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三条別院|浄土真宗 真宗大谷派
三条別院|浄土真宗 真宗大谷派

「『歎異抄』に聞く」を聞く

廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。-第十八章-

自身の怠惰と事務に忙殺され、更新が遅くなりました💦お許しください。

5月に入り、新緑のさわやかな時期になったのもつかの間、連日夏を先取りしたような暑さ…北海道では39℃超!?あ…あ”つ”い”…。皆さんいかがお過ごしでしょうか。廣河は早くも夏バテ気味で、らーめん京さん(別院近隣の中華屋さん)が冷やし中華、年中提供で良かった!と麺を噛みしめています。不安定な気温、皆さんも体調にお気をつけて…。

さて、廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く、第11回目です。4月28日(日)に宗祖御命日日中法要が勤められました。その後の御命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回は三条教区17組真敬寺(新潟市西区坂井)の藤田淳宏氏に、『歎異抄』「第十八章」を主題にご法話頂きました。

『歎異抄』第十八章

一 仏法のかたに、施入物の多少にしたがいて、大小仏になるべしということ。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。まず仏に大小の分量をさだめんことあるべからずそうろうや。かの安養浄土教主の御身量をとかれてそうろうも、それは方便報身のかたちなり。法性のさとりをひらいて、長短方円のかたちにもあらず、青黄赤白黒のいろをもはなれなば、なにをもってか大小をさだむべきや。念仏もうすに化仏をみたてまつるということのそうろうなるこそ、「大念には大仏をみ、小念には小仏をみる」(大集経意)といえるが、もしこのことわりなんどにばしひきかけられそうろうやらん。かつはまた檀波羅蜜の行ともいいつべし。いかにたからものを仏前にもなげ、師匠にもほどこすとも、信心かけなば、その詮なし。一紙半銭も、仏法のかたにいれずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にてそうらわめ。すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆえに、同朋をいいおどさるるにや。

【私訳】

寺院や僧侶へ差し出す金品の額に応じて、大きな仏ともなり、小さな仏ともなると主張することについて。このような主張は、もってのほかであり、卑劣なことである。まず、人間が仏の大小を決めることなどあってはならないことではないか。阿弥陀如来の身体の大きさが経典に説かれてはいるが、それは人間が感じられる形で譬喩的に表した姿なのである。真実のさとりを開いた仏は、長い、短い、四角い、円いという形態や、青・黄・赤・白・黒という色彩をももたないのであるから、どうしてその大小を決定できようか。念仏すると、仏の姿を観られるということがあるが、「大きな声で称えれば大きな仏が観られ、小さな声で称えれば小さな仏が観られる」と経典に説かれている。この経典にこじつけて主張されているのであろうか。さらに、このことはまた布施行を主張しているということができる。どれほど財宝を仏前に供え、師匠に施したとしても、信心が欠けていれば、まったく無意味なことである。たとえ紙一枚、銭半銭を差し出さなくとも、他力にすべてをまかせ、信心が深ければ、それこそ阿弥陀の本願のこころに叶うことである。総じて仏法にことを寄せて、俗世の欲望があるものだから、このように共に念仏の教えに生きるひとびとをおびやかすのであろうか。

【語註】

仏法のかた…寺院・道場・僧侶など。

施入物…寄進されたもの。

大小仏…大きい仏や小さい仏。仏身の大小により、仏の位が示される。

不可説…もってのほか。言語道断。

比興…根拠のないこと。意味のないこと。

安養浄土…身心を安らかにはぐくむはたらきとしての、阿弥陀如来の浄土。

教主…阿弥陀如来のこと。

方便報身…色も形もない真実そのものである如来が、人間を救うはたらきを示した姿。

化仏…念仏する心に思い浮かべられる仏の姿。

大念…強く仏を念ずること。

ことわりなんどにばし…道理などに。この説に。「ばし」は意味を強める接尾語。

ひきかけ…かこつける。こじつける。

壇波羅蜜の行…ほどこしをもって、さとりの世界に至ろうとする実践行。壇はダーナ(ほどこし)、波羅蜜はパーラミター(到彼岸)のこと。

ことをよせて…かこつけて。

 

