どんな日も、どんな時代も、そばにある。

三条別院|浄土真宗 真宗大谷派
三条別院|浄土真宗 真宗大谷派

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2021年1月15日

三条別院に想う

本寺小路は今(第15組善性寺 福田 学 氏)

▲新潟県では11月に2度目の発令をしていた新型コロナウイルス感染症の「注意報」を1段階引き上げ、12月17日に警報を出しました。県民へは①県外の感染拡大地域との不要不急の往来は控える、②遠方にいる親戚も含めて日ごろ会わない人との飲み会や食事会は控える、③忘年会や新年会、初詣の際の感染防止策の徹底――の3つを求められました。三条別院の参道である本寺小路は県内有数の飲食店街であり、本来であれば忘年会・新年会シーズンで活気づく時期ですが、ようやく人が戻り始めてきた矢先に、三条でも少しづつ感染者が増えてきていますので、突然キャンセルになるケースも多いそうです。今回は三条市東裏館善性寺住職の福田学氏に本寺小路の現在をお聞きしました。


「コロナ禍」の1年が過ぎようとしている。別院職員から「コロナ禍の本寺小路の現状」について書いてほしいと依頼された。なんで俺?と思ったが、やっぱり俺かと思い返した。それ程「本寺小路」に愛着がある。

振り返れば35年前、縁あって今の寺にいきなり住職として入寺した。三条のことなど全く分からず、教師資格は持っていたが教学・儀式作法も覚束ず、親しい友人・知人も居ない中で、幸いにも別院がすぐそばにあったことで学習する機会があり、学生時代の友人・先輩・後輩に再会し、仏青で新たな仲間に出遇い、学習会や会議が終われば自然と「本寺小路」に足が向くようになった。以来35年足繁く通っている。

「本寺小路」の歴史は三条別院が1690(元禄3)年に創立されて以来からの歴史で、持ちつ持たれつの関係で発展してきたのではないかと思う。1995年に発生した「阪神・淡路大震災」後の三条教区仏青の支援活動の一環で「田んぼアート」を企画した時に、一緒に汗を流して手伝ってくれたある店の女の子たちが居たことは、別院との繋がりが今でもあるということを物語っている。もっともそれだけの金を使ってのことだが。酒が入り、女の子が傍に居れば堅い話(仏法?)も柔らかくなり、本性も出てくる。そんな自分を見せてくれる大事な場所である。

「コロナ禍」以前から、「本寺小路」の人出は減少し、活気も無くなったように思う。「コロナ」がそれに拍車をかけて存続も危ういかもしれない。活気がないと言えば、別院はじめ各寺の「報恩講」も活気を失って危うい。自称「本寺小路活性化委員」としては、「本寺小路の灯を消すな!」の活力を「報恩講」再生の活力にもしたいものだと思ってる。こじつけ過ぎか?今日も「本寺小路」に行って考えてみよう!

福田 学 氏(第15組 善性寺)

2020年12月23日21時の本寺小路。ほとんどの店の看板に電気が灯る


○次回の「三条別院に想う」は、

高橋 隆 氏(第16組専養寺門徒 三条別院有志の会庭講)

よりご執筆いただきます。

【次回は特別編⑩コロナウイルスと帰敬式】
▲高橋さんは2020年に三条別院で推進員教習を受講しました。上山研修は中止、お取り越し報恩講の帰敬式は中止となる中、現在の心境等をお話しいただきます。

2021年1月7日

別院だより・三条教区通信

三条別院たより・三条教区通信1月号をお届けします

『三条別院たより』1月号・『三条教区通信』第160号をどうぞご覧ください。

なお、2021年1月の発行時点で寺院教会にお送りし、こちらに掲載しました『教区通信』第160号の「研修会のご案内」中、教学研究会の開催要項について、誤って昨年の内容を掲載していました。お詫びして訂正いたします。

2020年12月31日

「『歎異抄』に聞く」を聞く

廣河に代わり小原が「『歎異抄』に聞く」を聞く-「第十六章」-

あれ?なんかタイトルが違うぞ?そう思った皆さん、ご安心ください。

10月より再開したご命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに序文から順にご法話をいただいています。いつもなら廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞いておりますが、今回廣河が法務のため不在でしたので、代わりに私、小原が「『歎異抄』に聞く」を聞いてまいりました。今回は勝廣寺(佐渡市両津湊)の濱松 智弘 氏に、『歎異抄』「第十六章」を主題にご法話頂きました。

勝廣寺(佐渡市両津湊)濱松 智弘 氏

【『歎異抄』「第十六章」本文】

一 信心の行者、自然に、はらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶にもあいて口論をもしては、かならず回心すべしということ。

