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三条別院|浄土真宗 真宗大谷派
三条別院|浄土真宗 真宗大谷派

「『歎異抄』に聞く」を聞く

廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。-第十五章-

新型コロナウイルス感染症によって三条別院主催の法話会は中止となっておりましたが、10月から再開させていただいております。この記事は10月28日(水)にお勤まりになった宗祖御命日日中法要と、その後の御命日のつどいの記録です。『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回は廣永寺(佐渡市相川)の大久保 州 氏に、『歎異抄』「第十五章」を主題にご法話頂きました。

廣永寺(佐渡市相川)の大久保 州 氏。

【『歎異抄』「第十五章」本文】

一 煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。この条、もってのほかのことにそうろう。即身成仏真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。おおよそ、今生においては、煩悩悪障を断ぜんこと、きわめてありがたきあいだ、真言・法華を行ずる浄侶、なおもて順次生のさとりをいのる。いかにいわんや、戒行恵解ともになしといえども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらわれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてはそうらえ。この身をもってさとりをひらくとそうろうなるひとは、釈尊のごとく、種種の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益そうろうにや。これをこそ、今生にさとりをひらく本とはもうしそうらえ。『和讃』にいわく「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」(善導讃)とはそうらえば、信心のさだまるときに、ひとたび摂取してすてたまわざれば、六道に輪廻すべからず。しかればながく生死をばへだてそうろうぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいいまぎらかすべきや。あわれにそうろうをや。「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならいそうろうぞ」とこそ、故聖人のおおせにはそうらいしか。

【『歎異抄』「第十五章」私訳】

「信心を得たならば、あらゆる煩悩を備えた身のままで、さとりを開くことができる」と主張することについて。この主張は、もってのほかのことです。

即身成仏(この身のままで仏に成ること)という教えは真言密教の根本義であり、三密行業の証果です。六根清浄という教えは、法華一乗の説くところであり、四安楽の行によって得られる功徳であります。これらはみな、特に秀でた能力によって行ずることのできる難しい修行であり、精神統一して仏をイメージすることにより成就するさとりです。それに対して、未来から開かれてくるさとりは、絶対他力を根本義とした浄土真宗の宗旨であり、すなわち、阿弥陀如来の本願力の信心に身も心も定まる道です。これこそ、まったく人間の能力や努力を必要としない普遍的な行であり、善人や悪人という相対的な意味づけや人間の努力を救いの条件とはしない教えです。

だいたい、いのちのある間は、欲望や怒り、罪の意識を断ち切ることは、まったく困難であるので、真言や法華の行者ですら、次の生でさとりを開くことを祈るのです。まして、われらのように戒律や修行や知恵のないものが、この世で「さとり」を開くことなどないのであります。しかし、阿弥陀如来の本願の船に乗って、迷いや罪で満ち満ちた苦海を渡り、浄土の岸に到着したならば、黒雲のような欲望や怒りの感情が晴れ、たちまちに真実が月明かりのように輝き、あらゆるところを照らす阿弥陀如来の光とひとつになって、あらゆる人びとを救うときにこそ、「さとり」とは表現するのです。

この身をもったままでさとりをひらくと言う人は、お釈迦様のように、さまざまな姿をとって現れ、三十二相・八十随形好という瑞相をそなえ、法を説き、人々を救いとろうとでもいうのでしょうか。こういう基準を満たしてこそ、この世で「さとり」を開くと言いうるのでありましょう。

親鸞聖人の『和讃』に、「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」(善導讃)(決して壊れることのない信心が定まるそのとき、阿弥陀如来の大悲の光に照らされ守られ、永遠に迷いのいのちを超えたのである。(善導大師を讃嘆した和讃))といわれているように、信心が決定したとき、二度と捨てることのない阿弥陀如来の救いに摂め取られるならば、六道という迷いの生を繰り返すことはないのです。そうすれば、永遠に迷いの生活を超えていくことができるのです。このように受け止めることを、「さとる」というのです。混乱してはいけません。まったく哀れなことであります。「浄土真宗の教えは、いま、阿弥陀如来の本願の教えを信じ、彼の土でさとりを開く」と、いまは亡き、親鸞聖人は仰せられたのであります。

