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三条別院|浄土真宗 真宗大谷派
三条別院|浄土真宗 真宗大谷派

最新情報
NEWS

2020年4月8日

講演会・お知らせ

新型コロナウイルス感染症への対応について(第2報 4/8更新)

新型コロナウイルス感染により
お亡くなりになった方々に哀悼の意を表しますとともに
発病され療養中の方々、そのご家族の方々に心よりのお見舞いと
一日も早いご回復を念じ申し上げます
また、緊迫した状況下で治療に尽力されている
関係各位に深く敬意を表させていただきます

2020 年3 月19 日 真宗大谷派(東本願寺)宗務総長 但馬 弘 メッセージ[抜粋]

 各種報道のとおり、新型コロナウイルス感染は、現在、世界的に深刻化し、日本並びに新潟県においても拡大が進んでいます。新潟県は、現在、全国47 都道府県の中9 番目に感染者の多い県となり、昨日、北海道を抜いて最多となった東京都では、都知事により「感染爆発の重大局面だ」として、強い危機感が表明されています。

 そのような中、三条教区・別院としましては、宗派の対応方針に基づき、継続して感染拡大を防止するため、次のとおり対応いたしますので、何卒ご理解とご協力をお願いいたします。なお、5 月以降の方針については、4 月末にあらためてお知らせします。また、この方針については状況に応じ随時変更する場合があります。
・ 研修等については原則中止(又は延期)とします。
・ 法要等については内勤め(職員によるお勤め)とします。
・ 諸会議については、やむを得ない場合を除いて原則中止(又は延期)とします。
・ 職員のマスク着用、手洗い・消毒等予防対策を徹底します。
・ 4月13日(月)から職員の出勤抑制を行います。(緊急事態宣言を受けて4月10日追加しました)

 
真宗大谷派(東本願寺)の新型コロナウイルス感染症の感染拡大に伴う対応についてはこちらをご覧ください。(2020/4/8更新版)
(2020/3/31修正版:「蓮如上人御影道中は中止となりました。」を「会所へのお立ち寄りは行わず、車両にて御影をお運びいたします。」に修正。)
(2020/4/8更新版:緊急事態宣言発出を受けて、行動計画の策定、職員の出勤抑制を追加。)
 
三条教区・三条別院の4月/5月の行事日程については『別院たより』『教区通信』4月号をご覧ください。

2020年4月7日

ブログ

新型コロナウイルス対策でマスクを自作。こんな私達でもできました!

新型コロナウイルス対策で、「業務時間中のマスクの着用、手洗い等予防対策の徹底」が本山から全宗務機関に指示がありました。マスク・消毒液等の備品を備えて事務所内の換気や消毒も徹底しています。また、密閉、密集、密接を避けるということで、事務所内の職員の数を制限して自宅待機する試みもはじまります。職員用のマスクの備蓄はある程度あるのですが、収束まで長期間となった場合に備え、布のマスクも必要になるかもしれないということで、三条市内の雑貨店BonBonのハンドメイドマスクが話題となっている(新型コロナウイルスで品薄に・・・マスクの作り方を伝授!【新潟・三条市】/NSTニュース)ので購入しに行きました…が、需要が多いために販売日を限定していると富川店長に言われ、「それほど難しくないので、自分たちで作ったらよいのでは」とアドバイスを受けました。

さっそく自宅待機の際などにできる作業として、団体参拝記念品のマイクロファイバークロス(ぜんギフト、念のため加工する許可はとりました)でマスクを作ってみました。衛生的に大丈夫であるのか否かという議論がありますので、普段は市販のマスクを使用したいと思っています。

市販のマスクがいかに優れているが実感できました。いつか完璧なマスクを作り上げ、門徒さんや有縁の方々がマスクがどうしても手に入らない場合は配れればなどと思います。

マスクが無くなってしまってどうしようもない場合はお声がけください。このたびの新型コロナウイルス感染症拡大で、マスク不足から「不安」が高まっているという一面があります。今回挑戦してみて、手作りマスクは難しそうですが、実際に小学校の家庭科で教わった裁縫のレベルでも、いざとなれば、自分で作ることができ、それによってある程度の安心感が得られるということが分かりました。そしてそれは「けっこう楽しい」という良い副作用もあるのです。貴重なことを三条の雑貨屋さんから教えていただきました!

