どんな日も、どんな時代も、そばにある。

三条教区・三条別院 | 浄土真宗 真宗大谷派
三条教区・三条別院 | 浄土真宗 真宗大谷派

廣河が「『歎異抄』に聞く」で話す-第十三章-
NEWS

「『歎異抄』に聞く」を聞く

廣河が「『歎異抄』に聞く」で話す-第十三章-

おや、今回タイトルが少し違うな?と思ったそこの貴方。冴えてますね!「廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。」第六回目、今回は番外編となります。かなり希有な体験をさせていただいたんですが、今回の御命日のつどい、元々お話頂く予定だった村山まみ氏がご都合により来られなくなり、その場合本来であれば御輪番か教区駐在教導さんにお願いしましてご法話いただくのですが、なんと2018年10月の28日は日曜日、つまり教務所は一律お休みなのです。ちなみにややこしいのですが、別院と教務所で、休日規定ほか、労務規定なども別々なのですね。なので御命日は別院職員のみの出勤だったのですが、なんと頼みの綱の斎木主任も都合によりお休み!おやおやこれはどうなることやらと、まるで他人事のように構えていた廣河でしたが、前日27日の夜に、主任からお電話・・・。胸騒ぎを覚えつつ話を聞きますと、不安は的中。『歎異抄』「第十三章」をお話してくれないかということでした。一瞬放心してしまいました。しかし、主任たってのお願い、断るわけにはいきません!承諾し、その日は一夜漬けで「第十三章」の勉強をし、28日御命日の集いに臨みました。今回の経緯はこんなところです。正直、一夜漬けで勉強した内容をお話するというのは非常に心苦しく、参詣に来られた方に申し訳ないなとも思いましたが、今までに勉強してきた知識、経験を総動員して、自分なりに精いっぱいお話させていただきました。

徹夜明け、満身創痍の廣河です。

 

『歎異抄』「第十三章」

弥陀の本願不思議におわしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、往生かなうべからずということ。この条、本願をうたがう、善悪の宿業をこころえざるなり。よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。悪事のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり。故聖人のおおせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。また、あるとき「唯円房はわがいうことをば信ずるか」と、おおせのそうらいしあいだ、「さんぞうろう」と、もうしそうらいしかば、「さらば、いわんことたがうまじきか」と、かさねておおせのそうらいしあいだ、つつしんで領状もうしてそうらいしかば、「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、おおせそうらいしとき、「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と、もうしてそうらいしかば、「さてはいかに親鸞がいうことをたがうまじきとはいうぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と、おおせのそうらいしは、われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしとおもいて、願の不思議にてたすけたまうということをしらざることを、おおせのそうらいしなり。そのかみ邪見におちたるひとあって、悪をつくりたるものを、たすけんという願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいいて、ようように、あしざまなることのきこえそうらいしとき、御消息に、「くすりあればとて、毒をこのむべからず」と、あそばされてそうろうは、かの邪執をやめんがためなり。まったく、悪は往生のさわりたるべしとにはあらず。「持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきや」と。かかるあさましき身も、本願にあいたてまつりてこそ、げにほこられそうらえ。さればとて、身にそなえざらん悪業は、よもつくられそうらわじものを。また、「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり」と。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とこそ、聖人はおおせそうらいしに、当時は後世者ぶりしてよからんものばかり念仏もうすべきように、あるいは道場にはりぶみをして、なむなむのことしたらんものをば、道場へいるべからず、なんどということ、ひとえに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮をいだけるものか。願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよおすゆえなり。さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ。『唯信抄』にも、「弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくわれがたしとおもうべき」とそうろうぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにてそうらえ。おおよそ、悪業煩悩を断じつくしてのち、本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもいもなくてよかるべきに、煩悩を断じなば、すなわち仏になり、仏のためには、五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不浄、具足せられてこそそうろうげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を、本願ぼこりという、いかなる悪か、ほこらぬにてそうろうべきぞや。かえりて、こころおさなきことか。(『歎異抄』真宗大谷派宗務所出版部)

