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三条教区・三条別院 | 浄土真宗 真宗大谷派
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ブログ

朝の人生講座×「共食」の意義を考える

三条別院は盂蘭盆会を行わないが、盆明けの4日間、本願寺第八代の蓮如上人が最晩年に書かれた『夏(げ)の御文』4通の拝読にあわせ、「朝の人生講座」を開催している。早朝の6時からまだ涼しい本堂で勤行があり、その後輪番・列座による夏の御文拝読、法話という流れで、7時30分頃に終了する。これまで来てくれていた方々が高齢化してきたために参詣者がだんだんと減ってきたため、2017年から三条中央商店街のコロネットさんと相談し、三条別院とコラボしたオリジナルパンを創作していただき、そのパンと牛乳を配布した(それまではおにぎりとお茶であった)。これまで、御坊サラダパン(三条別院が御坊さまと呼ばれていることから、ゴボウ使用したもの)などを作っていただいた。

さて、この2019年は、三条市の福祉保健部健康づくり課食育推進室がこの活動に目をとめていただき、「共食」の一環として、旧御堂でパンと牛乳を食べませんか?と提案していただいた。私の中で何か響くものがあった。「これは仏教として大切なことなのでは?」

この「共食」とは「孤食」に対する考えで、身体機能が低下し外出機会が減少したり、パートナーと死別し孤食の頻度が増える高齢者などに、家族や友人、地域の人々などと共に食事をとる場を設けようという試みであるそうだ。当然、高齢者の問題だけでない。孤独は理解されづらい私自身の問題でもある。大勢の中にいる時の孤独は、1人でいる時の孤独とはまた違った辛さがある。

さて、本日はお盆の8月13日であり、私は、昨年入籍したばかりの妻に、「浄土」って何?という問答をされて、「なぜ誰もわかりやすく説明できないのか」と詰問された。私なりに説明してみたのだが、なかなか伝わらない。理解されない。妻は愛しいが、また例の孤独がもたげてくる。そこで私の中で、この「共食」ということで「浄土」説明できるのではないかとピンと来たのである…。

三条別院の事務所の柱に「えらばず、きらわず、みすてず」という言葉が掲示してあり、これは大谷専修学院の学院長をつとめられた竹中智秀師の言葉で、仏さまの心を示しているという。しかし、仏さまの心を実践して私たちも「えらばず、きらわず、みすてず」という心になりましょうというのは親鸞の教えではない!と言わる。ここがよく理解できないところで、難しいところである。私なりに解釈する。

私のある意味で尊敬する僧侶の先輩が専修学院で勤めていたころ、竹中智秀師に平素の不満をいろいろとぶつけたところ、師は「じぶんのことはいろいろいいから、だまって御真影(あるいは御本尊)の前で手をあわせてきなさい」と言われたそうで、その言葉がとても響き、1人で本堂で御本尊の前に座ったそうだ(正確なところはあとで確認する)。

 

このエピソードは、「えらばず、きらわず、みすてず」仏の心を示すものは「場所」、端的にいうと御本尊がある「本堂」として表現されているということではないか。僧侶であっても人である限り、人を受け止められないけれど、しかし本堂は受け止めてくれる。存在することを許してくれる。静寂がしめる、そこの場所にいることで、自分自身の不満がなにに由来するか、そう、自分自身にかえってくる。

僧侶は、自分自身が「えらばず、きらわず、みすてず」となるのでなく、たとえ自分が「えらんで、きらって、みすてた」としても、自分を超えたものとして(実際に自分よりも大きい)「場所」が大切にされてきたことを知る。誰でもいていい場所。それは自分の想いには左右されない場所。その場所を大切にしようとする心は、あってもいいのではないか。その場所は、具体的な形であらわすならば、本堂なのだ。本堂は浄土を示している。

釈尊入滅後500年ほどたち、大乗仏教が起こるに伴い、「浄土」を描く経典群が現れたと言われる。そのころから自分の内面だけではなく、「場所」ということを大切にしてきた歴史がある。それが今、本堂として表現されている。

だれでもいていい場所があってもいい!「共食」を三条別院でやりましょう! みんな集まりましょう。そしてなにより、昔からどこにも居場所がないのは、この私自身なのだから、自信をもっていえるのです。(斎木)

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