黄色いマスクは1日目。紫色は2日目に作ったマスクでこちらは裏地をつけてみた。上は失敗し、下がそれを改良したもの。

上は裏地のつけ方を失敗してしまった。下は成功したが、縫いしろが狭すぎた。なかなか難しいが、だんだん上達していることがわかるだろうか。

追記:ケンオードットコムにも別院の職員の日常の取り組みを好意的に取り上げていただきました。

(斎木)

2020年4月3日

ブログ

【晨朝法話抜粋】コロナウイルス感染症にかかるのは鯨をみんなで捕るようなものだという『御文来意鈔』の譬え

当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。(『御文』4帖目9通)

新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、春彼岸をはじめとする諸法要は内勤め(職員のみでの勤行)とし、参詣は自粛していただいています。ちなみに、しんらん交流館のサイトでは、春彼岸会に出向予定であった中山善雄教学研究所研究員による法話「信心と大衆心理」の動画が配信されています。ぜひご覧ください。

さて、三条別院では平常の法要(毎朝の晨朝・おあさじ)は継続してお勤めをしており、数名の参詣者があります。参詣者には十分な距離をとっていただき、マスクの着用をお願いしています。毎日短い時間ではありますが、10分程度の法話を職員が行っております。本山でも動画の配信など、外出を控えている方への発信がはじまっておりますので、4月のはじめに行った法話の内容を試みに抄出したいと思います。斎木が担当した法話で、個人的な意見も含まれていますので、ご了承ください。

 

毎朝7時からの晨朝では、正信偈・和讃の後に、本願寺8代目の蓮如上人の御文を拝読する。御文とは蓮如上人が御門徒に記された「手紙」であるので、淡々とほとんど抑揚なく拝読するのであるが、「意味」を伝えなくてはならないので、「自分が『御文』を読み込んでその意味をまず頂かなければならない」と本山の泉堂衆が読法講習会の際に厳しく繰り返された。それを実践するために、私は試行錯誤して、石川県の地方仏教書店で出版している『御文来意鈔(ひらがな版)』を発見した。そこには江戸時代の学匠慧忍が『御文』がどのような経緯で、どのような場面で、誰のために書かれたのかという伝を豊富な固有名詞と共にまとめてあり、情景を思い浮かべるのに便利である。