【試訳】

人間の思慮を超えた阿弥陀の本願が「悪人を救う教え」であるからといって、悪を犯すことを恐れないのは「本願ぼこり」であり、「阿弥陀の浄土へ往生することができない」ということについて。この主張は、阿弥陀の本願への疑いであり、善悪の行為が人間の思いを超えた無数の条件や契機に促されていることを理解していないのである。善い行いをしようという思いも、善を促す無数の背景や条件から起こってくるものであり、悪い行いが心に浮かぶのも、思いを超えた無数の背景や条件がそうさせるのである。いまは亡き親鸞聖人は、「兎や羊の毛の先にある塵のような小さい罪(チラッと心をかすめるような悪意)を犯すのも、すべて思いを超えた無限の因縁が背景にあると感知すべきである」とおおせられた。また、あるとき聖人が「唯円房よ、あなたは私の言うことを信じ受け入れるか」とおおせられたので、「もちろんです」と申しあげた。そうしたところ、「それでは、私が言うことに背かないか」と、さらに重ねて念を押されたので、誓って背きませんと申しあげた。すると聖人は「それではまず、ひとを千人殺してみなさい。そうすれば、浄土への往生は決定するであろう」とおおせになった。それに対して「聖人のおおせではありますけれども、たとえ、一人たりとも私のようなものには殺せそうに思えません」と答えたところ、聖人は「それでは、どうして私が言うことに背かないと言ったのですか」とおおせられて、「これによって、わかるでしょう。すべてのことが、自分の思うままになるのであれば、浄土往生のために、ひとを千人殺せと言われたならば、ただちにそうできるはずである。しかし、一人たりとも殺してしまうような宿業の深い背景がないから、殺せないのである。私のこころが優しく善良であるから、殺さないのではない。また殺すまいと思っていても、百人はおろか、千人を殺してしまうこともあるのだ」とおおせになった。それは、私たちのこころが善ければたすかるような存在だと思い、悪ければたすからないような存在だと思って、自分の善悪の基準に固執し、広大な本願によって善悪を超えてたすけられることを知らない、ということを教えてくださったのである。以前、親鸞聖人のおられたころ、間違った考えに陥ったひとがあって、「悪を犯したものを、たすけようという本願なのだから、意識的に、好んで悪を犯して、往生のための条件とするのだ」と言って、さまざまに悪いうわさが聞こえてきたとき、聖人がお手紙に「薬があるからといって、あえて毒を好んではならない」と、お書きになったわけは、その誤った考えを正すためである。そう言ったからといって、悪事が往生の障害であるというわけではない。「もし、戒律をたもつことによってのみ、本願を信じられるのであれば、私たちは、どうして迷い苦しみの尽きない生活を離れることが可能であろうか」 とおっしゃった。このように愚かな身であっても、阿弥陀の本願に出遇うことができてこそ、ほんとうの自信と自尊心とを得ることができるのである。そうであるからといって、身に悪事を犯す条件が備わらなければ、自分勝手に悪事などは犯せないものなのだ。また、親鸞聖人は、「海川に網を引き、釣りなどの漁業をして暮らすものも、野山に鹿・猪・鳥を捕っていのちをつなぐものも、商いをしたり、田畠を耕して生きるものも、まったく同じことである。このように自己のいのちの底深くからもよおしてくる条件が与えられるならば、どのような行為をもするものだ」と語られたのだ。このごろは、自分こそが真の念仏者だというような振る舞いをして、善人だけが念仏することができるかのように考え、例えば、念仏の道場に、禁止事項を書いた紙を貼り、「○○のことをしたものは、道場に入ってはならない」などということは、ただただ外見には真面目な念仏の行者を装って、内心には虚偽をいだいているものではないのか。たとえ、本願に甘えて犯した罪であっても、それは人間には知り得ないほど深い必然性の作用なのである。そうであれば、善いことも、悪いことも、思いを超えた必然性を受け入れて、ただただ、本願にすべてをまかせて立ち上がることこそが、他力の教えではないであろうか。『唯信抄』にも、「私のように罪深い身が救われるはずがないと考えてしまうのは、阿弥陀の救済の力が、どの程度のものだと考えてのことだろうか」と言われている。阿弥陀の本願に甘えるこころがあってこそ、絶対他力にすべてをおまかせする信心も定まってくるのである。そもそも、悪業や煩悩を完全に断ち切ってから、本願を信ずるということであれば、本願に甘えることもなくてよいのであろう。しかし、煩悩を断ち切ったならば、それは仏に成ったということであり、仏のためには、どのようにしても衆生を救いたいという無上の本願も無意味だということになるであろう。「本願ぼこり」はよくないと批判している人びとも、実は煩悩を抱えておられることであろう。それはそのまま、本願に甘えているということではないのだろうか。どのような悪を、本願に甘える「本願ぼこり」というのか、またどのような悪が、本願に甘えないというのであろうか。本願ぼこりでは往生できないという主張は、実に幼稚な考えではないだろうか。

【語註】

本願ぼこり・・・阿弥陀の本願に甘えて、思い上がり、いい気になること。「悪人をたすけるのが阿弥陀の本願だ」と受け止め、あえて悪事を行い、阿弥陀如来に気に入られようとする邪説。

唯円は、「本願ぼこり」の主張を批判しつつ、「本願にほこる」ことが、他力の信心であると意味転換していく。

宿業・・・無始已来(むしいらい)の行為や経験の蓄積が、現在の自己となっているという存在理解が仏教の立場である。したがって、現在の行為や経験は、過去の行為や決断の結果の影響を受けるが、「現在」は、善悪の両面の可能性を孕(はら)んでいる。「過去」に対する自己の責任感と、「未来」に対する安心感を包んだ概念である。

