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三条教区・三条別院 | 浄土真宗 真宗大谷派
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「『歎異抄』に聞く」を聞く ブログ

廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く -「第七章」-

久々に記事を書きました。廣河です。新型コロナウィルスの話題が嫌でも耳に入ってきますが…冷静な行動をしたいものです。色々あり代わりに『歎異抄』に聞く、聞いてもらっていましたが、今回は無事聞くことができました。廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く、第19回目です。1月28日(火)に宗祖御命日日中法要が勤められました。その後の御命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回はなななんと!三条別院職員、列座の小原暁に、『歎異抄』「第七章」を主題にご法話頂きました。

子煩悩列座、小原暁。このとき、何故だか変な汗が止まらなかったそうです。

『歎異抄』第七章
【本文】

一 念仏者は無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々
【意訳】

念仏者は、何ものにも妨げられることのない、ひとすじの大道を歩むものである。その理由は、他力の信心をいただいて念仏申す者には、天の神・地の神も敬い平伏し、人間の生き方を妨げ悩ますものや、本願力によらないで救済されると考えるすべての思想も妨げとなることがない。また、自分の犯してきた過去の行いについて、善悪の報いに振り回されることがなく、他力の念仏以外のあらゆる行いも阿弥陀如来の大悲のはたらきには及ばないのであるから、無碍の一道なのであると、親鸞聖人は仰せになりました。

【語註】

天神地祇…天の神、地の神。すべての神々。

魔界…人間の生き方をさまたげ悩ますもの。

外道…仏教以外の教え。ここでは本願力のよらないで救済されると考えるすべての思想。

障碍…さわり、さまたげ。

業報…過去の行為によって受ける善悪の報い。

感ずる…過去の行為の報いが現れること。

諸善…往生、成仏のためのもろもろの善行。ここでは、他力の念仏以外のあらゆる作善。

【聞く】

『歎異抄』第七章は、我々人間の人生の歩みを脅かし、不安に満ちたものとする様々な「碍り(さわり)」について書かれています。それは、罪悪を犯せばその業報を怖れ、よい行いをすればそれに固執してやまない、人間の内にある暗い心であり、また天神地祇・魔界外道という、我々の外にあって我々を縛り脅かすものへの怖れです。しかしながら、念仏者の歩みは、内外にあって自分を縛る暗い碍りにさまたげられないものであることを顕して、「念仏者は無碍の一道なり」と、端的に力強く書かれています。

小原氏は第七章について、御自身の今の生活や、三条真宗学院生時代のときにであった人や言葉を振り返りながらお話されました。

まず、無碍とは何かというところを取り上げ、障害がないこと、邪魔するものがないことを言われた上で、その反対は有碍(うげ)であるとして、事前の告知のあったホームページの記事の言葉を借りれば翻弄であるとしました。

いわく、①妻子に翻弄される、②お寺に翻弄される、③ローンに翻弄される云々…、中々思うようには行かない日々、無碍の一道とはいえない日常だそうです。こんな私でも、無碍の一道を歩めるのだろうか…。

そこで小原氏は、『教行信証』「行巻」の言葉を引用されました。

「無碍」は、いわく、生死すなわちこれ涅槃なりと知るなり。(『真宗聖典』一九四頁)

この言葉は『華厳経』の言葉を親鸞聖人が引かれたものですが、ここに、さわりがない(無碍)というのは、生死(迷い)がそのまま覚りだとしることだ、と言われております。ちなみに「生死」というのは「しょうじ」と読み、元々は仏教語です。お釈迦様の時代のインドの言葉、サンスクリットの「サンサーラ」の訳語です。これは「輪廻」とも訳されますが、「死んでは生まれ変わること」を意味しています。そこから換言され、苦しみの人生を繰り返していく「迷い」の在り方として表現されます。また、『華厳経』の言葉と同じような表現であるとして、「正信偈」の「不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり)」の言葉も引かれました。

迷いが覚りである、煩悩を断たずして涅槃を得る、と言われても、中々信じられないのが我々。念仏すれば救われる(念仏往生)と言われても、そんな簡単で単純なことで、本当に救われるのかと、かえって疑いの目をむけてしまうのが我々です。ではどうしたらいいのか。

小原氏は、信じること、念仏がわからんというときはどうすればいいのかと提起した上で真宗学院で恩師の話された言葉を教えてくれました。

「わからないことをごまかさないで、念仏すれば往生するっていうことは何なのか、問いとして問うていく」

ごまかさない、ということが、いかにできていないか。我々は、お念仏に、阿弥陀さまに、ごまかさずに向き合っていると言えるでしょうか。日々の生活に埋没して、忘れていないでしょうか、目を背けていないでしょうか…それを問い続けること、聞き続けることの大切さを氏は述べます。

また、小原氏が大谷派教師資格の取得のために行われる修練を受けているときに、スタッフが話された言葉も言われました。

「問いは世界を開く 答えは世界を閉ざす」

私たちは、問いがあると問い続けるけれども、答えを知るとそこで歩みをやめてしまう。まずは、念仏がわからないのであれば、わからない自分があることを自覚し、ごまかさずに問い続けることを、重ねて言われました。

さらに、浄土真宗の僧侶である安田理深氏の言葉も二つ、教えてもらいました。

「道があるだけでは、信心は不完全である。道を得た人がある、ということを信ずるのが信仰の核である。人が道を具体化する。」

道があるだけでは歩もうという気にはならない。自分が何故そこを歩みたいのか、認識するために、そこを歩いてきた人の存在を感じなければ、道を歩むことの意義がわからなくなる、と小原氏は述べます。そして、自分たちより先に無碍の一道を歩まれた、親鸞聖人や、安田理深氏、そういった人たちの教えを聞いて、問いを持ち続けることが歩みとなると言われます。

またもう一つ。

「もっともっと悩まねばなりません。人類の様々な問題が私たちに圧しかかってきているのです。安っぽい喜びと安心にひたるような信仰に逃避していることはできません。むしろそういう安っぽい信仰を打ち破っていくのが浄土真宗です。」

小原氏は、安っぽい喜びと安心にひたるような信仰とは何かを問いかけ、今回の章にある「魔界外道」に連関させ、人の生活をある時は勇気づけ、ある時は悩ませ惑わすものへの信仰を話されました。つまり、普段の生活の中で、例えば天気予報の最後の血液型占いが気になってしまったり、例えば厄除けの祈願(無病息災、家内安全など)をしたり、加持祈禱、占いに一喜一憂などなど…。それらは信仰といっても、時と場合、人によって受け取り方は変わってきますから、無常であり、真実でないのです。そういった、「魔界外道」ということを打ち破っていくことが浄土真宗であり、無碍の一道を歩む人の志願ではないかと言われ、締めくくられました。

 

多くの御参詣。駐在の髙田さん他、小原さんの勇姿を見に真宗学院卒業生も拝聴に。

2月28日(金)の御命日のつどいでは、年頭会が勤まりました。詳細は改めて新しい記事で報告します。

また、3月28日(土)の御命日のつどいでは、佐渡組淨願寺(佐渡市片野尾)住職の藤岡正典氏に『歎異抄』第八章についてお話いただく予定でしたが、新型コロナウィルスの感染拡大に伴う対応として、法話は中止とさせていただきました。当日は御命日日中法要を職員のみでお勤め(内勤め)させていただきます。

4月28日(火)の御命日のつどいは開催予定です。第18組永傳寺住職の本多智之氏に、『歎異抄』第九章を主題にお話いただきます。どうぞお誘い合わせの上、ご参詣ください。

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