どんな日も、どんな時代も、そばにある。

三条教区・三条別院 | 浄土真宗 真宗大谷派
三条教区・三条別院 | 浄土真宗 真宗大谷派

ブログ
NEWS

2019年1月9日

最新情報

2019年上半期聞法会のご案内

 

2019年1月9日

お知らせ 最新情報

除夜の鐘・修正会が勤まり、2019年が始まりました。

新年、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。

三条別院除夜の鐘(12月31日)・修正会(1月1日深夜)が無事に勤まりました。
旧御堂を夜の10時に開けて、自由に本堂・旧御堂をお参りしていただきました。
大勢の方にお参りいただきました!

記帳と受付。とっておきの「五十嵐川 報恩講ラベル」も!

振舞い酒として、甘酒、ココア、そして大根煮を振舞いました!大根は米山さんからただいたものです。

除夜の鐘、一打目を森田輪番に、二打目を淨圓寺のご住職に撞いていただきました。

修正会。正信偈 中読 五淘が、厳かな空気の中で勤まりました。回り口で読まれる和讃や御文も、浄土和讃(弥陀成仏のこのかたは)、御文の一帖目一通(或る人いわく)となります。

その後、旧御堂にても法要が勤まり、御輪番の新年の挨拶がありました。

2019年の聞法会のご案内も完成し、配布しています!別院本堂、同朋会館にあります。お待ちしています。

2019年上半期聞法会のご案内

2018年12月28日

最新情報 行事・研修会のご案内

寺院会計研修会のご案内

寺院(宗教法人)会計の基礎について簿記計算の実習を通じて学ぶ研修会です。

2019年4月から全5回開催です。

詳しくはチラシをご覧ください。

 

2018年12月28日

お知らせ

三条別院たより・三条教区通信1月号をお届けします

『三条別院たより』1月号・『三条教区通信』第136号をどうぞご覧ください。

2018年12月25日

「『歎異抄』に聞く」を聞く

小原が「『歎異抄』に聞く」を聞く。-第十四章-【番外編】

あれ?今回もタイトルが違いますね。毎回ご好評いただいている「廣河が『歎異抄』に聞くを聞く。」七回目の今回は、廣河が本山の御正忌団参の引率のため不在だったので、代役として私、子煩悩列座の異名をとる小原が「『歎異抄』に聞く」を聞かせていただきました。

子煩悩列座、小原暁。その瞳の先に、何を見るのか―――――――。

お取り越し報恩講が終わり、ほっとしたのも束の間、11月28日(水)に宗祖御命日日中法要が勤まりました。その後の御命日のつどいでは、一昨年から『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回は三条教区第15組光善寺(三条市矢田)の佐々木憲雄氏に、『歎異抄』「第十四章」を主題にご法話頂きました。

光善寺住職 佐々木憲雄氏。三条真宗学院の先生をされていたり、法話のために各地に出向するなど、多岐にわたってご活躍されています。ホームページもあります。こちら!→光善寺

 

