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三条別院|浄土真宗 真宗大谷派
三条別院|浄土真宗 真宗大谷派

「『歎異抄』に聞く」を聞く

廣河に代わり小原が「『歎異抄』に聞く」を聞く-「第六章」-

12月28日(土)、三条別院では宗祖御命日日中法要が勤まりました。

その後の御命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに、序文から順にご法話を頂いています。

今回は三条教区第11組長福寺(新潟県長岡市)の北島栄誠氏に、『歎異抄』「第六章」を主題にご法話頂きました。

タイトルをご覧になってお気づきの通り、今回は廣河が法務の為不在だったので、代わりに小原が「『歎異抄』に聞く」を聞いてまいりました。

長福寺、北島栄誠氏。教区内の教化委員や三条別院の報恩講実行委員に携われるなど、多岐にわたって活躍されております。

『歎異抄』「第六章」原文

-専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細なり。

親鸞は弟子一人ももたずそうろう。そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。

つぐべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいうこと、不可説なり。如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。かえすがえすもあるべからざることなり。

自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々

現代語訳

本願他力の念仏を信奉する人びとの中で、自分の弟子だ、ひとの弟子だという争いがあるのは、もってのほかのことである。

私(親鸞)は、弟子を一人ももたない。というのは、私の工夫や努力で、ひとの「本願を信ずるこころ」を起こさせることができるならば、自分の弟子であるということもできるであろう。しかし、本願力のはたらきに促されて、本願を信ずることができたひとを、自分の弟子であるということは、とんでもないこころえ違いである。

出会うべき縁があればともに歩み、別れるべき縁があれば、別れていくこともある。そうであるのに、師に背いて、他のひとつについて念仏の教えを受けるのであれば、本願の救いを得られないなどということは、まったくの見当違いである。無限大悲に育てられ目覚めたこころを、個人的な所有物でもあるかのように、取り返そうとでもいうのであろうか。どう考えても、断じてあってはならないことである。

人間のはからいを超えた、如来の本願の大いなるはたらきとひとつになるならば、如来の恩を知ることができ、また師の恩をも頷くことができるのである。

 

【聞く】

北島氏は、第6章の文をご自身の今の生活に照らし合わせてお話しされました。今のお寺に入って今年で10年目だそうで、お寺のご門徒さんから「いい寺になった」と言われるそうです。(当日もお寺ではご門徒さんを中心に餅つきが行われていました。)しかし、年間一件ほど「檀家を辞めたい」と言ってくるご門徒さんがいるそうです。「こっちは頑張ってやっているのに」と思っても、引き止めようにもその方は覚悟を持って来るので引き止められないと言います。

そのことが、冒頭の「わが弟子ひとの弟子」という一文に通じるところがあるといいます。人間にはどうしても我執(自分のモノという執着)があるから、「私の弟子」という所有の意識は拭えません。親鸞は、人間関係は徹底して縁が織りなすという認識があります。そのことが、原文にある「つぐべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも」に表れているのだと思います。

仏法を聞く、仏法に遇うことはお手次寺に限らずどこでもできます。(三条別院には直参門徒はいませんが御命日のつどい、定例法話等に沢山の方が来られます。)ご門徒さんを自分のモノと執着せず、本当に仏の教えに遇って欲しいということを「わが弟子ひとの弟子…」という一文に教えられたそうです。かくいう私も「門徒(檀家)がいなければやっていけない、辞めたいなんてとんでもない」と思いましたが、話を聞いて私自身気付かなかった私の中の我執が照らし出された、そんな風に思いました。

続いて、原文中の「弟子一人ももたず」について、親鸞聖人はご自身も弟子であるということを表現しているのではないかということでした。では誰の弟子かというと、仏の弟子(仏弟子)なのです。私たち真宗門徒は仏法を聞く名告りとして「法名」を授かります。よく似たものに「戒名」があります。「戒名」は五戒(殺生しない、盗まない、嘘をつかない、お酒を飲まない、イチャイチャしない)という戒律を守っていくという名告りなのですが、それに対して、その戒律を守れない、愚かな人間であるという自覚をもって名告るのが「法名」です。そういう生き方の中で、お釈迦さまから「釈」の字を一字いただいて仏弟子の名告りとするのです。上記の五戒を守ることができる、と言い切れる人というのはそういないはずです。私たちは「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と『歎異抄』13章にあるように、縁があれば何でもしてしまう、それこそ縁があれば人殺ししてしまう可能性のある、「約束の守れない」私たちが救われていく道として、仏法を聞き、念仏もうす名告りとして法名をいただくわけです。私も法名をいただいてますが、自分が愚かな人間であるという自覚があるのか、仏法を聴聞し念仏もうす生活をしているのか、あらためて考えさせられる機会になりました。

さて、次回の「『歎異抄』聞く」第7章ですが…なんと、私小原が話させていただくことになりました(!?)私なんかで大丈夫なのか…不安はありますが、これも仏法を聴聞するいいご縁と思って頑張ります!

 

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