このたびコロナウイルス感染症拡大で、蓮如上人が記された「疫癘(えきれい)の御文」について法話で取り上げられることも多く、本山の浄土真宗ドットインフォにて法話動画配信の試みで教学研究所の研究員がそれを主題に話をしていたが、①蓮如上人が78歳の春から夏にかけて疫病が流行した時に記された御文であること、②死者が多くでて宮中での祈祷が種々行われたこと、③疫病が鎮まるように元号が延徳から明応に変わったこと(タイムリー!)が『御文来意鈔』には具体的に記されており、法話では典拠は示されなかったが、この書を参考にしているようであり、手紙が書かれた状況は少しだけ述べられていた。しかし、肝心の内容については、「蓮如上人は疫病が原因で死ぬのではなく、死の原因は生まれたことであると明言した」ということに尽きるようであり、現在の切迫した状況に応えられているかは疑問である。動画配信の試みなので文字通り試行錯誤かもしれない。
実は『御文来意鈔』では、もっと面白い譬えで具体的な人々の悩みが描かれているのでそちらを紹介して、現代の状況に対して仏教徒として一言いえることを示したい。
ちなみに蓮如上人が生きた時代は室町時代であったことに留意して、「とんでもないこと」に聞こえるかもしれないが、少し耳を傾けてほしい。
さて、『御文来意鈔』によると蓮如上人に相談した人々は「非業の死(自分の「業」=「行い」に無関係におこる死)」を恐れていたという。疫病や地震や津波で大勢の人が同時に亡くなってしまうのをみると、「自業自得」とは到底思えない。自業自得でないということは、いくら善根を積んでいた(仏教を修行していた)としてもそれが報われず仏にはなれない。疫病で死んだ人は仏にはなれず、迷いの世界を繰り返すのだという悩みだったという。それに対し、蓮如上人は、疫病で死ぬことは「非業の死」ではないという。それは「みんなが集まって鯨をとるようなものだ」という譬えを用い、結局自分の行いの結果なのだという。これはどういう意味だ???
すこし解説すると、仏教では「殺生」は重い罪であるが、食べなければ生きられない。大きい鯨はそれだけ食料になるので、大勢で協力して捕獲して食べるという殺生を行う。そして、その場所にいた者はみんな同じ罪をもっている、ということである。拡大解釈すると、食べ物を待っていた母親や子どもも、同じ罪を分かち合い、あるいは傍観していた者も、止めなかったということで同罪であろう。それ故、その報いを受けて、疫病でみんなが亡くなるというということもあるのだという。
飛躍がありとんでもないことに聞こえるので、これを現代的にいうと、「食べるためであれ殺している限りにおいて、同じように何者かに殺されるという可能性はある」ということである。当然同種に限らず、我々が殺しているのは鯨であり、我々が殺されるのはウイルスによってかもしれない。殺生という連鎖を止めない限り、この循環は続く。
さて、もう少し現在の業況において応用可能にいうと、自分がどんなに虚心に気をつけていても、環境によって不可避的に感染してしまうというものがありうる(非業の感染?)。自宅待機でも不意に訪れた来客の飛沫により感染したり、自分の大切な人が熱を出して看病したり、あるいは危険な病院に連れて行かねばならなかったり、受けねば収入が断たれるような仕事があったり、義務教育だったり、大切な友人の結婚式であったり、行きつけのスナックから営業メールが来たり…という具合である。ちなみに私事であるが私の姉は東京の足立区の調剤薬局で薬剤師をしているので「地元経済のためにスナックに行かないと」と悩んでいる私とは雲泥の差である。
ここから学ぶこと。①私たちはこれを「自分のせいではない」という。蓮如上人は「果たしてそうだろうか」という。②またさらに「ウイルスをうつす限りにおいて、同じように何者かにウイルスをうつされる可能性はある」ということである。我々はこの連鎖をとめることができるのか。外ならぬ私自身の「欲」や「無関心」やあるいは「責任感」によってさえも感染が拡大していること。そしてその連鎖をとめるためにはウイルスをうつさないという徹底的な決意をすること。たとえ「常識」に反してでも、たとえなじられようとも、たとえ自身が感染しても…。
コロナウイルス感染症の拡大の中で、仏教徒たちの発言ははじまったばかりである。(斎木)

2020年3月29日

「『歎異抄』に聞く」を聞く

【御命日法話代替】『歎異抄』を江戸時代の講師、香月院深励(こうがついんじんれい)に聞く

新型コロナウイルス感染症のため、せっかくなので香月院深励(こうがついんじんれい)を読もう!

3月、4月は新型コロナウイルス感染症が収束の目途が立たず、宗祖御命日が内勤めとなり、法話は中止となってしまいました。毎月28日の親鸞聖人の月命日には宗祖御命日の集いとして本堂での勤行のあとで、『歎異抄』を1章ずつ、月ごとに講師を変えてお話しいただいております。5月以降の講師にはすでに、10章から担当箇所をしていて依頼しておりますので、毎月継続してお参りしていただいている方を主な対象として、『歎異抄』第8章と第9章は別院列座で講究して、その内容をここに記したいと思います。職員の自己研鑽も兼ねるということで、少々専門的な内容になりますが、せっかくなので本格的に江戸時代の講師の香月院深励の註釈を紐解いていくという試みを行いました。時代錯誤かもしれませんが、仏教には「時代に呑み込まれない」という良さもあると信じています。試みに3月は斎木が担当し、4月は廣河が担当します。本文を全員で拝読した後、担当者が香月院の註釈を読み、典拠を確認し、全員で講究するという流れです。
○日時:3月28日 宗祖御命日日中法要後 旧御堂にて『歎異抄』第8章講究
○担当:斎木
○出席 斎木・松浦・廣河・小原・関崎

【『歎異抄』本文】
一 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々
(『真宗聖典』629頁)

【講師について】

香月院深励 大谷派第七代講師。寛永2(1749)年~文化14(1817)年。越前の碧雲寺生まれ、永臨寺に入寺。高倉学寮で慧琳および随慧に学び、豊山の智道・仁和寺の龍山等について倶舎・唯識・華厳・天台等の余宗の教学を学んだ。寛永2(1790)年擬講に補せされ同5年嗣講に進み同6年講師となり、香月院と号した。時に46歳。『歎異抄』の講義は数回行われているが、代表的なものは享和元(1801)年越中富山の永福寺で一カ月かかって終了した講義。写本の一本が明治32年『歎異鈔講義』(京都護法館発行)の題名で刊行され、またべつの筆者本が『歎異鈔講林記』(『真宗大系』第23巻・第24巻)の名称で刊行されている。(曽我量深『歎異抄聴記』文庫版の解説参照)
今回は、三条教区教化センター所蔵の『真宗大系』本をテキストとして、講究を行った。

