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三条別院|浄土真宗 真宗大谷派
三条別院|浄土真宗 真宗大谷派

「『歎異抄』に聞く」を聞く

廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。-第十二章-

「廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。」第五回目となります。投稿が遅れまして申し訳ありません。来月にお取り越し報恩講を控え、慌ただしい日々を過ごしております。ですが、どのような日々であってもすべてが聞法生活。その意識が薄れていかないように、何度でも仏法に出遇わせていただくということが、大切なことのように思います。

9月28日(金)に宗祖御命日日中法要が勤められました。その後の御命日のつどいでは、一昨年から『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回は三条教区20組金寳寺(新潟市中央区)の朝倉奏氏に、『歎異抄』「第十二章」を主題にご法話頂きました。

朝倉奏氏。金寶寺様の副住職として、お寺で子どもたちに英会話を教えたり、ヨガ教室を開催しているなど、様々な活躍をされています。

 

『歎異抄』「第十二章」

一 経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といいつべし。他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ、念仏をもうさば仏になる。そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことわりにまよえらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといえども、聖教の本意をこころえざる条、もっとも不便のことなり。一文不通にして、経釈のゆくじもしらざらんひとの、となえやすからんための名号におわしますゆえに、易行という。学問をむねとするは、聖道門なり、難行となづく。あやまって、学問して、名聞利養のおもいに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんという証文もそうろうぞかし。当時、専修念仏のひとと、聖道門のひと、諍論をくわだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりというほどに、法敵もいできたり。謗法もおこる。これしかしながら、みずから、わが法を破謗するにあらずや。たとい諸門こぞりて、念仏はかいなきひとのためなり、その宗、あさしいやしというとも、さらにあらそわずして、われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまわりて信じそうらえば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには、最上の法にてまします。たとい自余の教法はすぐれたりとも、みずからがためには器量およばざれば、つとめがたし。われもひとも、生死をはなれんことこそ、御本意にておわしませば、御さまたげあるべからずとて、にくい気せずは、たれのひとかありて、あたをなすべきや。かつは「諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべき」よしの証文そうろうにこそ。故聖人のおおせには、「この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏ときおかせたまいたることなれば、われはすでに信じたてまつる。またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられそうろう。しかれば往生はいよいよ一定とおもいたまうべきなり。あやまって、そしるひとのそうらわざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんとも、おぼえそうらいぬべけれ。かくもうせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。仏の、かねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとのうたがいをあらせじと、ときおかせたまうことをもうすなり」とこそそうらいしか。いまの世には学文して、ひとのそしりをやめ、ひとえに論義問答むねとせんとかまえられそうろうにや。学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかが、なんどとあやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢なきおもむきをも、とききかせられそうらわばこそ、学生のかいにてもそうらわめ。たまたま、なにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどといいおどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。みずから他力の信心かくるのみならず、あやまって、他をまよわさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。かねてあわれむべし、弥陀の本願にあらざることをと云々(『歎異抄』真宗大谷派宗務所出版部)

 

