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三条別院|浄土真宗 真宗大谷派
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2019年4月9日

「『歎異抄』に聞く」を聞く

廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。-第十七章-

皆さま、नमस्ते(ナマステー)!

おっとすいません、ついインド訛りが…お約束ですね!廣河、無事インドより帰国しました。帰国して数日経ち、何故だかお腹ゆるゆるです!不思議だ…(汗)インドの報告記事はただいま鋭意執筆中ですが、「『歎異抄』に聞く。」も合わせて書いていたので、書きあがるのはもうしばらくかかりそうです(泣)楽しみにしてらっしゃる方がいましたら申し訳ございません!もう少しお待ちください。

さて、廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く、第10回目です。3月28日(木)に宗祖御命日日中法要が勤められました。その後の御命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回は三条教区佐渡組廣永寺(佐渡市相川羽田町)の大久保州氏に、『歎異抄』「第十七章」を主題にご法話頂きました。

大久保州氏。第九章ぶりです!今回も聞かせていただきました。

『歎異抄』第十七章

一 辺地の往生をとぐるひと、ついには地獄におつべしということ。この条、いずれの証文にみえそうろうぞや。学生だつるひとのなかに、いいいださるることにてそうろうなるこそ、あさましくそうらえ。経論聖教をば、いかようにみなされてそうろうやらん。信心かけたる行者は、本願をうたがうによりて、辺地に生じて、うたがいのつみをつぐのいてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うけたまわりそうらえ。信心の行者すくなきゆえに、化土におおくすすめいれられそうろうを、ついにむなしくなるべしとそうろうなるこそ、如来に虚妄をもうしつけまいらせられそうろうなれ。

【私訳】

辺地に生まれた人は、ついには地獄に堕ちるに違いないということについて。

この主張は、どのような経釈に根拠があるのだろうか。学者だといわれている人々の中から言い出されたそうだが、まったく歎かわしいことである。

経典や論釈などの聖教を、どのように考えているのだろうか。真実信心の欠けた念仏者は、阿弥陀の本願を疑うことによって、辺地に生まれ、疑いの罪を償った後、真実報土のさとりを開くのだと承っている。

真実信心の念仏者が少ないために、如来は人間が実感できるようなかたちで「浄土」への往生を多く勧められているのに、「化土(辺地)」へ往生することは無意味だなどと主張することは、如来に嘘言の罪を着せようとするおつもりなのか。

【語註】

辺地…念仏しながらも本願を疑い、自力をたのむ人の生まれるところ。

学生だつるひと…学生ぶるひと。

つぐのいて…つぐなって

化土…念仏しながら自力をはなれられない人の生まれるところ。真実報土に対して方便化土。

虚妄を~…うそいつわりを言われたようにしてしまうことになるのです。

第十七章は、「辺地に往生する人は、最後には地獄におちる」という主張を正すということに焦点があります。浄土教の救いの論理は、苦しみの多いこの「穢土(娑婆)」から楽の極まりない浄土へ往生し、そこでさとりを開いて仏になるのだと展開されますが、その途中というか、浄土のはずれには「辺地」というものが存在することも言われるのですね。娑婆か浄土かという二者択一の中間帯に、辺地を説く。もちろん辺地と言っても往生ですから浄土には違いないのですが、それは方便としての浄土なのです。「方便」と「真実」とは対の概念ですね。「方便」とは言葉であらわせられないものをあえて言葉や形であらわすという意味です。「たくみな手立て」というものが転じて、嘘も方便などという意味で使われるようになっていますね。阿弥陀如来の浄土は真実であり、どこかに実際にある場所ではなく、無形です。それに人間が触れることはできない。だけれども、それだと阿弥陀と人間との関係性、救いが成り立ちません。だから阿弥陀如来自身が、無形から有形に浄土を表現したものが「方便の浄土」であり、「辺地」なのです。

今回、大久保氏より第十七章の要旨をいただいておりますので、そちらをそのまま掲載致します。以下原文

 

「辺地の往生」(『歎異抄』第十七章より)

往生という以上は浄土という世界に生まれている。

ところが、浄土というものに無関心。浄土って何だ?って問題にしますか?

