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三条教区・三条別院 | 浄土真宗 真宗大谷派
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廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。-第十七章-
TANNISYO

「『歎異抄』に聞く」を聞く

廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。-第十七章-

皆さま、नमस्ते(ナマステー)!

おっとすいません、ついインド訛りが…お約束ですね!廣河、無事インドより帰国しました。帰国して数日経ち、何故だかお腹ゆるゆるです!不思議だ…(汗)インドの報告記事はただいま鋭意執筆中ですが、「『歎異抄』に聞く。」も合わせて書いていたので、書きあがるのはもうしばらくかかりそうです(泣)楽しみにしてらっしゃる方がいましたら申し訳ございません!もう少しお待ちください。

さて、廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く、第10回目です。3月28日(木)に宗祖御命日日中法要が勤められました。その後の御命日のつどいでは、『歎異抄』をテーマに、第一章から順にご法話を頂いています。今回は三条教区佐渡組廣永寺(佐渡市相川羽田町)の大久保州氏に、『歎異抄』「第十七章」を主題にご法話頂きました。

大久保州氏。第九章ぶりです!今回も聞かせていただきました。

『歎異抄』第十七章

一 辺地の往生をとぐるひと、ついには地獄におつべしということ。この条、いずれの証文にみえそうろうぞや。学生だつるひとのなかに、いいいださるることにてそうろうなるこそ、あさましくそうらえ。経論聖教をば、いかようにみなされてそうろうやらん。信心かけたる行者は、本願をうたがうによりて、辺地に生じて、うたがいのつみをつぐのいてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うけたまわりそうらえ。信心の行者すくなきゆえに、化土におおくすすめいれられそうろうを、ついにむなしくなるべしとそうろうなるこそ、如来に虚妄をもうしつけまいらせられそうろうなれ。

【私訳】

辺地に生まれた人は、ついには地獄に堕ちるに違いないということについて。

この主張は、どのような経釈に根拠があるのだろうか。学者だといわれている人々の中から言い出されたそうだが、まったく歎かわしいことである。

経典や論釈などの聖教を、どのように考えているのだろうか。真実信心の欠けた念仏者は、阿弥陀の本願を疑うことによって、辺地に生まれ、疑いの罪を償った後、真実報土のさとりを開くのだと承っている。

真実信心の念仏者が少ないために、如来は人間が実感できるようなかたちで「浄土」への往生を多く勧められているのに、「化土(辺地)」へ往生することは無意味だなどと主張することは、如来に嘘言の罪を着せようとするおつもりなのか。

【語註】

辺地…念仏しながらも本願を疑い、自力をたのむ人の生まれるところ。

学生だつるひと…学生ぶるひと。

つぐのいて…つぐなって

化土…念仏しながら自力をはなれられない人の生まれるところ。真実報土に対して方便化土。

虚妄を~…うそいつわりを言われたようにしてしまうことになるのです。

第十七章は、「辺地に往生する人は、最後には地獄におちる」という主張を正すということに焦点があります。浄土教の救いの論理は、苦しみの多いこの「穢土(娑婆)」から楽の極まりない浄土へ往生し、そこでさとりを開いて仏になるのだと展開されますが、その途中というか、浄土のはずれには「辺地」というものが存在することも言われるのですね。娑婆か浄土かという二者択一の中間帯に、辺地を説く。もちろん辺地と言っても往生ですから浄土には違いないのですが、それは方便としての浄土なのです。「方便」と「真実」とは対の概念ですね。「方便」とは言葉であらわせられないものをあえて言葉や形であらわすという意味です。「たくみな手立て」というものが転じて、嘘も方便などという意味で使われるようになっていますね。阿弥陀如来の浄土は真実であり、どこかに実際にある場所ではなく、無形です。それに人間が触れることはできない。だけれども、それだと阿弥陀と人間との関係性、救いが成り立ちません。だから阿弥陀如来自身が、無形から有形に浄土を表現したものが「方便の浄土」であり、「辺地」なのです。

今回、大久保氏より第十七章の要旨をいただいておりますので、そちらをそのまま掲載致します。以下原文

 

「辺地の往生」(『歎異抄』第十七章より)

往生という以上は浄土という世界に生まれている。

ところが、浄土というものに無関心。浄土って何だ?って問題にしますか?

真宗の話を聞いているから、浄土とは?生まれる、生きる、生活すると往生が問題になるかもしれないが、日常感覚として浄土は問題になるでしょうか。

「辺地」

辺鄙な、中央からはなれた片ほとり

浄土の隅っこ。真実の浄土ではない。

「正信偈」では「報化二土正弁立」と言われるが、浄土を二つに分けたのではない。

浄土の片ほとりだから、浄土の中。本人は隅っこにいるにも関わらず、ここが真ん中だと思っている。

自分は今はこんなだけど、自分がいないとうまくいかないと思っている。

つまり、

自分のいる世界を疑ったことがない。

自分のいる世界を絶対だと思っている。

辺地とは、広い世界に触れたから、広い世界を経験した人の言葉

「懈慢界」

自分のいる世界は本当にいい世界だと自己満足している世界。そこから出ようという意欲がない。広い世界を求めて歩もうとしないから怠慢。不平を言っているわけじゃないから、周りから見ると悪くない。しかし、満足していることが実は怠慢だと。

「疑城」

自分のいる世界を疑っているのではなくて、もっと新鮮で展開し続け、歩み続けていくような世界、そんな世界があるのかと疑っている。

自分に誠実な者が、真実を疑う。真理を信用しない。自己を信頼する。

「胎宮」

母胎。三宝(仏・法・僧)を見聞しない。

信仰の名によって人を平気で裁く。それはもう信仰とは言えない。自己絶対化。

他の人が辺地・懈慢・疑城・胎宮にいるのではなくて、そこの住人は自分。

辺地懈慢界、それが地獄に堕ちると言うけれど、辺地懈慢界の浄土に生まれるのは地獄に堕ちるよりも怖いのだと。なぜか。地獄に行くと辛いから、たすけてくれということが契機になって出ることが出来る。だから下手な浄土に生まれると地獄よりも怖い。

以上原文

 

「下手な浄土に生まれると地獄よりも怖い」、特に印象的に私の中に残った言葉です。よく「わかったつもりが一番怖い」と言われることはあると思いますが、教えも同じではないでしょうか。自分がこれだ!と思ったことも、もしかしたら真実とは全く異なることかもしれないし、これは違うだろうと思ったことでも、実は真実かもしれない。私というフィルターを通している時点で、物事の本質、真実ということはぼやけてしまうのだと思います。それこそ、仏教というのは自我を超えてある教えなのですから、自我存在である私にわかろうはずもありません。

ではわかろうとする努力は必要ないのかといえば、そうではないでしょう。本物に出遇ったとき、真実に出遇ったときに、すれ違わないことがないように、わかろうとする努力は大事なことなのです。しかし、そこでわかった気になったり、仏教を自分の道具(仏教を盾に自分の意見を通そうとしたり、相手を貶めたり)にしてしまっては、それこそ辺地・懈慢・疑城・胎宮を生きている証拠ではないでしょうか。しかも、辺地・懈慢・疑城・胎宮を生きている自覚がなければ、辛い、助けてと救いを乞う縁すら生まれない。だから「地獄よりも怖い」と言えるのでしょう。

次回4月28日(日)の御命日のつどいでは、『歎異抄』「第十八章」をテーマに第17組真敬寺の藤田淳宏氏よりお話頂く予定です。どうぞお誘い合わせてお参りください。

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