2022年4月21日
特別編㉓慶讃法要:「宿縁」と「宿業」について〔島津崇之 氏(第18組満行寺住職)〕
【特別編㉓慶讃法要:「宿縁」と「宿業」について】
▲来る5月29日宗祖親鸞聖人御誕生850年立教開宗800年慶讃法要三条教区お待ち受け大会が三条別院で開催されます。親鸞聖人はお念仏にであったよろこびを「遠慶宿縁」と表現されています。一方、新型ウイルス感染症の流行が2年続く中、参詣席の制限を設けるなどの工夫をしつつ、準備をしており、世の中は依然として、「自粛」という決して明るいとはいえない雰囲気です。慶讃法要儀式部会委員でもある島津氏は一見明るい「宿縁」と一見暗い「宿業」の関係について、最近考えられているとお聞きしましたので、執筆いただきました。
教区慶讃法要お待ち受け大会に向けてひとこと
宿業という言葉から何を連想するでしょうか。
暗いとか、悲壮なとか、あまり考えたくない面倒な話、前時代的な古臭い考え、自己責任、自己否定等々、ネガティブな印象の言葉が並ぶことでしょう。
また、前世だとか来世なんて、そんなふうに考えること自体どうかしてる。一度きりの人生を精一杯楽しんだ方がいいでしょう。どうせ死んだら無に帰するのだから、前世来世なんてあるはず無いでしょう。だから、葬式も無意味、お墓も無駄、お骨もゴミ、みたいなことになっていくのでしょう。
それにたいして、真面目に宿業に対峙しても、自分ではとても受け止めることはできません。病気になったり、災害に遭ったりするのも宿業だから仕方がないとはとても思えません。自分の触れたくないことを自覚しなさいと言われても自覚なんてできないでしょう。
よく機の深信の自覚から如来に遇う、機の自覚が先にあってというけれど、果たしてそうでしょうか。自分で宿業を自覚しようとして掘り起こして行っても闇ばかりで嫌になってしまうのが関の山でしょう。
親鸞聖人が地獄は一定と言われたけれども、この言葉もこれだけを取り出して考えれば、非常に悲しみ深い、苦しい、救われがたい、悲壮感を漂わせているような言葉、でも浄土真宗はそのような悲しい教えなんでしょうか。
宿業は、自覚するのではなくて、知らされてくるのだと思います。それも信知するという形で。知るに存知と信知とあると言われます。存知は自分の知識として知ること。信知とは、如来を信ずることによって、如来を通して知らされてくること。
本当の宿業は自分では分からない。如来の大悲とセットでなければ分からないと思います。如来大悲によって自身の触れたくないこと、見たくないことも悲しいこと嫌なこととしてでなく、自分自身を作り上げているものとして知らされてくるように思います。
如来を信ずることによって、自分自身そのものを宿業煩悩の身として信じれるのではないでしょうか。
○次回の「三条別院に想う」は、
松木 譲 氏(第24組專明寺)
よりご執筆いただきます。
▲このたびの春彼岸会に2日間参拝された松木氏に、参拝記をご執筆いただく予定です。