真宗の話を聞いているから、浄土とは?生まれる、生きる、生活すると往生が問題になるかもしれないが、日常感覚として浄土は問題になるでしょうか。

「辺地」

辺鄙な、中央からはなれた片ほとり

浄土の隅っこ。真実の浄土ではない。

「正信偈」では「報化二土正弁立」と言われるが、浄土を二つに分けたのではない。

浄土の片ほとりだから、浄土の中。本人は隅っこにいるにも関わらず、ここが真ん中だと思っている。

自分は今はこんなだけど、自分がいないとうまくいかないと思っている。

つまり、

自分のいる世界を疑ったことがない。

自分のいる世界を絶対だと思っている。

辺地とは、広い世界に触れたから、広い世界を経験した人の言葉

「懈慢界」

自分のいる世界は本当にいい世界だと自己満足している世界。そこから出ようという意欲がない。広い世界を求めて歩もうとしないから怠慢。不平を言っているわけじゃないから、周りから見ると悪くない。しかし、満足していることが実は怠慢だと。

「疑城」

自分のいる世界を疑っているのではなくて、もっと新鮮で展開し続け、歩み続けていくような世界、そんな世界があるのかと疑っている。

自分に誠実な者が、真実を疑う。真理を信用しない。自己を信頼する。

「胎宮」

母胎。三宝(仏・法・僧)を見聞しない。

信仰の名によって人を平気で裁く。それはもう信仰とは言えない。自己絶対化。

他の人が辺地・懈慢・疑城・胎宮にいるのではなくて、そこの住人は自分。

辺地懈慢界、それが地獄に堕ちると言うけれど、辺地懈慢界の浄土に生まれるのは地獄に堕ちるよりも怖いのだと。なぜか。地獄に行くと辛いから、たすけてくれということが契機になって出ることが出来る。だから下手な浄土に生まれると地獄よりも怖い。

以上原文

 

「下手な浄土に生まれると地獄よりも怖い」、特に印象的に私の中に残った言葉です。よく「わかったつもりが一番怖い」と言われることはあると思いますが、教えも同じではないでしょうか。自分がこれだ!と思ったことも、もしかしたら真実とは全く異なることかもしれないし、これは違うだろうと思ったことでも、実は真実かもしれない。私というフィルターを通している時点で、物事の本質、真実ということはぼやけてしまうのだと思います。それこそ、仏教というのは自我を超えてある教えなのですから、自我存在である私にわかろうはずもありません。

ではわかろうとする努力は必要ないのかといえば、そうではないでしょう。本物に出遇ったとき、真実に出遇ったときに、すれ違わないことがないように、わかろうとする努力は大事なことなのです。しかし、そこでわかった気になったり、仏教を自分の道具(仏教を盾に自分の意見を通そうとしたり、相手を貶めたり)にしてしまっては、それこそ辺地・懈慢・疑城・胎宮を生きている証拠ではないでしょうか。しかも、辺地・懈慢・疑城・胎宮を生きている自覚がなければ、辛い、助けてと救いを乞う縁すら生まれない。だから「地獄よりも怖い」と言えるのでしょう。

次回4月28日(日)の御命日のつどいでは、『歎異抄』「第十八章」をテーマに第17組真敬寺の藤田淳宏氏よりお話頂く予定です。どうぞお誘い合わせてお参りください。

2019年4月6日

ブログ

釈迦礼弁当2019報告

三条別院春彼岸会新名物プロジェクトも今年も2年目で、三条スパイス研究所による精進カレー「釈迦礼弁当」も、MAXの60食に達しました!

釈迦礼弁当2019 献立

①蕗の薹カレー(当日会場で温めて提供) 精進出汁、車麩入り ②茗荷ご飯 蕗味噌付き 昆布出汁、イエロームングダル入り ③おかず&甘味(10品) ・鬱金胡麻豆腐 ・菜花ニゲラお浸し ・雪下人参クミン ・春キャベツマリネ ・新じゃがコリアンダー&カスリメティ ・ナスとおからのスパイスピクルス ・さつま芋レモン煮 ◉蓮根饅頭とマサラ塩 お釈迦様の台座にも描かれている蓮の花から連想 (ブラックペッパー、コリアンダーパウダー、クミンパウダー、パプリカパウダー) ◉小倉羊羹 親鸞聖人が小豆が好物だったことになぞらえて。 (シナモン、クローブ、ブラックペッパー) ・八珍柿

◉は新メニュー。「春の訪れを待つ信心」をコンセプトに、食べれば食べるほど発見のあるお弁当となっています。

毎年旬の食材を見極めて更新していくという職人の仕事に感心します。

直前にカレーを温めるという心遣いが、まだ寒さの残る春彼岸会にはしみる。

フキノトウのカレーのおかわりに応じるスパイス研究所スタッフ。

見た目も美しい釈迦礼弁当。ミョウガご飯は、釈迦の十大弟子のシュリハンドクに由来するなど、由来を聞くことで楽しめる。

MAX60食に達したため、シェアして食べる列座たち。熾烈なおかずの奪い合いが行われている!

撮影係に徹する岩田シェフ。

花粉症ではなく、声のだしすぎである。なぜならば、春彼岸会は、三日間を通して法要があるからである。

人間にとって毎日三食ほとんど必ず食べなければいのちをつないでいくことのできない食の大切さを、以前朝の人生講座で関根正隆先生にお話しいただきましたが、法要におけるお斎(とき)を大切にしてきた伝統が浄土真宗にはあります。法要・法話で感じたことを、ともに食事の中で確かめていく営みです。釈迦礼弁当が、春彼岸会の新名物になってきました!