『歎異抄』「第十四章」

一 一念に八十億劫(こう)の重罪を滅(めっ)すと信ずべしということ。この条は、十悪五(じゅうあくご)逆(ぎゃく)の罪人、日ごろ念仏をもうさずして、命終(みょうじゅう)のとき、はじめて善(ぜん)知識(じしき)のおしえにて、一念もうせば八十億劫のつみを滅(めっ)し、十念もうせば、十八十(とはちじゅう)億劫(おくこう)の重罪を滅(めっ)して往生すといえり。これは、十悪五逆の軽重(きょうじゅう)をしらせんがために、一念十念といえるか、滅罪(めつざい)の利益(りやく)なり。いまだわれらが信ずるところにおよばず。そのゆえは、弥陀(みだ)の光明にてらされまいらするゆえに、一念発起(いちねんほっき)するとき、金剛(こんごう)の信心をたまわりぬれば、すでに定聚(じょうじゅ)のくらいにおさめしめたまいて、命終(みょうじゅう)すれば、もろもろの煩悩悪障(ぼんのうあくしょう)を転じて、無生(むしょう)忍(にん)をさとらしめたまうなり。この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか生死(しょうじ)を解脱(げだつ)すべきとおもいて、一生のあいだもうすところの念仏は、みなことごとく、如来(にょらい)大悲(だいひ)の恩を報じ徳を謝すとおもうべきなり。念仏もうさんごとに、つみをほろぼさんと信ぜば、すでに、われとつみをけして、往生せんとはげむにてこそそうろうなれ。もししからば、一生のあいだ、おもいとおもうこと、みな生死(しょうじ)のきずなにあらざることなければ、いのちつきんまで念仏退転(たいてん)せずして往生すべし。ただし業(ごう)報(ほう)かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあい、また病悩(びょうのう)苦痛(くつう)せめて、正念(しょうねん)に往せずしておわらん。念仏もうすことかたし。そのあいだのつみは、いかがして滅(めっ)すべきや。つみきえざれば、往生はかなうべからざるか。摂取不捨(せっしゅふしゃ)の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、悪業をおかし、念仏もうさずしておわるとも、すみやかに往生をとぐべし。また、念仏のもうされんも、ただいまさとりをひらかんずる期(ご)のちかづくにしたがいても、いよいよ弥陀(みだ)をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそそうらわめ。つみを滅(めっ)せんとおもわんは、自力のこころにして、臨終(りんじゅう)正念(しょうねん)といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにてそうろうなり。(『現代語 歎異抄 いま、親鸞に聞く』朝日新聞出版)

【試訳】

「南無阿弥陀仏」とひと声念仏することによって、八十億劫という果てしない時間に私が犯してきた罪を一気に消滅させることが出来る、と信じなさいということについて。

平生、念仏を称えることなくして臨終を迎えた十悪五逆の罪人が、生まれて初めてよき師の教えに遇い、ひと声称えれば八十億劫の罪を消し、十声称えれば十倍の八百億劫の重罪を消して浄土へ往生することが出来るというこの主張は、『観無量寿経』(下々品(げげぼん)の経文)を根拠とするものである。これは、十悪・五逆の罪がどれほど重いかを我々に教えるために、一声・十声と表現しているのであろうか。これは、念仏が罪を消すという利益を表している。しかし、いまだ我々が信ずるところのものではない。その理由は、阿弥陀の光に照らされて、本願によって生きようというこころが湧き起こる。それは金剛のように堅い信心を獲得(ぎゃくとく)しているのであるから、すでに正定聚(しょうじょうじゅ)の次元に包摂(ほうせつ)され、命終したときには、さまざまな煩悩や悪業を転換して、無常菩提を開くことができるのである。この阿弥陀の悲願がなかったならば、私たちのように目先のことに翻弄され、罪に無感覚である人間が、どのようにして迷いの眼をひるがえして、真実に目覚めて生きることができようか。そのように受け止めれば、一生のあいだ称える念仏は、ひとつ残らず如来大悲のご恩への感謝の表れであると思われてくるだろう。念仏を称えるたびごとに、自分の犯した罪を消そうと思うのは、自分の力で罪を消して、弥陀の浄土へ往生しようと努力することになるのである。もしそうであれば、一生のあいだのありとあらゆる思いはすべて迷いの生活へつなぎとめる鎖となるから、命が終わるまで念仏を称え続けて初めての往生が可能であろう。ただし、人間の生存は、自由意志のままにならない限定性を生きるものであるから、どんな思いがけないことに会うかもわからず、心身の病の苦しみに責められ、臨終にこころが乱されて、念仏を称えて終わることができないかもしれない。そのあいだの罪は、どのようにして消すことができようか。罪が消えなければ、往生は不可能なのか。我々を摂(おさ)めとって捨てない弥陀の本願を信ずれば、どのような不慮のことにも会い、罪業を犯し、たとえ念仏を称えずにいのちが終わろうとも、本願のはたらきで直ちに往生を遂げることができるのである。また、いのちの終わりに念仏が称えられたとしても、それは今まさに浄土のさとりが開かれるときが近づいて、いよいよ弥陀の大悲を信じ、救われるご恩への感謝を表すことになるのである。念仏を称えて罪を消そうと考えるのは、自力の発想であり、臨終にこころの乱れをなくして念仏しようとするひとの本音であるから、そのひとは他力の信心がないのである。

