2017年9月24日
2017年三条別院秋彼岸会報告
9月19日(火)から21日(木)まで三条別院秋彼岸会が行われました。
人生講座と中日の法話の抜粋と、その他の報告を行います。
毎日午前6時からの朝の人生講座、今年のテーマは煩悩。三人の僧侶が、人生において煩悩とどう向かい合ってきたのか等を語りました。仏教では3つの根本煩悩を人間を苦しめる「三毒(さんどく)」と表現します。その3つとは、貪=貪欲(むさぼり)、瞋=瞋恚(いかり)、痴=愚痴(おろかさ)です。
9月19日(火)「貪」 稱名寺(見附市新町)菊井 英信 氏
北海道出身の菊井氏は、北海道でニシンやカニがとれなくなったことの原因は、ニシンがとれすぎて、「食べるのではなく油をとっていた」という状況が生まれたように、欲を貪ったことであると説明されました。欲がなければ人間は生きられないが、問題は「欲を貪る=貪欲」ことなのであり、「欲を貪っている」自分がはっきりしているかどうかが課題なのだと語られました。
9月20日(水)
「瞋」 恩長寺(新潟市南区)渡邉 智龍 氏
教化審議会会長の渡邉氏は、今回の人生講座の計画の中心です。月参りにでかけるときに玄関が散らかってきたから片付けようと思っていた矢先に、奥さん(坊守さん)から「玄関が散らかってるから片付けてよ」と言われ、そんな些細なことで腹がたった(怒り=瞋恚)ことなどをあげ、対処法は我慢することでなく(我慢は限界がある)、根本には自己中心的な「思い通りにしたい」という心があり、①理解すること(怒りの対象を本当に自分が変えることができるのか)②自らの非を認める(自分にも悪いところがあったのではないかを考える)ことが必要ではないかと語られ、「煩悩で自分が苦しんでいることに気がつくことが自覚ということ」と言われ、しかし、前住職(奥さんの父親)から「煩悩は頭で考えたものでなく腹からでてくるのだ」と言われたように、常に生活の中に染みついていて複雑なのが煩悩なのだと語られました。
9月21日(木)
「痴」 長周寺(新潟市西蒲区)池 田 陽 氏
人間は反省できると思っているが、仏教を聞かない・興味のない人は「煩悩以外のところはありませんよ」というのが仏教の人間観で、愚痴(道理に暗い)ことの対処法は「縁起観」だと言われました。私は縁によってあるために本来私はどこにもないが、あると思ってそれを守ろうとしている愚かな自分が見えてくる。池田氏が学校の先生をされていたご門徒のところにお参りに行ったところ、「末代無智の在家止住の男女たらんともがら」という『御文』の一文が嫌いだと言われたそうです。理由は「自分は教養のある人間だから、無知だといわれたくない」。私たちはその人を笑うことはできるのでしょうか?と問いかけられました。
朝食として今回も8月同様、本町のパン屋コロネットと協力してパンを配布しました。今回は列座の衣体や越後の水田の「緑」をイメージした「野沢菜クリームチーズ」を新たに開発してもらいました。受付とパンの配布は、今年も三条別院有志の会の皆さんに早朝からお手伝いいただきました!
20日は日中法要(永代経総経)の後に西光寺(上越市大町)の豊島信氏に2座お話しいただきました。
高田別院で『歎異抄』を講義している豊島氏。三条別院でも昨年1月から毎月28日に「『歎異抄』に聞く」のテーマの法話会を開いていますので、『歎異抄』中心にお話しいただきました。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という『歎異抄』における「凡夫・悪人・煩悩」の内容を、ハンナ・アーレントがホロコーストというユダヤ人大虐殺の中心人物だったナチス幹部のアイヒマンの裁判を傍聴し、「上の命令に従っただけ、最初は悪いと思ったが慣れてしまった」という言葉などを聞き、それは「凡庸な悪」であったと言ったことと結び付けて語られました。
世間の考え方は「従因向果」であり、それは欲求を満たす方向。実は「今が不満足」ということで、ほんとうの「満足」ということは真宗で教える「正定聚」ということで、それは30年間聞法を続けてきた人も、昨日聞き始めた人も、赤ちゃんを抱いている人も、杖をついている人も、だれでも入れる世界なのだと語られました。
されに、今回の秋彼岸会ははじめて御虫干し展を行い、三条別院書道教室の木原光威先生や三条歴史研究会等の専門家の力を借りて解読しました。
また、今回からお斎を御遠忌弁当協力店で順番にお願いしていく計画で、衆楽館の精進弁当(聖人とゐなかの人々)も非常に美味しいと評判でした。
いろいろな方に協力していただいた秋彼岸。そして、10月を迎えるといよいよお取り越し報恩講の準備が本格的にはじまります。