この条、断悪修善のここちか。一向専修のひとにおいては、回心ということ、ただひとたびあるべし。

その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまわりて、日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、回心とはもうしそうらえ。

一切の事に、あしたゆうべに回心して、往生をとげそうろうべくは、ひとのいのちは、いずるいき、いるいきをまたずしておわることなれば、回心もせず、柔和忍辱のおもいにも住せざらんさきにいのちつきば、摂取不捨の誓願は、むなしくならせおわしますべきにや。

くちには願力をたのみたてまつるといいて、こころには、さこそ悪人をたすけんという願、不思議にましますというとも、さすがよからんものをこそ、たすけたまわんずれとおもうほどに、願力をうたがい、他力をたのみまいらするこころかけて、辺地の生をうけんこと、もっともなげきおもいたまうべきことなり。

信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。

わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。

すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。

しかれば念仏ももうされそうろう。これ自然なり。わがはからわざるを、自然ともうすなり。これすなわち他力にてまします。しかるを、自然ということの別にあるように、われものしりがおにいうひとのそうろうよし、うけたまわる。あさましくそうろうなり。

【『歎異抄』「第十六章」現代語訳】

本願を信じて生活しているひとが、思わず腹を立てたり、悪い行いをしたり、あるいは仲間と口論などをしたときには、かならず回心すべきであると発言することについて。

この主張は、悪を断ち切り、善を行って浄土に生まれようとする心境から出てきたものであろうか。ひたすら念仏のみに生きるひとにおいて、回心ということは、生涯に二度とない出来事なのである。

回心とは、つね日ごろ、本願他力である真実の教えを知らない人が、阿弥陀の知恵をいただいて、いままでいだいてきたこころでは浄土へ往生できないと思い知らされ、この自力のこころをひるがえして、本願に全身をまかせることである。それをこそ、「回心」というのである。

もし、すべての出来事に対して、そのたびごとに回心して、往生を遂げるというのであれば、ひとのいのちは、吐く息が吸う息を待つことなしに終わるものだから、回心もしないで、穏やかで受容的なこころになる前に、いのちが終わってしまえば、阿弥陀如来のおさめとって捨てないという誓いは、無意味になってしまうのであろうか。

口には、「人間の思いを超えた阿弥陀の本願力にすべてを任せます」といいながら、こころの奥底では「悪人を助ける本願がいかに不思議であるとはいっても、やはり善人をこそたすけるのだろう」と思い込んでしまう。そのひとは本願力を疑い、他力をたのむこころが欠けているので、辺地に生まれることになる。これこそ、もっともなげかわしいことだと思わなければならない。

ひとたび信心を獲得したならば、浄土への往生は、ひとえに阿弥陀如来のはたらきで決まることであるから、人間の側の是非・善悪が関わることではない。

自分はどれほど悪い存在だと思えても、いよいよ阿弥陀の本願力を仰ぐならば、おのずから穏やかで受容的なこころも生まれてくることだろう。

いついかなるときでも、弥陀の浄土へ往生するについては、こざかしい思いをまじえず、ただほれぼれと、阿弥陀如来のご恩の深いことを、いつも思いだすべきである。

そうすれば、おのずから念仏も称えられることだろう。これは、「自然」である。人間の作為や打算をまじえない、本願力のおのずからなるはたらきであるから、「自然」というのである。これを「他力」という。それなのに「自然」が、本願力のはたらきの他にあると、物知り顔でいうひとがいると聞いている。まったくなげかわしいことである。

【聞く】

第十六章は、「回心」に焦点が置かれています。「回心」とは、それまでの世界観や人生観が大きく変わる「こころのひるがえり」のことをいいます。つまり、「念仏もうさんと思い立つ」こころが起こることだと濱松先生は仰いました。「日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて」とありますが、私たちの日頃のこころとは、善悪、分別、自我の眼で物事を見るということです。しかし、そのようなこころはどうしても行き詰まっていってしまいます。そのときはじめて、「回心」という体験が起こるということがあるそうです。そしてそれは、ムカついたり、悪いことをしたりするたびに「回心」する、しなければならない、というのではなく、どうしても行き詰まったときに「自然」と「回心」は起こるといいます。濱松先生は「回心」は自己反省のようなものだと仰いました。(※赤字の部分について濱松先生からご指摘がありました。詳細は後半に追記を掲載しています。この章は腹を立てたり、口論したりということを否定してはいません。阿弥陀如来の本願は罪悪深重の凡夫を救うと言ってますからね。しかし、悪いことをしたら反省しなさいよ、とも言っているわけです。私自身も日常生活ではムカついたりケンカしたりはあります。そして冷静になって「悪いことを言ったなぁ」とおもい、謝るということは多々あります。主に妻に。