【語註】

八十億劫の重罪…人間がもっている罪の深さを教えるために、無限の時間の感覚で表現したもの。

十悪五逆…『観無量寿経』には、「五逆十悪具諸不善」とある。仏が説かれる、さまざまな因縁のなかで悪を犯してしか生きざるを得ない人間存在の姿。

善知識…「善親友」ともいう。仏道に教え導き入れるひと。「有縁の知識」(歎異抄 序文)と同義。

無生忍…「無生法忍」の略。虚偽を超えた真実である無上涅槃をさとること。親鸞の用法では、真の仏弟子の利益として無生忍を押さえている。

正念…一般的には、八正道(理想の境地に達するための八つの方法)のなかのひとつ。仏道に適った正しい想念の意。親鸞聖人は、称名念仏を「正念」と理解している。

 

第十四条は、「滅罪」がテーマになっています。まず、唯円が異義として取り上げるのは、「ひと声念仏することによって、八十億劫の重罪を滅することができると信じなさい」という主張です。簡単に言えば、念仏を自分の罪滅ぼしの道具のように使うことの問題です。

一方、唯円の受け取っている念仏のありようは、「一生のあいだもうすところの念仏は、みなことごとく、如来大悲の恩を報じ徳を謝すとおもうべきなり」です。罪のある自分をたすけてくれるのが阿弥陀如来であって、そのことへの感謝が念仏なのだから、念仏を道具のように使ってはならない、と唯円はいいます。

浄土三部経のひとつである『仏説観無量寿経』の「下下品」に、救いの手がかりの一番少ない者の救いを課題とした箇所があります。「十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く」。意訳すると、「悪人が臨終に際して、念仏の師から教えられて、南無阿弥陀仏を十回称えたならば、八十億劫という膨大な量の罪を除かれる」となります。この教えをそのまま信じているのが異義者です。

第十四章には、臨終行儀(臨終の死の迎え方)に関する問題が論じられています。人は臨終のとき、念仏してその功徳で罪を消そうとしますが、臨終の苦しみにあるとき、教義について考える余裕はありません。『観経』で語られているのはこの臨終の真実だと思うのですが、それを普遍化し、罪を作ったらその都度念仏で浄化するという思想は間違いだと唯円は言うのでしょう。罪への感覚がとても鋭敏だったであろう中世、漁業や農業、商業などの私たちがいのちを保っていくために必要なこと自体に罪の意識がありました。現代では、食料をスーパーなどで買い、いのちを奪っているという感覚があまりありませんね。

佐々木先生の法話では、「臨終」と「命終」の言葉のちがいについてお話しされたことが印象的でした。「臨終」は「いのちが終わるとき」という意味ですが、第十四章にある「命終」とは、「念仏申す生活を決めたとき」と解釈し、著者である唯円もそういった意味で「命終」ということばを使っているのではないか、と仰っていました。

「臨終」と「命終」。現代においてはほぼほぼ同じ意味で使われていますが、本文を読めば頷けるように、明らかに著者は区別して使われていますね。佐々木先生の仰る上記の解釈は一つの捉え方であり、問題提起です。皆さんはどう考えますか?

次回、12月28日(金)の御命日のつどいでは、『歎異抄』第十五章をテーマに第15組長泉寺の石塚祐堂氏よりお話しいただきます。

そしておそらく次回より、「廣河が『歎異抄』に聞くを聞く」通常営業となることでしょう!廣河ファンの皆さん、乞うご期待です!

1 / 4912345...最後 »
トップへ戻る