 

【『歎異抄』註釈】『歎異鈔講林記』下(『真宗大系』24巻、71頁)

テキストは片仮名表記であったが、平仮名表記に改め、文中の漢文は訓読し、句読点は適宜補った。

念仏は行者のために非行非善なり等。四に非行非善を明かす。此の一章は念仏は他力の行なることをあかす。これも「念仏勝徳を明かす」の中の一章にして即ち上の章と同じく念仏にまさるべき善なきがゆえにと云う処を成立する一段なり。非行非善と云ふは「信巻」に大信海を讃嘆する処に非行非善と云う言あり(1)。『六要』の釋首書に引くがごとし(2)。『六要』のこころは「信巻」の信心を明すゆへに信心にして行にあらず。信と行と相別る。故に信心にして行にあらず。又善根にあらずと解すといへども、これは『六要』の一義とすべし。信巻の御言は大信心海を讃嘆する言なり。信心は信にして行にあらずとは知れたることなり。何ぞ讃嘆と云ふにもあらず。たとへばあれは白きものなり黒きものにあらずといへばとてこれ讃嘆の言にあらず。或いは向を飛ぶは烏にして鳶にあらずと云ふはこれ体を指すに言にして讃嘆にあらず。今は此鈔を以て「信巻」を窺ふべし。信心と念仏とはかはりありといへども、他力迴向と云ふ処は同じことなり。
〇行者のために等。此の行者のためにといへる処肝要なり。念仏は行者のためには行にあらず善にあらずと云ふは行者の方より言へば非行非善なり。云何(いかん)となれば我がはからひにて我が造りたる善にあらず我が修したる行にあらず。故に非行非善といふなり。これで讃嘆の言になるなり。念仏は行なり善なりと云へども自力を以てこしらへてたてたる行にあらず善にあらず。如来廻向の他力の大行大善なり。常に云ふ念仏は不廻向と云ふと同じ。念仏に回向の義なきにあらず。「真実信心の称名は弥陀廻向の法なれば」(正像末和讃)等といへるごとく、念仏は弥陀の回向なるゆへに行者の方より廻向するにあらず。故に不廻向といふ。今亦爾(しか)り。念仏は他力の大行他力の大善大功徳にして凡夫自力の行自力の善にあらず。故に非行非善と云ふなり。ひとへに他力にしてとは他力回向の法にしてと云ふことなり。是れ即ち讃に「弥陀廻向の法なれば不廻向となづけてぞ自力の称念きらはるる」とのたまふがごとく、他力廻向にして自力を以てこしらへたるにあらず。故に行者のために非行非善と名く。此一章も亦、念仏功徳の勝れたるを述ぶ。これ他の善も要にあらず念仏にまさるべき善なきがゆえにと云う処を成立しをはる。

【香月院の註釈の典拠とその方法論】

香月院の註釈は『歎異抄』の語句は基本的には『教行信証』で典拠を確かめ、さらに『教行信証』の最古の註釈である存覚の『六要鈔』にて意味を確認するという文献学に基づいた方法をとっている。当然、その他にも語句の意味は大蔵経等により経典の原典にあたり註釈を行っている。

(1)『教行信証』信巻(『真宗聖典』236頁)

真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。このゆえに論主建めに「我一心」と言えり。また「如彼名義欲如実修行相応故」と言えり。
おおよそ大信海を案ずれば、貴賤・緇素を簡ばず、男女・老少を謂わず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず、行にあらず・善にあらず、頓にあらず・漸にあらず、定にあらず・散にあらず、正観にあらず・邪観にあらず、有念にあらず・無念にあらず、尋常にあらず・臨終にあらず、多念にあらず・一念にあらず、ただこれ不可思議・不可説・不可称の信楽なり。たとえば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬は、よく智愚の毒を滅するなり。
しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。また竪について、また二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。「竪超」・「竪出」は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横について、また二種あり。一つには横超、二つには横出なり。

(2)『六要鈔』第三(本)(『真宗聖教全書』2、291頁)

