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三条別院|浄土真宗 真宗大谷派
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10月28日 御命日のつどい法話 日下部文典氏より要約文をいただきました。

三条別院では、親鸞聖人の御命日である毎月28日にお勤めと法話のつどいをひらいております。本年も『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話いただいております。
午前10時からお勤めがありますので、お誘い合わせてお参りください。

10月28日に開催された「御命日のつどい 歎異抄に聞く」法話要約文を、長岡市 蓮壽寺住職 日下部文典師よりお送りいただきました。
日下部師には歎異抄第二章をテーマにご法話いただきました。

御命日のつどい 要約文 日下部文典師

 第二章に心引かれる理由は、①対話という出来事をめぐって、念仏する人々が登場する②動きがあり映像化できる③親鸞聖人の名乗りが聞けるという三点です。第二章のキーワードを「往生極楽のみち」と「地獄は一定」にしました。そこには、これが私の人生と言い切る親鸞の人生観そのものが伺えます。

 では、いのちがけで聞きたいこととは、何だったのでしょう。狭い部屋で膝突き合わせての話し合いに、親鸞が相手の気持ちに寄り添って傾聴、受容する姿が思い起こされます。

 親鸞は、「ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり」と断定しています。親鸞は問うた人々の心を見抜き、教えに対する基本的な姿勢を鋭く突いています。それは、信心不徹底の理由を再確認されていることでもはりましょう。さらに私たちは、この二章の背景にあるもの(善鸞事件等)を確認して読み進めることが大切になってきます。
 
 次に存知は分からない。わかる必要もないこと。信知は身・口。意でわかることです。「親鸞に起きては、ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべしとよき人の仰せをかぶりて別の子細なきなり」の言葉は、全身全霊をかけて「そうであったか」と感得した親鸞の人生観を物語っています。まさに信知でしょう。
 
 私や親鸞ではなく、「親鸞におきては」の表現には、自己の名乗りや主体性が感じられます。それは、親鸞の長い人生をかけて身に開かれた師(教え)とのめぐり遇いの表白と言えましょう。

「地獄一定」は、孤独のどん底にあってもそう言い切ることのできる親鸞の自信ある生き方ではないでしょうか。負ではなく、逆に地獄の立脚点から新しい世界が広がります。

 私たちが三悪道に陥らないためには、①ごめんなさい②ありがとう③どうぞの言葉が大切です。愚身、およびがたき身は、愚かなるがゆえに、真実の見えていない自分を深く見つめる言葉です。そこにこそ、耳を傾け聴こうとする新しい世界が開けてくるのでしょう。「凡夫は、すなわちわれらなり」の言葉には、親鸞の包み込む温かさが感じられます。
 
 御命日のつどい「歎異抄に聞く」
 第二章担当 日下部文典(蓮壽寺)

今月11月28日は村山まみ師(長岡市 願興寺)より歎異抄第三章をご法話いただきます。
どうぞお参りください。

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