【語註】

即身成仏…この肉体のまま、さとりを得て仏となること。

真言秘教…真言宗の秘密の教え。真言密教。

三密行業の証果…身に印契を結び、口に真言を唱え、意(心)に仏を観ずる(三密)という密教の実践法。証果はさとりのこと。

六根清浄…眼・耳・鼻・舌・身・意という六根を整えて、自由自在な智慧のはたらきを得ること。

法華一乗の所説…すべての者が等しく救われると説く『法華経』の教え。

四安楽の行…身口意のあやまちを離れる三善行と、慈悲行との、心身を安楽にする四つの行法。六根清浄はこの行によって感得される。

観念成就…精神を集中して、心に仏の姿や功徳を思いうかべ真理を見極めること。

来生の開覚…次の生においてさとりを開くこと。

不簡善悪の法…人を善悪で区別しない、平等に救済される道。

浄侶…出家の僧侶。

戒行恵解…戒を保って修行し、智慧をもって道理を正しく理解すること。

法性の覚月…涅槃のさとり。これを闇夜を払う月に譬える。

応化の身…衆生を救うために、相手の願いに応じて、衆生の姿をとって現れた仏身。

三十二相・八十随形好…仏の身体にそなわる、さまざまなすぐれた特徴。

金剛堅固の信心…本願を信じる心。その信念が堅固でゆるぎないことを金剛に譬えている。

心光摂護して…如来大悲の光に照らされ守られて。

輪廻…さまざまな生をうけて、むなしく生死を繰り返すこと。

【聞く】

第十五章の焦点は、念仏者における「即身成仏の主張」を批判し、浄土真宗の「さとり」を明らかにするということにあります。さとりを開くことができるのは「この世」か「あの世」か。ここで聖道門の代表として挙げられている真言宗、法華宗は、この世でさとりを開くことを主眼としますが、浄土真宗においては「彼の土のさとり」が説かれていきます。ご法話では「本当に自分は他力の教えに立っているのか?」「間違ったものを自分だと思って過ごしていないか?」と、宗教は自己一身に関して徹底的に人間性を究明していくものだという宮城 顗 氏の論文を引きながら話され、さらに踏み込んで、自身の立場に安んずることなく、お釈迦様、阿弥陀如来、二尊の呼びかけと呼びかけられる「我」との関係性に注視しながら、実践道としての念仏生活についてお話されていました。

今回、大久保氏より第十五章の要旨をいただいておりますので、そちらをそのまま掲載致します。


『歎異抄』第十五章によって

真言秘教 即身成仏 三密行業の証果

法華一乗 六根清浄 四安楽の行の感徳

これらは難行上根のつとめ 観念成就のさとり

他力浄土 来生の開覚 信心決定の道

これは易行下根のつとめ 不簡善悪の法

言葉を並べるとこうなるが、これらの言葉からどんな声が聞こえるだろうか。私たちは言葉の解釈に終わっていないだろうか。

そして、真言秘教や法華一乗を向こうに置いて、自分は他力浄土の教えの立場に立っているのではないだろうか。

今のコロナ禍によって、祈ること、神社や祈祷をどこかで謗ってはいないだろうか。いのちの声に対して、祈祷という形で応えている人々がいる。しかしその真摯さに文句が言えようか。

私たちはただ専修念仏に縁があり、生まれたお寺が浄土真宗であったり嫁いだお寺が浄土真宗であった。うちの宗旨が浄土真宗である、ということがそもそもの最初の方も多いと思う。そして少しく学んだりお話を聞くようになり、祈祷ではこのコロナ禍には応えられない、となんとなく知っているだけである。どうする、こうすると言いながら、確信は持っているのであろうか。ただなんとなく知っているだけではないだろうか。

そんな私たちは、このコロナ禍だからこそ「正信偈」にあるように「極重悪人唯称仏」と胸を張れるだろうか。

『歎異抄』第一章に拠れば、「弥陀と我」ということが教えられているのではないだろうか。呼びかけるものと呼びかけられる者。今回の十五章の言葉に拠れば「報土のきしにつきぬる」「かの土にしてさとりを開く」とあるが、現実生活における釈迦弥陀二尊の呼びかけに応じ、私たちに念仏生活が始まることが求められているのではないだろうか、ということを教えていただいた。


以上、大久保氏による法話要旨

密集密閉密着を避けての聞法会。 また、法話のあとにある座談会は残念ですがしばらくお休みとなっています。

次回11月28日(土)の御命日のつどいでは、『歎異抄』「第十六章」をテーマに佐渡組勝廣寺の濱松智弘氏よりお話頂きます!どうぞお誘い合わせてお参りください。

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