むお通夜の場面が、一転して翌朝には、遺産相続の醜い骨肉の争いになることがあります。その意味では、夏目漱石のいう「平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです」という了解は、親鸞聖人の「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という、人間存在の凝視と共通しているといえるでしょう。
そういった親鸞聖人の悪人理解をふまえた上で、この章は、「善人のほうが救われるのか、悪人のほうが救われるのか」ということが表にでておりますが、「往生」ということ、つまり本願を信じ、自分の悪(わからない)に目覚めた人こそ、往生の一道に立った人であるということが基本線になっていると了解できます。この短い章に、「往生」という言葉が5回、そして同義語といえる「成仏」「生死をはなれて」という内容が繰り返されている点にも留意すべきと思います。つまり、出家者(道)、在家者(俗)の区別なくすべての人が救われる地平、仏に成る道はどこにあるのかの教示であろうかと思います。
長く仏道は、聖道と称して純潔と自制を願いとした「戒」の論理にありました。その願いは純潔な理念でありましたが、生活の大地からは離れていました。山に籠って修行をするという修道院仏教の枠を出ることはできなかったのです。第三章に対応しているといわれる第十三章では、その問題を
持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきや(『真宗聖典』六三四頁)
と問いかけ、その修道院仏教から疎外されていた民衆の人々の名を挙げています。
うみやまに、あみをひき、つりをして、世をわたるもの(漁師)
野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがら(猟師)
あきないをもし(商人)
田畠をつくりてすぐるひと(農民)
そこには、日々の生活に明け暮れ、生きるためには殺生をなし、物を売り買いして生きなければならない、日常の人間業の救いこそを問題にしております。清浄の行を基準とする善、戒の論理からみれば除かれる人々です。この第三章の内容は、そういった「人間業によって悪(罪)を犯すものの救いはあり得るのか」ということを、通底して問いかけているのではないでしょうか。
10月28日(月)の御命日のつどいでは、『歎異抄』「第四章」をテーマに第17組淨福寺(新潟市西蒲区)の八田裕治氏よりお話頂きました。鋭意執筆中です!ではまた!
2019年12月9日
新年に向けて別院内がピカピカに!【煤払い報告】
年の暮れも迫り、だんだんと気温が下がって冬らしい気候になってきました。そんな中、12月7日(土)~8日(日)に、毎年恒例のおすすはらいが行われました。
今年は前日に雪が積もり、厳しい寒さになりましたが、多くの方々に参加していただきました。初日には、19組浄林寺ご住職の松澤孝然氏を講師に招いての法話、そして参加者の皆さんとの座談会を行い、その後の懇親会では翌日の奉仕研修に向けて鋭気を養いました。翌日は7時から本堂でお朝事にお参りし、極寒の本堂で冷え切った体を列座特製の具材たっぷり豚汁で温まって頂きました。
9時からの奉仕作業では、まず御本尊・宗祖御影煤払いの儀を執り行い、その後参加者で本堂⇒旧御堂⇒書院と清掃を行いました。毎年参加されている方を中心に、見事なチームワークであっという間に院内がピカピカになりました。
三条別院では12月31日夜の22時から旧御堂を開放しており、深夜零時から本堂で修正会の法要が勤まります。奉仕団の皆さんのおかげで綺麗になった厳かな堂内で年を越してみませんか?