御消息・・・『親鸞聖人御消息集』(広本)第一通(『真宗聖典』五六一頁参照)を指す。

持戒持律・・・仏教徒の守るべき規範(戒と律)を保つこと。代表的な規範として五戒(生き物を殺さない・盗みをしない・嘘をつかない等)がある。

『唯信抄』・・・聖覚(せいかく)(一一六七年~一二三五年)の著。法然門下であり、親鸞の兄弟子。親鸞は、この書を門弟に対してたびたび勧め、この書の注釈書として『唯信鈔文意(もんい)』を著している。

五劫思惟の願・・・阿弥陀仏が菩薩としてはたらく姿を、法蔵菩薩という。法蔵菩薩は、五劫という永遠の時間をかけて、一切衆生を救う願いを発した。その願いのこと。これは『仏説無量寿経』に説かれている。

煩悩不浄・・・煩悩と不浄は、同義語である。『教行信証』「真仏土巻(しんぶつどのまき)」には「心もし有漏なるを名づけて不浄と曰う」(『涅槃経』「徳王品」からの引用〈『真宗聖典』三〇七頁〉)とある。「有漏」は煩悩の異名。

『歎異抄』「第十三章」は「第九章」と同じく親鸞聖人と唯円房の会話パートがありますね。ここで聖人の仰られている「人を千人殺してんや」から始まる一節は、聖人が思いつきで述べた言葉というわけではなく、『央掘摩経(おうぐつまきょう)』というお経で言われる、央掘摩羅(アングリマーラ)のお話が背景、出典となっています。興味のある方は調べてみてください。

さて、「第十三章」は「本願を信じた人は悪を怖れることはないというのは、本願にあまえているのであって、往生できない」とする見解を正す、というところに焦点があります。「本願ぼこり」の問題ですね。「本願ぼこり」とは、悪事を犯したものをたすける本願があるのだから、意図的に悪事を犯そうとする人びとのことを言っています。このことは当時、親鸞聖人の「悪人正機説」を逆手に取る人たちが増えたことが、問題としてあったことに起因します。

「悪人であればこそなお、浄土に往生できるのなら
悪いことをわざとした方が浄土に行けるんじゃないか」

などと考える民衆が増加したのです。
このことを咎めて、著者は親鸞聖人の出されたお手紙『御消息集』から
「薬あればとて、毒をこのむべからず」と仰った聖人の言葉を引いています。

え(酔)いもさめぬさきに、なおさけをすすめ、
毒もきえやらぬものに、いよいよ毒をすすめんがごとし。
くすりあり毒をこのめ、とそうらんことは、
あるべくもそうらわずとぞおぼえそうろう」(『親鸞聖人御消息集(広本)』真宗聖典 五六一頁)

【試訳】
「酒を飲み、その酔いも醒めぬ人に、また酒を勧めることは
毒を飲み、その解毒剤も効かぬうちに、また毒を飲ませるように
いくら解毒剤があるからといって、毒を飲んでも大丈夫だというのは
根本的に必要のない考え方でありましょう。」

ここで、「本願ぼこり」の人びとを批判していますね。ところが、『歎異抄』著者の批判の焦点はそこにはありません。最後には「本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不浄、具足せられてこそそうろうげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を、本願ぼこりという、いかなる悪か、ほこらぬにてそうろうべきぞや。」と述べて、「本願ぼこり」を批判している人びとにこそ焦点を当てています。

 

そしてまた、このような言葉ものこされています。

「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、
野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつなぐともがらも、
あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり。」

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」

人間の深い悲しみ、罪業性が、この一文で見事に言い当てられているように思います。

人間が、自分の頭で「こうしよう」「ああしよう」と、どれだけ計画したところで、何かの原因と条件が揃った時には、自分の意思を超えて、人は何をするか分からない。

ある日、人は、謂れもなく殺される日があるかも知れず、ある日、人は、謂れもなく人を殺す日が来るかも知れない。

「自分だけはそんな目に遭うはずがない」だとか、「自分だけはそんなことをするはずがない」と考えることは、「自分」が「自力」と約束しているだけの、根拠のないことなのでしょう。

私たちは、たまたま生まれ育った境遇や、現在の生活や人間関係が犯罪を促すようなものでないので、今は重罪を犯すことが思いもよらないだけなのです。もし、考えもおよばないような情況に追いつめられたり、犯罪を引き起こすような条件が周りにそろってしまったならば、自分も何をしでかすか分からない。このような罪業性をもつ我が身のあり方は、正しく「いずれの行もおよびがたき身」でしょう。そして、このような私だからこそ、救わずにおれないという弥陀の大悲に、頭が下がるということがあるように思います。

次回11月28日(水)の御命日のつどいでは、『歎異抄』「第十四章」をテーマに第15組光善寺の佐々木憲雄氏よりお話頂きました(過去形ですみません!)。この時廣河は、京都の真宗本廟(東本願寺)の御正忌報恩講団体参拝に引率として出張っていたので、代わりに子煩悩列座の小原暁さんに「『歎異抄』に聞く」を聞いていただきました!お願いし、記事も書いていただく予定です。番外編が続きますが、ご容赦頂ければ幸いです。

 

 

トップへ戻る