三条別院|報恩講

2025年11月6日

シアターあとがき2025

お知らせ

『汽水域』(芥川龍之介原作『桃太郎』)

「善」という言葉があります。善悪の善です。辞書を引くと、よい。正しい・道理にかなっている、またそのような行いと記載してあります。そしてある文章にこのように書いてありました。抜粋して紹介しますと、

私たちの暮らしの中にはたくさんの善があります。社会的道徳的な善、正義に基づく善、理想を目指す善もなどあまたの善が思い浮かびます。私たちは様々な経験を重ね、知識を積み、個々の価値観を持ちながら生きています。そしてその培った知識や経験のもと、いつの間にか自分の考えや定非善悪の分別を中心に物事を判断し依りどころとして生活しています。しかし経験といっても、どこまでも私個人の狭い世界でのことですから、このことは絶対であり、こうあるべきだ、あらねばならないと頑(かたく)なです、

と、書いてあります。まさに執着、我執……

私たち人間は心に「闇」を抱えて生きています。その闇とは怒り・貪り・愚癡・嫉妬・憎悪・慢心・疑念・妄信・執着など数え切れないほど闇を抱えています。今回のこの桃太郎のお伴の犬、猿、雉の姿は、私たちが抱える闇そのものです。それを召し抱える桃太郎こそが人間そのものの姿。それゆえ、今を生きている私たちが抱える「善」とは「闇」より生まれる「善」なのかもしれません。

だからこそ「自分が絶対に正しい」と強く思い、それを「善」とする。そして主義主張の違う相手の「善」を認めず、双方の「善」は相容れなくなり、お互いに相手が間違ってると固執し争いに発展して相手の「善」は「悪」となる。しまいに自分の都合に合わないもの全てが「悪」となり自らが苦しまねばならないのです。

今回のこの茶川龍之介作『桃太郎』において桃太郎の全編における姿、鬼の後半の姿はまさに人間の「業」の姿そのもの。その姿を通してあらためて「善」とは?と、自身に問いかけるご縁にしてみてはいかがでしょう。

ここで先達のお言葉をお借りし、ご紹介させていただきます。

「私たちの人生の争いは いつも 善と善との争いだ」 

宮城 顗