唯円「断悪修善のここちか」

私  「えぇ!?」

唯円は、断悪修善という考えにとらわれて間違っているのだと言っているのです。「断悪修善」つまり悪いことを断って良いことを修める、これはどんな宗教にもよらず、人間に普遍的に備わっている考えではないでしょうか。しかし、そのようにしようと思っても、清らかに生きるという理想と「こんなはずじゃなかった」という現実に乖離していく。理想の自分と正反対の「汚れっちまった」今を生きている。こうあるべきだという自分の理想、日ごろのこころを手放したとき、往生が定まっていく、それはこうしなきゃいけないというのではなく自然とそうなっていくんだよ。唯円さん、こういうことでしょうか!?

次回の「『歎異抄』に聞く」は第十七章をテーマに第13組專行寺御住職の木村邦和先生よりお話し頂きます。そして次回からは廣河が戻ってきます!乞うご期待です!

 

【追記2021/1/15】

年明けに講師の濱松先生より、記事の内容について一点訂正をお願いしたいとのお手紙をいただきました。その一点とは、「濱松先生は「回心」は自己反省のようなものだと仰いました」というところです。

回心は人生を貫くただ一度の転換、すなわち本願のはたらきにより凡夫が念仏申す身と転ぜられることです。なので回心は自分で起こす転換でもないし、単なる自己反省でもありません。そこを唯円は「回心ということ、ただひとたびあるべし」と正しているのです。

濱松先生は「回心とは別の問題として、日常生活でのあやまちに対する自己反省」と仰ったところを、私小原が誤解してしまいました。申し訳ありません。濱松先生としては、自己反省などでは間に合わなくなったところ(自力無功)に信仰の問題(回心の問題)があらわれてくると言いたかったということでした。

たしかに、もし回心が自己反省なら自力で回心してしまうことになってしまいます。そのような自力では及ばないところに気づいたとき、はじめて本願によって念仏を申す身になっていくことなのでは、と感じました。

2020年12月28日

講演会・お知らせ

2020年三条別院お取り越し報恩講法話(動画)

2020年11月5日から8日に、三条別院お取り越し報恩講がお勤まりになりました。
こちらの動画は11月7日の結願逮夜前に、富沢慶栄氏(三条教区第21組 超願寺住職)にお話いただいたものです。是非ご覧ください。

2020年12月15日

講演会・お知らせ

御煤払い奉仕団・除夜の鐘・修正会のご案内
(12/28更新)

三条別院御煤払い奉仕団・除夜の鐘・修正会のお知らせです。

2020年12月28日更新

一般参詣者の除夜の鐘

中止のお知らせ

新潟県より新型ウイルスの警報が出され、三条市内で感染症患者が増加しています。皆様の健康を最優先し、一般参詣者が除夜の鐘を撞くことを中止します。別院輪番・淨圓寺御住職様・列座と関係者で、いつもより強めに梵鐘の音を街に響かせます。修正会は深夜零時から本堂にて勤まりますので、密を避けながらお参りください。

収束の目処が立たない新型ウイルスで不安な日々をお過ごしの方、いつでも三条別院にお立ち寄りください。三条別院は365日、毎日皆さんをお待ちしています。


御煤払い

○12月20日(日)午前9時から12時
○法話講師:第15組 正楽寺 斎藤 研 氏
○12月17日(木)までに出欠をお知らせください。
○当日参加も可能です(500円)。

除夜の鐘

12月31日(木)
午後11時45分第一打
午後11時30分受付開始

毎年甘酒・ココア・大根煮の振る舞いをさせていただいていましたが、今年は感染症対策のため、缶をお配りさせていただきます。

修正会

○1月1日(金)午前0時厳修
○法要後、輪番より新年の挨拶がございます。

シュトーレン

★除夜の鐘×すす払い×むさしや(三条市本町)

人気菓子シュトーレン。ドイツ発祥のイースト菓子で、ドイツやフランスでは冬が始まると売られ始め、薄くスライスし、徐々に味の変化を楽しみます。フランスで修行した職人のシュトーレンの別院行事宣伝バージョンを店頭で500円で発売しています。

年越しそば

★除夜の鐘×今泉(三条市居島)

除夜の鐘の整理券を「今泉(そば)」に持参すると、500円で年越しそばが食べられるなど、特別サービスが受けられます。

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