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三条教区・三条別院 | 浄土真宗 真宗大谷派
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「『歎異抄』に聞く」を聞く

廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。-第十六章-

2月に入り、降雪と体調が気になってしょうがない廣河です。皆さんいかがお過ごしでしょうか。去年の今頃は記録的な豪雪で、三条別院も二階の窓ガラスまで雪が積もって大変だった、なんてことも伝え聞きました。そんなところですから今年はどんなもんかと手ぐすね引いて過ごしているのですが、今のところ三条では降っては溶けてを繰り返している日々で、至って平和です。まあ、こんなことを書いたらフラグが立ってしまうのでもう書きません!

さて、廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く、第9回目です。1月28日(月)に宗祖御命日日中法要が勤められました。その後の御命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回は三条教区17組称名寺(新潟市西蒲区)の有坂次郎氏に、『歎異抄』「第十六章」を主題にご法話頂きました。

 

『歎異抄』「第十六章」

一 信心の行者、自然に、はらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶にもあいて口論をもしては、かならず回心すべしということ。

この条、断悪修善のここちか。一向専修のひとにおいては、回心ということ、ただひとたびあるべし。その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまわりて、日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、回心とはもうしそうらえ。一切の事に、あしたゆうべに回心して、往生をとげそうろうべくは、ひとのいのちは、いずるいき、いるいきをまたずしておわることなれば、回心もせず、柔和忍辱のおもいにも住せざらんさきにいのちつきば、摂取不捨の誓願は、むなしくならせおわしますべきにや。くちには願力をたのみたてまつるといいて、こころには、さこそ悪人をたすけんという願、不思議にましますというとも、さすがよからんものをこそ、たすけたまわんずれとおもうほどに、願力をうたがい、他力をたのみまいらするこころかけて、辺地の生をうけんこと、もっともなげきおもいたまうべきことなり。信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。しかれば念仏ももうされそうろう。これ自然なり。わがはからわざるを、自然ともうすなり。これすなわち他力にてまします。しかるを、自然ということの別にあるように、われものしりがおにいうひとのそうろうよし、うけたまわる。あさましくそうろうなり。

◎今回有坂氏より私訳を作っていただきましたので、それをそのまま掲載致します。

【私訳】

異議者は言います。「私たち信心の行者は、誰もが持っている貪・瞋・痴から起こる怒りや悪行や争いをしてしまったときは、その都度、かならず反省・修正しなければならない。そうすることが回心ということである。」

このようなことを主張するのは、悪を断ち善行を積まなければ往生出来ないという旧来の仏教観が、この人たちの心の中に色濃く残っているからなのでしょう。

一向専修のひと(ほんとうの真宗門徒=念仏の行者)であれば、回心という行為は人生でただ一回だけのことなのです。

このただ一回の回心というのは、それまでほんとうの浄土真宗である本願他力を知らなかった人が、自分の善行から生ずる功徳を積んで行かなければ往生出来ないのだという思いを捨てて、阿弥陀如来からの智慧を頂いて、阿弥陀如来の本願にこの身をおまかせいたしますと決心することを回心というのです。

ことあるごとに、そのたびごとに、回心して往生を遂げるのだ、などと信じていれば、結局、息を吐いていて、次の息を吸うまでのほんの瞬時の間に人生は終わってしまうものでありますから、ほんとうの回心をする時間などある筈もなく、安心してこの人生を送るという大事なことは出来なくなってしまいます。それでは阿弥陀如来の摂取不捨の本願力の有難さを踏みにじってしまうことになるのではないでしょうか。

「悪人をこそたすけるのだという、法蔵菩薩の誓願。これこそ人間の智慧を超えた有り難い誓願なのです。」と教科書に書いてあることをそのまま口に出して、さも解ったような気になっていても、「そうはいっても、なんぼなんでも極悪人をたすけることなどないのだろう。」と心の中で思っていて、本願他力を疑い、本願他力をたのむというこころが欠けていれば、真実報土への往生は叶わず、疑城・胎宮などという辺地の浄土(方便化身土)に生まれてしまいます。これはもっとも嘆かわしいことだとお思いください。

(回心して)信心が定まったら「往生する」のですが、但し「往生する」ということは、まったく阿弥陀如来のはからいによるものですから、人間側の思いや努力でどうにかなるものではありません。

自分が悪い人間だと承知していても、ますます本願他力の有り難さに感謝して生活してゆけば、自然の道理がはたらいて、穏やかで人にも優しい心が生じてくることでしょう。

いついかなるときでも、往生するには小賢しい思いを離れて、ただ阿弥陀如来のご恩の深いことを思い出せばよいのです。そうすればおのずから念仏も称えられるでしょう。そうなることを「自然」というのです。ですから人間の知恵の及ばない阿弥陀如来の本願力のはたらきを「自然」というのです。

これが「他力」というはたらきの正体です。そういう事であるにもかかわらず、真宗の「自然」という言葉を、全く別の意味で使い、知ったかぶりして人々に説いている者がいるという事が伝わってきます。それを説く人がいて、聞く人がいるということは悲しいことであります。