2019年3月22日

講演会・お知らせ

春季声明講習会のお知らせ

2019年4月22日(月)10時から春季声明講習会を開催いたします。

こちらは本山より堂衆を招いて行う講習会となっております。

 

皆様の日頃から疑問に思っていることをこの機会に聞いてみませんか?

春と秋の年2回しかない貴重な機会となっておりますので、皆さまのご参加お待ちしております。

 

2019年3月18日

講演会・お知らせ

三条別院春彼岸会と全戦争犠牲者追弔法会がはじまります!

今年は三条別院春彼岸会の最終日の午後、3月20日午後1時から全戦争犠牲者追弔法会が勤められます。お彼岸の法要に併せてぜひご参加ください。

◇日程 3月20日(水)

午後13:00~13:45 法要

午後14:00~16:15 法話

◇講師 矢野宏氏(しんぶんうずみ火代表、フリージャーナリスト)

◇趣旨

過去から現在にいたるまで全世界の戦争によるあらゆる犠牲者の痛みを偲び、未来に向かって非戦を誓うとともに平和と平等な国土を願う。

戦後50年を機にはじまり、今年で第24回となりました。

◇会場 三条別院本堂

こちらは春彼岸会の日程です。有縁の方々をお誘いあわせの上、是非ご参詣下さい。

◇期 日 3月18日(月)~20日(水)

◇日程および法話講師

18日(月)

午後1時30分より逮夜法要

法話 太宰不二夫 氏(大垣教区 真教寺)

19日(火)午前十時より永代経総経

法話  太宰 不二夫 氏

おとき(正午)

午後1時30分より逮夜法要

法話 ひき続き 太宰 不二夫 氏

20日(水)午前十時より日中法要

法話 藤田賢哉 氏(第19組玄證寺)

▲19日正午に、お斎を冥加金2000円にて、ご用意いたします。当日券も若干あります。今回のお斎は、三条スパイス研究所と協力して開発した「精進カレー」です!

 

2019年3月14日

「『歎異抄』に聞く」を聞く

【番外編】「『歎異抄』に聞く」を聞く。 林が森田輪番の法話を聞く【年頭会報告】

2月の末より廣河がインドへ勉学の旅の最中で不在につき、代わりに非常勤列座の林が書かせていただきます。

「『歎異抄』に聞く」というタイトルではありますが、この度は別の内容となります。

 

新年が明けて2か月が経ち、三条別院では2月28日(木)に年頭会が勤まりました。年の初めの法要ということで、お勤めの後に三条別院の輪番森田成美よりご法話頂きました。

内容

テーマは東日本大震災について

今から約9年前、2011年3月11日に東日本大震災がありました。それは地震だけではなく津波も起きる災害であり、その津波によって大多数の人が亡くなりました。亡くなる方だけではなく、家が無くなった方や福島原子力発電所の事故により家に住むことができなくなった方々避難者も大多数出ました。そのような大災害について森田輪番よりお話をいただきました。資料として、東日本大震災現地災害救援本部で働いていた木ノ下秀俊さんの<震災後の心のゆくえ「仏教の視点から」>(『月間同朋』2017年3月号)を引用されました。森田輪番は、震災が起きた時、まさに仙台教務所長(東北別院輪番)であり、現場で様々な対応の指揮をとっていました。

東日本大震災の当初、真宗大谷派仙台教区の仏教青年会はボランティアで動いていました。その時に何ができるか考え、3月というまだ冷える時期ということもあり暖を取るための灯油運びをしていたそうです。それから食料・飲料・毛布などがそろった後、お風呂に入りたいと言われてドラム缶でお風呂を沸かしたとのことでした。それは仏青お風呂プロジェクト(BOP)と名付けられました。お風呂についての批判もあったようで、「宗教者のやることか」「仏教者なら仏教者としてやるべきことがあるのではないか」「水を運ぶなら念仏を運べ」という声が上がったそうです。

 

「水を運ぶなら念仏を運べ」ということについて、念仏とは運ぶものではなく届くものである、と森田輪番は述べていました。運ぶと言ってしまうと、念仏を利することになってしまう。念仏とは、阿弥陀仏の本願が私に届いて言葉として出る事を言います。

また、『歎異抄』の聖道の慈悲・浄土の慈悲にもふれられました。この問題は、「『歎異抄』に聞く」で引き続き考えていきたいと思います。

次回、3月28日(木)の御命日のつどいでは、『歎異抄』第十七章について佐渡組廣永寺の大久保州氏よりお話しいただきます。

来月は帰国した廣河がこの場に戻ってまいりますので、いつもの【廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。】が再開となります。毎月楽しみにしてくださる皆様、来月をお楽しみに!!

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