【試訳】

念仏だけ称えていても、経典や注釈書を学ばないものは、阿弥陀の浄土へ往(い)けるかどうかわからないということについて。これは、まったく論ずるに値しない誤った主張である。他力真実を説き明かしているさまざまな聖教のこころは、「本願を信じ、念仏を称えれば仏になる」ということひとつである。そのほかには、どのような学問が往生にとっての必要条件になるであろうか。ほんとうに、この教えの道筋に迷ってしまうようなひとは、徹底的に学問して、本願のこころを知るべきである。経典や注釈書を読んで、学問をしていても、聖教のほんとうのこころがうなずけないのは、なんとも哀れむべきことである。学問・知識もなく、経典や注釈書の論理も知らないひとが容易に称えられる南無阿弥陀仏なので、易行という。学問を第一義と考えるのは聖道門であり、難行と名づけるのである。学問しながら、本来の目的を誤って、富や名声に心をうばわれているひとには、果たして来たるべき浄土往生の生活があり得るだろうか、という証拠の言葉もあるのである。このごろ、専修念仏者と自認するひとと聖道門のひとが互いに議論を吹っかけて、「私の教えこそ優れている。あなたの教えは、劣っている」と、そのような表現をするから、教えの敵対者もあらわれ、また、仏法を損なう罪を犯すことになる。しかしこのような態度は、かえってみずから自分自身の仏法を破壊し、謗ることになるのではないか。たとえ、さまざまな仏教諸派の学者たちが、みな口をそろえて、「念仏は能力のないもののためのものだ、その教義は、浅薄で低劣だ」と非難したとしても、まったく言い争わないで、「私たちのような、自らの力では仏に成れない、愚かな、そして文字ひとつの意味も領解できないものでも、信ずることによってたすかる教えだと、聞かせていただいて信じているのだから、自らの力で仏に成れると思っている優秀なひとには、取るに足らない教えであっても、私たちにとっては最上の教えなのである。たとえ、念仏以外の教えが優れていたとしても、自分の能力にぴったりこないので、その教えを生きることはできない。自他ともにあらゆる人びとが、迷い苦しみに満ちた生活から解放されることこそが、すべての仏の究極的な願いであるのだから、どうか念仏者の邪魔をしないように」と言って、私たちがことさらに逆らわなければ、どのような人間が、敵意をあらわすだろうか。そのうえ、「論争をすると、さまざまな煩悩が起こる。だから、知恵あるものは、それから遠ざからねばならない」という、確かな教えの言葉もあるのである。いまは亡き親鸞聖人のお言葉には、「この教えを信ずるひともあるし、また謗るひともあるだろう、と仏陀が説いておられる。私はすでに信じているし、他のひとが謗ることもある。それだからこそ仏説は真実だと身に受け止められる。これによって、本願の救いはますます必然的だと思われるのである。もし、教えを謗るひとがいなかったら、どうして信ずるひとがいるのに、謗るひとがいないのだろうかといぶかしく思えてしまうだろう。このように言うからといって、必ずしもひとに非難されようということではない。仏陀が、信ずるものもあれば謗るものもあるに違いないと、かねてから見通されて、人々の疑いが決して起こらないようにと願われて説かれたことをいうのである」と言われている。ところが、このごろでは、学問をすることによってひとの口を塞ぎ、もっぱら論争や問答こそが大事なのだと身構えておられるのであろうか。学問をするならば、ますます阿弥陀如来の本当のおこころを知り、また、如来の悲願の広大さをも了解して、「自分のように浅ましく、愚かなものは往生できるだろうか」と不安になっているひとにも、阿弥陀如来の本願は、善・悪・浄・穢という人間の価値基準をまったく問題にしないのだということを、腑に落ちるように説明することができれば、それこそが本願を学ぶ者の本当の意義ではないであろうか。たまたまのご縁で、無心に、阿弥陀如来の本願にかなって念仏に生きているひとに向かって、「学問をしてこそ、往生は決定するのだ」と言って脅かすことは、まさに仏法を妨げる魔ものであり、仏陀に対する怨敵である。それは、自分自身に他力の信心が欠けているばかりでなく、他人をも迷わせてしまうことである。それこそ、謹んでおそれるべきである。先師・親鸞聖人のおこころに背いていることを、また、かさねて悲しむべきである。弥陀の本願ではないことを。

 

【語註】○参考…①『[新装]仏教学辞典』 法蔵館発行 ②個人的推測

証文・・・仏法の道理をあらわすための証拠となる文章。ここでは、『末燈鈔(まっとうしょう)』第六通(『真宗聖典』六〇三頁)、『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』(同九六二頁)等を指すと思われる。『往生要集(おうじょうようしゅう)』『七箇条制誡(ひちかじょうせいかい)』にもある文で、もとの出典は『大宝積経(だいほうしゃくきょう)』である。②