【語註】

あしざま…悪い行い。ひどいふるまい。

同朋同侶…同じ念仏の道を聞き生きていく友。

回心…ここでは悪を行ったとき、それを自分の努力で悔い改め、ひるがえすこと。

断悪修善…悪を断ち、善を修する、自力の努力。

一向専修のひと…ひとすじに本願を信じ、念仏する人々。

柔和忍…道理にかなった、おだやかな心。

辺地…念仏しながらも本願を疑い、自力をたのむ人の生まれるところ。

第十六章は、本願を信ずる心にめざめる「回心」とはどういうことなのかを明らかにするということに焦点があります。親鸞聖人は回心について、

「回心」というは、自力の心をひるがえし、すつるをいうなり〈中略〉自力のこころをすつというは、ようよう、さまざまの、大小聖人、善悪凡夫の、みずからがみをよしとおもうこころをすて、みをたのまず、あしきこころをかえりみず、ひとすじに、具縛の凡愚、屠͡沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら、無上大涅槃にいたるなり。(『真宗聖典』(『唯信鈔文意』)五五二頁)

と定義されています。つまり、自分の力でなんでもできると思っている考え方をひっくり返してすてることを回心といわれます。

この第十六章においても、「回心ということ、ただひとたびあるべし」と出ており、回心は人生において一度きりの経験だと述べられています。唯円の定義は「日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまわりて、日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、回心とはもうしそうらえ」とありますが、これは親鸞聖人の言う「自力の心をひるがえして、捨てる」ことを言いかえていると思われます。

法話の中で印象的だった言葉が、「異議者は教義に余計なものをひっつけたがる」という言葉でした。つまり、本来シンプルであるはずの要素に、余計なもの、つまり必要でないものであったり、むしろ邪魔になるであろうことも、自身の裁量で勝手にひっつけてしまうという性質が、人間にはあると有坂氏は述べます。回心ということについても、本来親鸞聖人の定義では「自力の心をひるがえし、すつ」という非常にシンプルな意味で定義されているところを、異議者は怒りや悪業を行ったときに、その都度反省するということを回心と言われているので、これは全く意味合いが違ってくるわけですね。唯円が述べるように、これは断悪修善、旧来の仏教観に基づく自力の行でしょう。この考え方は、日常生活を送る我々にも根強く残っていると言えるのではないでしょうか。自分が善いと思うことを励み、悪いと思うことはせず、してしまったら反省する。道徳的には、これらのことは正しいとされる行動で、この行動をする人は善人と呼ばれます。しかし、その善い悪いの判断の基準はどこにあるのでしょうか。自分が善いと思っていたことも、立場が違えば悪と見られることだってありえます。それこそ、善悪ということを(前例や経験、他者の助言などをふまえたとしても)自身の裁量で勝手に判断していると言えるのではないでしょうか。そこには結局、何がどれだけ善くて、どれだけ悪いか、〇〇と比べて、自分にとってどうかという、相対的な判断しかなく、絶対不変のものはありません。仏道修行においても、断悪修善の在り方は人間の側の思いや努力であり、相対分別の心を離れませんから自力なのですね。親鸞聖人は、そういった心をひるがえして、捨てることを回心と言われるのです。

また、法話の後の座談会では、特に生老病死の「生」について、皆さん思うところを話されました。つまり、老病死という苦の根源にある「生」ということが、果たして「生きること」なのか、それとも「生まれること」なのか。これらは同じ「生」ですが全くニュアンスが違いますね。「生きること」は、例えば老病死に代表される苦を受けながら人生を歩むことゆえに、苦と言うことができます。また「生まれること」も、生まれたその環境であったり、生まれ方、例えば産道を通る時に苦しい思いをしたりなど、そのとき意識はなくとも身体の記憶として残るケースもあるでしょう。

さて、仏教で教える「生」とはどちらの意味合いなのか、それともどちらでもないのか、どちらでもあるのか…話が平行線に差し掛かった時、主任列座の斎木さんが仰りました。「このままでは埒があきません!ここは一つ、今度インドに行く廣河くんに、「生」という言葉が実際にインドではどういった意味合いで用いられているのか、調べてきてもらうのはどうでしょう。」

突然自分の名を言われびっくりしました。なるほど、わからないことはわかる人に聞くのが一番です。引き受けざるを得ない!唯一の問題は私が日本語ぐらいしかまともに扱えないことくらいですが…この「生」の問題は教義にも関わる大事な問いでしょう。なので、いざとなれば肉体言語も辞さない覚悟で行く決意を固めました!期せずして大命を拝することとなった廣河。この「生」の問いに果たして答えはあるのか…報告はインド仏跡巡拝の記事と合わせて書きたいと思います。

次回、2月28日(木)の御命日のつどいでは、年頭会が勤まります。御参詣いただける方には、お斎をご用意させていただきます。次第としましては、午前10時よりおつとめ、輪番による年頭挨拶、法話、お斎となっております。お斎をお申込みの場合は準備の都合上、お手数ですが2月20日(水)までに当別院(℡:0256-33-0007)までご連絡していただきますよう、宜しくお願いします。ご法話は、三条別院輪番の森田成美よりお話しいただきます!お誘い合わせてお参りください。

ちなみに廣河はこのときインド巡拝中ですので、年頭会の記録は番外編として、頼もしい同僚列座にお願いする予定です!

फिर मिलेंगे।(また会いましょう)

 

 

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