テキストは漢文表記であったが、書き下し、句読点は適宜補った。

「非行」等とは、問、称名念仏は既に是れ正行、又是大行なり。何ぞ「行に非ず」と云ふや。既に是れ勝善、又是大善也、何ぞ善に非ずと云ふや。
既に是れ頓教なり、何ぞ頓に非ずと云ふや。既に是れ散称なり、何ぞ散に非ずと云ふや。本より観念に非ず、何ぞ邪正を論ぜんや。既に所念あり、何ぞ有念に非ざらん。尋常・臨終共に修行の時なり、何ぞ皆非と云ふや。多念一念倶に往生を許す、何ぞ各非と云ふや。
答ふ。名号は大行大善たりといえども是れ所行の法なり。今は能信の心なり。

【大意と解釈】

香月院は、「非行非善」という言葉について、『教行信証』信巻の大信海の釈に典拠をみている。大信海について讃嘆の言葉が縷々述べられるがそこに「行にあらず、善にあらず」と出てくるのである。その註釈である『六要鈔』には念仏は大行ではあるのになぜ非行というのかという問いを出し、そこで「所行能信」という言葉をもって説明している。曽我量深の『歎異抄聴記』で複雑な議論がされており、文庫版の巻末の語中にも詳しいが、香月院の註釈を読むとそれほど複雑ではないように思われる。香月院は『六要鈔』のこころは「信巻」の信心を明すから信心であって行ではないという。「行者のために」という処が肝要であるといわれるのは、『歎異抄』とその典拠である『教行信証』の大信海を讃嘆する釈は、「信巻」であるので「能信」の立場で語られているといことである。「行ぜられる」(所行)として念仏をみる場合は、それに先立つ「行巻」のテーマになる。

もう少しかみくだくと「行巻」は念仏が如来の大行であることが説かれ、「信巻」はそれを受け取る我々が問題となっている。こう考えてみるとあくまで「我」の立場からしかものを見れないという所に厳密に立って「信巻」を別に立てたということになるのであろう。
我々が「信じる」(能信)から念仏を見る場合は「信巻」のテーマであり、讃嘆ということは、否定の言葉を重ねてしか表現できないとする。そして否定の言葉が「讃嘆の言葉になるのである」と香月院は言い切る。「行者の自力の不回向は如来の他力回向なのだ」として「信」と「行」をつないでいく。

【香月院の譬喩】

香月院の面白い譬喩があげられている。信心は行ではないが讃嘆であるというのだ。
「あれは白いものであり、黒いものではない」ということは讃嘆ではない。
「向こうを跳んでいるのは烏であり、鳶ではない」という言葉は体をあらわすことばで讃嘆ではない。この二つの譬喩は、どちらも肯定を表す言葉が先にあるが、それは体をあらわすことだけで、讃嘆にならないということではないだろうか。たとえば「こちらは仏であり、凡夫ではない」というのは讃嘆ではなく、体を表すだけであるという意味であろう。讃嘆とは「仏は世間でははかれない」という行者のものさしが否定されるということでしか表現できないのだ。するとその信心が讃嘆になり念仏につながる。なかなか難しいので講究が必要である。

【列座による講究】

○当然比叡山での20年にわたる修行と法然上人のもとで念仏にであったことをふまえて、念仏は行者のために非行非善といっているのであろう。

○讃嘆は五念門の讃嘆門であろう。

○香月院の比喩の白・黒は、『教行信証』の該当部分の直前に二河白道の譬喩があり、それを踏まえているのではないか。

○非行非善という語の典拠が『法号経』であり善導の著作に見せかけた『弥陀経義集』にあるという指摘が本願寺派の梯実円氏によりなされているという情報がある。

○『教行信証』の該当部分は大信海を讃嘆するのに否定の言葉を重ねているのは面白い。
また、和讃に「大心海」もでてくるが、我々からすると「大信海」、如来からすると「大心海」と使用が分けられているのではないか。

香月院の註釈スタイルにも慣れてきましたので、次回は第9章に臨みたいと思います…。倍以上分量があるが、果たして別院の列座たちは香月院の精緻な註釈についていけるのでしょうか。

2020年3月27日

別院だより・三条教区通信

三条別院たより・三条教区通信4月号をお届けします

『三条別院たより』4月号・『三条教区通信』第151号をどうぞご覧ください。

 

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