2019年12月31日
2020年、今年の一言「大悲無倦」
除夜の鐘整理券をお受け取りの皆さま、悪天候の中三条別院にお参りいただきありがとうございます。2019年はいろいろとお世話になりました。2020年もどうぞよろしくお願いします。さて、今年の一言は「大悲無倦(だいひむけん」です。大悲とは阿弥陀如来の慈悲。「無倦」とはものうきことなくということです。正信偈には「常照我」と続きます。さっそく語句を解説しましょう。
【大意】
「我もまたかの摂取の中に在れども、煩悩の眼障えられて見たてまつらずといえども、大悲倦(ものう)きこと無くして、常に我が身を照らしたもう」この言葉は親鸞聖人の「正信偈」に引用される源信僧都の言葉です。意味は「真実信心を得る人は身は娑婆にあるが、かの摂取の光明の中にいる。煩悩が眼をおおって、見ることはできないが、阿弥陀仏はそんな私たちを見捨てることなく智慧と慈悲によって照らし続けている」ということです。
【解説】
まず、阿弥陀仏の智慧と慈悲によって照らされている「我」の内容を確かめたいと思います。仏教の根本の教えとして、人間は「我(私中心の見方、考え方、生き方)」によって「苦しむ」ということがあります。しかし、戦後70年を経て便利になった現在の私たちの多くは、衣食住にも満たされ、「苦しむ」ということが分からなくなりつつあり、それと同時に本来迷いであるはずの「我」というものが「個人の尊重」などという形でかえって尊ばれているように見えます。しかし、仏教は思想ではなく真実を教えています。むしろ真実でないものは仏教ではなく思想です。「我」というものは貫くことはできない、むしろ必ず折れるということが真実です。仏さまは「我というものは必ず折れるぞ、折れたっていいのだ」と先んじて願っています。私たちの努力が挫折した時、私たちはある時は絶望しますが、努力は挫折するものなのだという優しい視線で仏さまは受けとめてくれています。そんなことに気がつかずに、私たちは我を張り続けています。しかしいつでも、先んじて仏さまは願っているのです。挫折した先には思ったよりも広い世界が開けています。(解説:斎木)