2019年12月5日
真宗本廟(東本願寺)御正忌報恩講に団体参拝【報告】
毎年、別院で企画している本山御正忌報恩講団体参拝。今年も行って参りました。11月27日から29日の2泊3日。今年の参加人数は29名集まりました(内引率者2名、別院教化審議会会長渡邉智龍氏、列座廣河敦)。27日、まだ日の出ていない早朝から新潟を出発し、14時頃に御本山に到着しました。
そのまま結願逮夜法要を参拝しまして、バス移動で疲れた体を癒すため、宿に向かいました。
宿での夕食後は皆さんそれぞれが、ライトアップを見に行かれたり飲み屋さんを回ったりなど、夜の京都を満喫されていました。
翌日28日は朝8時過ぎに御本山に到着しました。ちょうど晨朝の法話が終わった後の人がはけるタイミングだったみたいで、最前列は無理でしたが中央よりも前よりでお参りさせていただきました。気温は10℃前後と低く、寒かったです。
御満座の法要に先立って、9時からは池田勇諦氏(同朋大学名誉教授)による祖徳讃嘆が行われたほか、2020年6月30日をもって退任される大谷暢顯門首より、本年の真宗本廟報恩講の御満座にあたっての挨拶がありました。
詳しくは上記の御本山ホームページをご参照ください。
10時からの結願日中の法要は、例年と変わらず御影堂に入りきれないほど多くの方々が参拝されていました。結願日中は、体を大きく前後に動かして念仏と和讃を繰り返す、真宗大谷派のみに伝わる声明「坂東曲(ばんどうぶし)」で勤まり、力強い念仏の声が堂内に響きわたりました。和讃には二通りあり、隔年で勤められております。一つは高僧和讃の「願力成就の報土には」六首、もう一つは正像末和讃の「濁世の有情をあわれみて」六首で、今年は高僧和讃で勤まりました。
また、去年の報告で述べましたが、団体参拝と合わせて出仕も募集しましたところ、ご応募ありまして、ご案内しました。引率は団体から離れられないので、出仕までの先導を、去年団体参拝に参加していただいた別院教化審議会委員の堀川秀道氏にお願いしました(今年は別団体でした)。結果、応募された方、無事に出仕させていただいたということで、バスの中で安堵されておりました。堀川さん、ありがとうございました。
お昼は五条坂にある「清水順正 おかべ家」にていただきました。
お昼の後はそのまま五条坂にて、お買い物をしていただきました。
その後、滋賀のホテルに移動し、疲れを癒しました。
最終日は、真宗十派の福井の越前四ヵ本山のうち、真宗三門徒派の専照寺さんを参拝しました。
その後、曹洞宗大本山永平寺さんに程近い、「ほっきょ荘」でお昼をいただきました。
永平寺さんの参道ということで、店舗の中や周りにはお土産屋さんが展開しておりました。食後はバスの出発時間までそれぞれ、お土産屋さんを見て回ったり、永平寺さんまでお参りをしたりなどしました。
その後、道中富山の「ますのすし源」(去年も寄りました!)に寄ってお土産を買うなどして、皆さんそれぞれ帰路につきました。
廣河、二度目の御正忌の団体参拝でしたが、現御門首の、御門首として最後の報恩講にお参りできたことは、大変有難い御縁であったと思います。お勤めも、それをうけてか例年に増して気合のこもったお勤めでありました。
また、来年は来年で、門首後継者の大谷暢裕氏が御門首となられて初めての報恩講がお勤まりになろうかと思います。またとない機会、来年もぜひお参りさせていただきたいなと思ったことでございました。
ご参加いただいた皆様、誠に有難うございました。来年もお待ちしております。
今回参加されなかったという方も、来年御縁あれば、ご参加いただければ幸いです。
2019年11月27日
三条別院たより・三条教区通信12月号をお届けします
『三条別院たより』12月号・『三条教区通信』第147号をどうぞご覧ください。
2019年11月26日
おすすはらい&除夜の鐘・修正会2019~2020のご案内
年の暮れも迫ってまいりました。1年のすすを払い、新しい年を迎える準備が始まります。すすはらいは、御本尊と親鸞聖人の真向の御影のおすすはらいをはじめとし、参加者の皆さんと、本堂や旧御堂など、すみずみまで掃除をします。除夜の鐘は昨年から夜の22時から旧御堂を開放しており、甘酒・ココア・大根煮を食べて待っていただけます。23時45分から第1打が始まり、深夜零時から本堂では修正会(しゅしょうえ)の法要が勤められます。どなたでもご参加いただけますので、ぜひ年末・年始を三条別院で過ごしてみてください。
【お詫び】
既に印刷して発送した「三条教区通信第147号、三条別院のご案内12月号」に誤りがありました。12月8日(日)に法話講師の記載がありましたが、当日は法話はありませんので、訂正をお願いいたします。