第十八章は、「寄付の多少によって、受ける果報が違う」という見解を批判する、ということに焦点があります。こういった発想は、現代でも多く見られるのではないでしょうか。『歎異抄』では施入物の大小によって仏と成るときの大きさが決まるということを批判されています。現代ですと成仏のときの大きさよりも、むしろ仏と成れるかどうかに視点があるように思いますけども。布施行といった意味を抜きにしても、例えば日常の中で、誰かに何かをするとき、これだけしたのだからこれぐらいのお返しがあるだろう…と期待をこめて行うこともままあることではないでしょうか。そして期待に応えられなければ怒りの感情が芽生えてしまったり。反対に、全然何もしてあげれんかったなあと思うことでも、思いがけず大きなお返しがあったり…。思い通りにいくことはまずないわけです。

仏道に帰し歩むにあたって、成仏することを念頭に置くことがまず第一義にあるわけですが、とりわけ浄土真宗においては、「十八章」本文にもあるように「他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にてそうらわめ」、つまり念仏申さんと思い立つこころ、信心が肝要であります。だから、ここでどれだけお布施をしただとか、お念仏をしたのだと言っても、「いかにたからものを仏前にもなげ、師匠にもほどこすとも、信心かけなば、その詮なし」と『歎異抄』の著者もバッサリ両断してますね。お布施の量は関係ないのです。

ご法話では、様々な切り口で「十八章」について話されていました。特に印象に残ったお話としては、法然上人の『選択本願念仏集』の第三章の言葉、

念仏は易きが故に一切に通じ、諸行は難きが故に諸機に通ぜざることを。しかれば則ち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願としたまふか。もしそれ造像起塔をもって本願となしたまはば、則ち貧窮困乏の類は、定んで往生の望みを絶たん。しかるに富貴の者は少なく、貧賤の者は甚だ多し。もし智慧高才をもって本願となしたまはば、愚鈍下智の者は、定んで往生の望みを絶たん。しかるに智慧の者は少なく、愚痴の者は甚だ多し。もし多聞多見をもって本願となしたまはば、少聞少見の輩は、定んで往生の望みを絶たん。しかるに多聞の者は少なく、少聞の者は甚だ多し。もし持戒持律をもって本願となしたまはば、破戒無戒の人は、定んで往生の望みを絶たん。しかるに持戒の者は少なく、破戒の者は甚だ多し。自余の諸行、これに準じてまさに知るべし。(『真宗聖教全書 一、三経七祖部』九四四頁)

を引かれておりましたが、例えばお布施であったりとか、写経であったりとか、するのは全然構わない。大事な行である。けれども、それはできる人ができるときにする行であると。それで救われるか、救われないのかは決まらない。往生ということに、全く関係がない。なぜなら、皆が皆できることではないから。そういったことを阿弥陀様が私たちに課せるわけがないと。頑張った人だけが救われるのであれば、頑張れない人はいつまでもいつまでも、お浄土を生きれない。念仏申さんと思い立つこころ、信心のみが肝要であって、施入物の大小は問題ではない。ではなぜ、私たちは大きさ小ささ、やったやらない、できるできないにこだわるのかといえば、自分を立てる、誇るということが、私たちの性質としてある。負けていける人生なんて、生きたいと思えない。どうしたって自分を他者と比べて、優位に立ちたい。たとえ、仏教をその道具に使ったとしても。施入物の大小が、仏の大小につながると考えてしまうその根底には、そういった人間の相対分別の心が如実に表れているように思います。

 

余談ですが、本文でも述べられていますが、本来仏さまに大きさの概念はありません。阿弥陀如来の身体の大きさが『観無量寿経』の「真身観(阿弥陀如来の身体を観察する章)」において

無量寿仏の身は百千万億の夜摩天閻浮檀金色のごとし。仏身の高さ、六十万億那由他恒河沙由旬なり。眉間の白毫は、右に旋りて婉転して、五須弥山のごとし。仏眼は四大海水のごとし、青白分明なり。身のもろもろの毛孔より光明を演出す。須弥山のごとし。(『真宗聖典』一〇五頁)

と具体的に仏の大きさが示されているのは、前回第十七章でもふれましたが、我々衆生にわかりやすいように(全然イメージつきませんが)方便としての仏身を表しているわけです。那由多は10の60乗、恒河沙は10の52乗、由旬は約7kmと言われています(諸説あります)。もはや宇宙規模。こういったところから、釈尊の考える宇宙観というのが見えてきそうですね。

5月28日(火)の御命日のつどいでは、『歎異抄』「後序」をテーマに第18組永傳寺の本多智之氏よりお話頂きました。執筆中です(汗)。

6月28日(金)の御命日のつどいでは、『歎異抄』最初に戻りまして「序文」をテーマに第18組長周寺の池田陽氏よりお話頂きます。どうぞお誘い合わせてお参りください。

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