易行・難行・・・宗教上の実践のむつかしい行為を難行、たやすい行為を易行という。竜樹の十住毘婆沙論巻五易行品には、「菩薩が不退の位に至るための方法に難行道と易行道とがあり、前者は陸上を歩いてゆくように苦しく、後者は海上を船でゆくように楽である」とある。浄土教ではこの説に基づいて仏教を難易二道に分け、難行道は自力聖道門であり、易行道は他力浄土門であるとする。①

 

『歎異抄』「第十二章」では、「学問しなければ往生できない」という主張を正すというところ、つまり当時の聖道仏教(天台・真言)との教義の違いによる、「聖道(自力)仏教」と「浄土(他力)仏教」の間に起きた様々な諍論について、これをどのようにいただくかの、身内の受け止め方を問うことが、最大のテーマとなっています。

今回、朝倉さんよりご法話の要約をいただいておりますので、そちらをそのまま掲載させていただこうと思います。以下原文

 

歎異抄十二章では難行・易行が大きなテーマとなります。難行は聖道門の僧侶が修する行であり、易行は南無阿弥陀仏の名号ひとつです。この「行」ということについて鈴木大拙は『教行信証』を英訳するにあたり、「Practice」=「練習・訓練」ではなく、「Living」つまり「生活」と翻訳しました。その意図は私たち真宗門徒にとっての行とは、生活そのものであるということなのでしょう。

私には二歳半と十か月の二人の子どもがおり、生活は育児と不可分です。その日々はかつて抱いた子育ての理想とはかけ離れたものであり、悩み、腹を立て、失望することがあります。それはまさに難行そのもの。自分が歩んでいる道が正しいのかわからず、まるで道が水の底に沈んでしまって見えなくなって、もがいているようです。

そんな日々のなかで様々な人に出会い、お話をお聞きし、仏法に触れることがあります。すると私は今の自分の置かれた環境、つまり子どもたちと過ごす人生を生きている幸せに気付かせてもらえるのです。私が心から望んだ子どもがほしいという願い。それが実現し、悲しいこともうれしいことも子どもといっしょに経験させてもらえている。そう気付かせてくれるのが本願のはたらきであり、その本願をいただく生活がお念仏する生活なのでしょう。

龍樹菩薩は難行とは陸路を歩むようであり、易行とは水路を船でゆくようだとおっしゃったそうです。日々の生活でうまくいかないことがあると、歩んでいる道が見えなくなる私に、阿弥陀さまの本願念仏の教えが船となって私をすくいあげ、導いてくれる。そんな難行・易行のあり様について教えていただいているようです。そしてそれが歎異抄十二章の伝えようとしていることのひとつなのではないでしょうか。

以上原文

今回、金寶寺様のご門徒の方々も、団体参拝を兼ねてお参りくださいました。

『歎異抄』は、序と第十二章と第十五章で「易行」という言葉を三回使っています。「易行」の表層の意味は、「易(やさ)しい行」という意味です。難しい行では、人間にとって普遍妥当性をもちません。「易行」だけが普遍妥当性をもつ。救いの普遍妥当性という面では、「易行」が「難行」を凌駕するのです。しかし、「易行」の深層の意味は、相対的な「難易」の「易」ではありません。つまり、「簡易な努力」ではなく、「人間の努力をまったく必要としない」という意味です。
ここまでくると、人間の側からは一切、手も足も出ません。人間が未解決の問題に出あったときには、「いかにしたらよいか?」というハウツーの問い方しか出てこないからです。しかし、「いかにして?」と問う以前に、すでに〈人間〉として生まれ、紛れもなく生きている事実があります。だからこそ、そのような問い方を撤回させる機能が「易行」にあるように思います。

座談会もぎっしり!こちらの見通しの甘さで席が足りなくなってしまってます。。。申し訳ありません。

 

 

 

 

 

 

座談も賑わい、皆さん和やかな雰囲気の中で話されていました。

 

次回10月28日(日)(本日です笑)の御命日のつどいでは、『歎異抄』「第十三章」をテーマに第11組願興寺の村山まみ氏よりお話頂く予定でしたが、諸事情により、不肖廣河がお話させていただきました。内容についてはまた別の記事で、書かせていただければと思います。

 

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